第13話
夏も盛り、空の眼が最も大きくなる季節である。
ハンナがへそ丸出しのTシャツにパンツ、というだらしない恰好で白くまアイスなどを食しつつ、うまいとおもっていると、ちらちらハンナを見ていたエーコがちかよってきた。地味なタンクトップとショーパンでこちらもまただらしない恰好である。
エーコはなんだかはにかみながら、ねえねえ、ともごもご言っている。
話したいことがありそうなので、ハンナは白くまアイスを食うのを中断し、どうしたのよ、と言った。
「私が描いている絵、あんじゃん。ずっと下書きのやつ」
「ああ、あれね」
「あれさー。描きたいのは飛行機なんよ」
「ああ、前言ってたね」
「飛行機。レシプロ機。ロッキード・ベガっていうの」
「れしぷろ?」
「今の鳥みたいな形の飛行機とかドローンって気持ち悪いじゃない、見た目が。人工筋肉使ってるらしいしかわいくないじゃない。百年前くらい昔の飛行機って丸くて形がかわいいのよ。プロペラとか」
「ああーそういうこと。形が好きなのね」
「そう。形がげっさ好きなの。乗ってる人がアメリア・エアハートっていう人でさ。その人もむっさ好きなの。あ、アメリア・エアハートは女性飛行士でさ。女性として初めて大西洋を単独で渡ったのよ。わたしはアメリア・エアハートが好き。短髪がかわいい。だから飛行機の絵を描いているの。今の鳥みたいなキモい飛行機じゃない、昔のレシプロ機。かわいいの」
「あ、そう。でもぜんぜんまだ描けてないじゃん。下書きもできないの?」
「かたちがわからないの」とエーコは力なく下を向いた。
ハンナはこいつマジか、とおもい言った。
「プラモデル買うとか、ネットで調べて画像か動画見ればいいじゃん。ぜったいどっかにあるよ」
「そういうのいやなの」
ハンナはマジでこいつなんなんだ、とおもったが、アーティストとはそういうもんなのか、なんて納得しつつ、
「ようわからんやっちゃな、いいから想像で描けばいいのに。好きなんでしょ」
「自分でも、なんか納得できないのよね。わからないのよ。描きたいのに描けないの」
ハンナはよくわからなかった。
エーコは続けた。
「アメリア・エアハートは空を飛んでいる時、自分が女性だということを忘れていたと思うわ。ただ純粋に、空を飛ぶのが好きだったのよ。そんな自由な感じをわたしは絵にしたい、のかもしれない。わからないけど」
ハンナだってエーコが何が言いたいのかよくわからなかった。
だが、「自分でもなんで頑張れないのかわからない」というのは、ハンナにとっても同様に、むしろ今までずっとずっと考えてきたことで、「本気を出す」とか「がんばる」とか「夢中になる」とかいろいろなパターンはあるのだけれども、ハンナ的には一度もそんな状態になったことが無いまま、これまで生きてきたのである。頑張ると人生に張りが生まれ、結果的に幸福度は増す気がする。だから対象は何でもよく、フラダンスであれカバディであれ、なにかしら頑張るというのこと自体が健康的なのだ。それに関してエーコはそれに自覚的で、ハンナは今まで無自覚であった。ハンナは味噌汁ひとつ作る作業に関しても、どこか味噌汁などどうでもいい、みたいな精神のままで、味噌汁に対する誠実さに欠けた作り方をしており、おねぎの切り方がいいかげんだったり、味噌の量が毎回ぶれたりしていた。飲む側の母は別にそんなことは気付かないので指摘されなかったのだが、毎回クオリティの違う味噌汁を作る時分に無意識で自己嫌悪していたのだった。
「よし、あたしがロッキード・ベガが飛んでいるところを見してあげよう。そうすりゃ描けるでしょう」とハンナはエーコに言った。
「そんなことできるの?」とエーコ。
ハンナはあたしがそれ知りたいよ、とおもいつつ、「まあ任せておきなさい」と言った。
