第12話

 ハンナが目が覚ますと見知らぬ車内であった。

 外は夜の青と朝陽の橙とが混ざる時間帯、早朝のようだった。空の眼は西の地平から四分の一だけはみ出しており、車ははっきりと西へ向かっていた。頭に重油を何ガロンもぶち込まれたような鈍痛。いったー。痛いわ。着衣の乱れを直しているうちにアルコールに邪魔され続けた理性が復活し、しまった、帰らなければ、とおもい「ここ、どこですか」隣にいる男に訊くと、男は「茅ヶ崎だよ」とそっけなく答えた。

 ハンナは知っていた。茅ヶ崎、それは地元である平塚の隣の市である。渋谷から茅ヶ崎ってなんで?

 なんでこんなとこにいるのかと誰とも分からずに問うと、自分がいやになるようなこたえが返ってきた。隣に座っている男は昨晩のハンナの痴態を話し始めた。

 ライブ打ち上げの席上で、たかが顔面がいいだけでバンドメンバーからしたら初対面のハンナが、五合の吟醸酒をかっくらって正体をなくし、もう家に帰りたくないと号泣、聞くに堪えぬ母親や義父の悪口をさんざん誇張してぶちまけ、もう家出しちゃうんだから、と公言した。その内容は味噌山の小賢しい最近あった面白エピソードを熱量とビジュアルで打ち負かし、宴席での爆笑をさらった。その後も店を追い出され路上で喚き続けるなどした。このままでは逮捕、拘留の後に尿検査を受ける羽目になる、と困り果てたバンドメンバーは、我々が暮らす場所でひとまず介抱でもしよっか、と判断したという。渋谷から彼らが暮らす茅ヶ崎まで車で高速を使えば二時間である。

 いわゆるお持ち帰りである。期せずしてハンナは味噌山がやりたかったことを酒癖の悪さによって簡単に成し遂げたらしい。

「もうすぐ着くよ」と運転席で自動運転に任せつつこちらを振り向いて言ったのは昨日のライブではベースを弾いていた、卓球部と美術部の中間みたいな地味中年男であった。助手席にはドラムのウニみたいなはじけたパンクス風味の髪型の男がいる。そういう男は決まって顔だちが薄い。なんでだろうか。

 ハンナはおもった。まずい。乱暴される。ロックバンドなどは所詮異常性欲者の集まりなのだから。

 と考えたがハンナには力が入らなかった。

「味噌山さんは……?」

「終電だから帰るって言ってたよ」 

 置いてかれた。あんなデブもう友達じゃない。ちくしょう。ダサいバンドマンに輪姦される。ジョルジ助けて。何だこの不幸な人生は。頭が痛い。トイレに行きたい。シメサバと酒の旨味が激烈に豊かだったからこんなことに。ハンナはこの後悔の気持ちを「シメサバのうまみ」で終わる短歌で詠んでみようか、とか一瞬考えたがそんな余裕はなく、結局その後乱暴はされなかったのでよかったが、酔いと恥ずかしさでハンナは結局わけもわからず結局頭の中の重油が非常に不快なので車内で二度寝してしまった。

 

 なぜ音楽を聴くのか。

 それっぽい答えやかっこいい答えはたくさんあるだろうがすべて間違い。

 こたえは、「誰かが聴いていたから」だよ。

 うそだと思ったら自分の胸にきいてみな。

 ね、まちがってないでしょ。


 ハンナはずっとそんな男の声をぐるぐるしていた。

 目覚めると、うすぐらい周囲は見覚えのない、おもちゃやぬいぐるみ、アニメグッズなどが散乱したベッドの上だった。目の前がたくさんのおもちゃでうるさかったので見上げると高すぎる天井があった。バレーボールが挟まっている。なんで天井にバレーボールなんか挟まることがあるんじゃ、とハンナは憤った。ハンナは神経質に身体をさわると、なにもされていない。よかった、と胸をなでおろし、ここはどこかしら、なんてつぶやきながらあたりを見渡すと、すさまじく広い部屋のような気がする。っていうかここは学校の体育館である。体育館の端にベットパットが敷かれていて、ハンナはその上で寝ていたのだった。わが身を改めて確認するに、まずパサパサの金髪が焼酎で揉み洗いしたのかと疑われるほど酒臭い。また口の方も、昨晩食った酒肴にニンニクが大量混入していたのだろうか、非常にニンニキィな臭いがする。自覚できる程臭いのは相当である。乙女の不覚では片づけられないほどの醜態であった。