ハンナは昔の飛行機を作る、ということはきっと大変だろうとおもっていた。頑張らないと出来ないとおもった。つまり、自分ががむしゃらに何かに取り組めるかもしれなくて、今までの自分を覆すチャンスであると感じていた。エーコのように、うまくいかなくても、何かしら夢中で努力したい。
「あのー飛行機作るとかってどうですかね」
ハンナはフィルとマルテに企画提案した。
「飛行機?」
ふたりは訝しんだ。急に何言ってんだこの女。
「いや、昔のかっこいい飛行機を復元してつくってぇ、レースに出るみたいな」
「はぁ。それでどうすんの」
「遠江のロゴつければうちの宣伝になるし、遠江飛行機って会社がグループにありましたよねぇ? 今エアレースとか流行りじゃないですか。レッドブルのやつ。優勝すれば遠江の認知度があがるかも、みたいな」
「ふん。なるほどね。ハンナちゃん飛行機好きなんだ。意外だね」とフィル。
「いやー、まあ、はい。好きっす。ロッキード・ベガってやつなんですけど」
「ちょっと検討してみようか。おもしろいね」
そう言ってマルテは会社上層部に対してプレゼンの機会を作ってくれた。ハンナは企画書とプレゼン資料を作りこみ、どのような広告効果が得られるか、どのようなイベントを仕込むか、ものすごくいいかげんな資料を作った。いい加減な資料をつくっている時点で既に全然頑張れてない。千葉でやるレッドブルのエアレースに出たら、話題になってすごい宣伝効果ですよ、的な当たり前なことをさもすごいことのように誇張した。またフィルはロッキード・ベガの制作資金をクラウド・ファウンディングで調達しよう、と提案した。表向きは、の話である。実際はロッキード社、遠江重工の二社で資本を出し合うと決定済みであるが、この飛行機はあくまで話題作り、ネットで話題にならないといけない。そこでクラウド・ファウンディングをバンドマンである河合マルテがやって、一般大衆から調達したことにしよう、と決めた。二億円の調達は日本のクラウド・ファウンディング史上最高額であるため話題になる。今の時代、注目されならなければやる価値が無い。
ハンナは出来ればどうだっていいよ、とおもっていた。
その後すぐに渋谷のソラマチに入っている東京本社ビルで、決裁権を持っている偉いおじさんたちへむけてプレゼンをした。もちろんフィルはすべて根回し済みで、もうやることは決まっているため、形式上やっただけである。
偉そうな各おじさんたちは美人で若いハンナにやさしかったので、それは単純にうれしかった。ある意味最も重要なその後の飲み会がまた長く、うっとうしいおじさんたちの会社内での人間関係事情などを聴かされなければならなかった。若い女の子と喋れるのはうれしいんだろうし、日ごろストレスが溜まっているのはわかるけれど、同年代ぐらいであろう義父との会話と比べると、あまりにも所帯じみているというか、端的に言えばくだらない世間話を長時間するという偉業を全員が成し遂げているのであった。
その日の夜は空の眼がまんまるでことさらに不気味であった。
エーコは教室の中、空の眼を眺めながらベッドに腰かけてギターを持ち、足をぶらぶらさせてハンナの帰りを待っていた。飛行機の絵は全然描けないままである。
エーコはギターの音を作りこむ。アンプのゲインを九時の方向に設定。高温は限界まで上げて中音と低音は全カット。リバースリバーブかけるのもいいけど、こういう尖った音もいいなぁ。とかおもった。
プレゼンは当然のごとく成功したようで、ロッキード社の偉い人にマルテが話をつけ、動画の撮影やエアレースへ向けて話はトントン拍子に進んだ。肝心のロッキード・ベガも社内のだれかが多岐にわたる部品会社に必要な部品を発注してくれて、遠江飛行機で只今組み立て中らしい。仕事の何もかもが、ハンナの手を離れて動いていた。空白の中心となったハンナはとりあえずエーコに、ロッキード・ベガが飛ぶとこが見れるよ、と伝えておいた。ふーん、なんて気のない感じだったが、じつはそわそわしているのが可愛らしく、ベッドにうつぶせに寝そべりながら足をぺちぺちしていた。ハンナはそのかわいらしい様をみてたまらなくなり、このおんなぁこのこのこのこの、と無意味な言説を吐きながら抱き着いてうしろから乳を揉むなどの戯れをきゃあきゃあいいながらしつつ日を消した。