 あ、起きた、なんて笑いながら近づいてくるのは、件のバンドボーカルの男であった。小汚いハンナとは違ってぱりっと清潔な白シャツが起き抜けの眼に眩しい。化粧を落としたのでブラピの甘露煮状態とは見まごうほどに目元が涼やかであった。これはこれでよろしい、とハンナはおもった。かつてほのかに恋心を抱いていた、学校の担任であるベル瀬にも鼻と口が似ていた。彼が重たそうな扉を開けると陽光が薄暗い体育館に差し込み、中の様子が分かるようになった。

 体育館の中身は、ぐちゃぐちゃなオフィスであった。いくつかのオフィスデスクとディスプレイ、PC、椅子。それらの間に通路があるが、そこに落ちているのは、大量のケーブル、食べ物のカス、毛布、ペットボトル、電気ケトル、映画のポスター、何に使うのかわからない電球、キッチュな色彩の外国の人形、GIジョー、よくわからぬ電子機器、はんだごて、千羽鶴、絵の具、明らかに盗んできたであろう公共感あふれる看板群、食器、大量の本や画集、スターウォーズのおもちゃ。雑然と散らばって、すべてがチャーハンで混ぜてある。その中の雑多な毛布の中にくるまって寝ていたのが我が身である。なにやら情けない気持ちになり、ここ、どこですか、とオールバックにしたボーカルの男に尋ねると、

「ここはうちの会社だよ」と答えた。男のくせに若妻が白いシーツをふわっとひろげているみたいな華のある微笑みであった。その微笑みにつられハンナも、「ふふふ……」みたいな厭世的な冷笑を床へ向けてこぼし、非日常に興奮しているところを悟られぬよう、フランス映画の女優みたいに動揺しない感じに自身を演出しつつ、「ありがとう、頭が痛いわ」なんてこぼしてちらりとボーカルの男を流し目、ぽつぽつと状況を談じはじめた。

 男に訊くかぎり、どうやらここは、「遠江重工グループ」という企業閥グループのはずれに位置する、「遠江重工アドサービス」という会社の「Creative Lab」というしゃらくさい名前のサテライトオフィスであるらしい。よくわからない。Creativeと名のつくものは得体が知れない。Creativeと名の付くものはおしなべてクソ。恥を知れ。と、ハンナはおもっていたがもちろん言わなかった。

 聞くと少子化のあおりで廃校となった中学校の体育館を買い取って、オフィスとして使用しているらしい。業態としては「遠江」という有名企業グループの広報だそうで、ネットで遠江グループの印象をいい感じに保つのがお仕事内容、ということらしい。バンドメンバーは全員この会社の社員だとのこと。世間知らずのお嬢であるハンナもネット広告やニュースなどでこの遠江グループの会社群をなんとなく知っていたし、プロサッカーチームの背中や胸に「遠江」のロゴがあったのをハンナはおもいだした。その旨を男に伝えると、

「僕たちはネットが主なんだよね。サッカーとかは広報一課がやってるの。僕たちの会社は広報二課が社内ベンチャーとして独立分社化してできちゃったんだよね。それぞれがインデペンデントでありながら、このチームをどう動かしていくかを同じ視座で考えているんだよね。しかもプロジェクトに応じてフレキシブルに形を変えられる柔軟さもあるっていう」そう言って男は淫靡な遠い眼をした。何言ってるのかわからないが、ミュージシャンがミステリアスな印象を出したいときにするかんじであった。「ふーん、そうなんだ」と言ってハンナは男から目をそらした。なぜか。男の横顔に対して、おそろしく惹かれる自分に気付いたのである。昨日まではこのバンドはめちゃダサいとおもっていた。それはハンナがダサいとおもっている味噌山と同類になるのがいやだったからで、味噌山はなぜこんな男に夢中になるのだ、わたしは夢中になどならない、なぜなら私は理性的な公務員のお嬢だから、と考えていたのだが、いまとなってはこの体たらくで、胸がどきどきする、とはこの状態を言うのかしら、などと陳腐なことをおもう始末だった。バンドをやってるのに安定した会社に所属しているなんて、非常におとなっぽくて知性的である、とハンナは全肯定した。

「水飲んで落ち着いたらお帰りなさいよ。電車がもう動いているから。茅ヶ崎駅はあっちだから。じゃあおつかれさんさん」男はそういって顎で南方を示した。電車賃としてなんと一万円もくれた。その様がまたおとなっぽく魅力的でハンナは、心中でこのひと超かっこいいなぁー、ヤベェ、と快哉を叫んだ。何とも好ましい甘い香りが鼻腔を突いた。頭の中にあるもろもろのキャッシュがクリーンアップされてどんどんアホになっていくような感じがした。ハンナは鏡が無いので改善するはずもないがなんとか髪型をマシにしようと神経質に髪を撫でつけつつ、マルテに話しかけた。

「あの、広告の一環でバンドやっているんですか」

「そうだよ、スポンサー背負ってロックやってるの。頭おかしいでしょ。興味ある?」

「あります」とハンナは誠実な営業マンみたいな顔をしてうそをついた。バンドに興味は無く目の前の男にのみ興味があった。

 男はちらりとハンナを一瞥、その一瞥を察知したハンナは髪をしきりに整え整え、いちばん自信のある角度の顔を男に向けてディズニープリンセス的なぱちぱちまばたきをした。寝起きのひどい顔を見られているので無駄なあがきに近いのであるが、せめて眼に潤いを与えてうるうるの眼にしたい、との目論見があっての行為である。

「僕は河合マルテ。一応この会社の代表です。君は家がきらいなんだよね。俺もそうだったから気持ちすごいわかるよ。バイトなら募集しているからよかったらおいでよ、この会社へ」

 そう言われてハンナは、やった、やったやった、とおもった。思慮深さや警戒はすべて銀河の彼方へと消え、ぜひこの男がいる環境に身を投じたい、あわよくばお友達になりたいと考えた。

「あの、バイト、おねがいします。マジでなにもわからないけど。学校もやめます」

 うん、いいよ、とめっちゃいい声でマルテはうなずいてまた花*花のような微笑。

 ハンナはたまらんな、とその凛々にわなないた。

 ときめきの渦中にあったハンナは、このタイミングをもって蒔岡のお嬢から恋する家出フリーター少女となった。


 河合マルテ。

 奇妙に清潔で魅力的な男であった。バンドマン兼社長という、遍く女なら股を開きたくなるような肩書を持つ男であった。味噌山の気持ちが今になってわかる。

 ハンナは初恋の相手はこうでなくっちゃ、とよくわからない自足をし、今後のことに関し考えた。ジョルジ経由で母と義兄に連絡し、茅ヶ崎でいわゆるフリーター生活を営む、学校は除籍してもらう、なんて可能であろうか、と考えたが、ジョルジがあたしが暴れたり泣いたりすれば間に入っていくらでも調整してくれるだろう、という甘々な見通しの結論に至った。事実その通りになり、ハンナは十八歳にして自立する目途が立ったのである。

 ジョルジにお気に入りの紬や浴衣、フィギュアのコレクションに実父の小説等々の私物を茅ヶ崎まで運んでもらった。

「お兄ちゃんはあたしが家を出ることについて何か言ってた?」とジョルジに訊くと、

「いえ、なにも」と答えた。

「ああそう」

 ハンナはなんだか悲しかったが、それよりも気づまりな蒔岡の家を出られたことがうれしかった。母から離れて自立するのだ。ひとつひとつ自分の服などを整理していく瞬間瞬間がみずみずしく、わくわくした。蒔岡から逃げ出せる。やっぱうれしい。