今にも落ちてきそうな空の眼は夜空の五分の一を毎日律儀に埋め尽くして、教室のカーテンの隙間からハンナたちを視ていた。
二か月後、ロッキード・ベガはあっさり完成した。
ハンナは赤いロッキード・ベガを見たときのエーコの反応について、非常に屈託していた。なぜなら、外見は丸く呑気なフォルムの古いレシプロ小型飛行機を作ったのだが、実際は電気飛行機になってしまったこと。それはまあいい。問題は遠江重工という翼に入った大きなロゴをはじめ、車体に大量の企業ロゴマークやマルボロなどの商品ロゴがペタペタ大量につけられていて、エーコが望むような美しい飛行機とかけ離れていることである。反応の予想としては、「AKIRAのバイクみたいでかっこいい!」となるパターンか、「商業的でダサい。美的では無い。センス皆無」とアーティスト目線で言われるパターン。エーコがアニメの話をしているのはみたことがないので、前者より後者の可能性が高い。大好きな飛行機を飛ぶ広告塔にしやがってこのアマぶち殺す、と言われるのでは、とびくびくしていた。
「ほらぁエーコちゃん。誕生日プレゼントだよ。誕生日いつか知らないけど。かっこいいでしょう。まあ商業的なロゴだらけだけどみてごらんよ、この美しいフォルムを。どんな色より印象的な紅を。これが飛んだらさぞ勇壮なことでしょうね。これであなたの絵も完成に近づくのではないでしょうか。いや、急かすのが目的では無くて、エーコの芸術家としてのノリをアレしてくれてでいいんですけど……」不安をごまかすために喋り続けるハンナであったが、涙を流すエーコを見て一安心した。ほっとした。
「なにこれ、バチクソかっこいい……うれしい」
エーコはハンナのうでにしがみつきながらぴょんぴょん小規模に跳ねてよろこんだ。その低いジャンプのかわいらしさよ。ハンナは贈与の喜びをかみしめた。
「そうでしょー」
「ありがと、ハンナちゃん」
エーコはぐすぐすしながら泣き笑いでハンナに感謝の意を伝えた。
ハンナはほんとマジよかった、とおもった。
と同時に、特に自分は感謝されるほどなにもしていない、という違和感が心中にあった。正直発案とプレゼンと飲み会に一回出ただけで、各方面への根回しはマルテやフィルが、メーカーの人が設計から制作をすべて行っていて、自分がやってやった感を一番出していることに違和感を抱いていた。ネジ一本ハンナは締めていない。さらに言えば遠江はこの飛行機で広告効果を狙っているわけで、純粋にエーコの為に作られた訳では無い。だからありがとう、と言われるのはなんかちょっと違うよなぁ、と感じていた。自分がやったことなんてきっかけをつくっただけで、なにか巨大な動力にのみこまれているような気がしていた。会社における仕事とは、ひとりひとりのタスクが細分化されているので、手ごたえがいまいち感じられない。大きなプロジェクトの空虚な中心ってかんじで、不完全燃焼だ。頑張ろうと、意気込んでいたのに、相変わらず何もかもの手ごたえが無いままであった。
「これ、飛ばせるの?」
「そら飛ぶよ。めちゃめちゃ飛ぶよ。オートパイロットで素人でも飛ばせるんだって。乗ってみる?」
「怖いからいい」
「あ、そう」
ロッキード・ベガはずっと校庭に置いとく訳にはいかぬので、一度解体して調布飛行場まで運ばれていった。初飛行はずっとあとになってしまうが、その時こそエーコは絵を描くことができるようになるだろう、とハンナはおもった。とにかく自分は何かをやりとげたのだ。多くの人間の力を借りて、だったが。
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