 茅ヶ崎の海にほど近い中学校跡は、四階建ての校舎、体育館と校庭があり、草ぼうぼうに荒れ荒れの花壇とかもありつつ、遊具も錆び錆びで、見た目廃墟といってもよかったが、インフラは生きており、電気水道、ガスまで通っていた。特徴的なのは後者の屋上にヨーロッパの教会風の鐘塔があり、立派な銅製の鐘がつられていた。校舎のあちこちにある意匠から察するに、キリスト教の女子高だったらしい。

「ハンナちゃんの住むところは悪いけどこの廃校の教室でよろしく」とマルテは言った。彼の話によると、既に校舎には先住人がいるらしく、一緒に住んでほしい、とのことである。

 ハンナは正直マジかよ、とおもったが、はい、と素直に無邪気な感じを出しつつ言った。

 こうして、ハンナは廃校の中に住んでいる女の子と、ふたり暮らしをすることとなった。

 ハンナは自分の部屋が欲しかったのであるが、マルテ曰く一人で廃墟に居るのは精神の健康上よくないとのことだったので、半ばひきこもりとなっている、ある女性社員の妹が暮らす、教室へと向かった。なんでこんなとこ住まなきゃあかんのよ。

 四階のいちばん端っこ、廊下の突き当りの右側の教室。「3-1」と書いてある教室である。廊下周辺は掃除が行き届いており、きれいであった。

 教室の扉を開けると、そこにはクイーンサイズのベッドがあり、ビリー・アイリッシュをおもわせるダボダボの服を着た、うろんな印象の女の子がそこに腰かけていた。なにやら絵を描いていた。ガラガラガラ、と大きな音で扉が開いたため、ハンナは「あっ、ごめんなさい」と言うや否や、ダボダボの服で絵を描いているのはあの昨夜のステージで唯一魅力を放っていたギタリストの女の子だ、ということにすぐに気づいた。もう一度会いたかったあの子だ、やった、とおもった。

「どうも。わたし、エーコっていうの……」

 自分の名前さえ自信が無さそうに言った娘はすぐに目線を下に落とした。

 なるほどひきこもりである。社会の隅っこ感が半端ない。目にまったくポジティブな光が無い。闇の中に目があるようだ。彼女はライブ中でのあの自閉的な様子をさらに何倍にもしてハンナの目前にたたずんでいた。

 ハンナの学生時代ふりまいていた偽物の虚無とは大違い、本物の退廃的女子だ、とおもった。あらゆる挙動に不幸の影がいつもまとわりついていた。化粧っけのない細い眼と白い肌にだぶだぶの服。まさに存在そのものがアート感を出しており、ハンナは自分が無個性な女であると見せつけられているように感じ、彼女に出所不明の劣等感を抱いた。

「エーコっていうんですか。どうもー。あたしは蒔岡ハンナというケチなガキです。今日からここで一緒に住ませてもらいたいんだけど……いいですかねぇ?」とハンナは親しみやすい感じを出そうと努めた。

「いや、マルテから聞いてるし全然いいけど……ごめん、ここ超絶汚いね、お掃除するね」

 そう言ってエーコはのそのそと掃除を始めた。ハンナは前もってやっとけばよかったじゃん、と言いたい気持ちを抑えつつ手伝った。だがエーコがコロコロやクイックルワイパーなどの掃除道具を探すところから手間取っているところを見ると、ほとんど掃除をやったことが無いようであった。ひきこもりニート特有のアジリティの欠如が、せっかちなハンナにとっては新鮮だった。アーティストとはこういうものなのだなぁ、とおもった。ハンナが考える「こんな感じになりたかった女の子」の具体例が目前にあった。ハンナが見る限りエーコに掃除の才能は皆無で、ペットボトルなどを不必要に移動させたりしているだけで、ちっとも物をまとめたり、捨てたりする気配が無い。基本的にはハンナが作業をし、捨てていいかどうか判断するのをエーコが担った。なるほど、この子社会不適合だわ、なんておもいながら作業しつつもエーコを観察した。ベッドに座って足をぶらぶらさせているこの娘、あたしと同い年くらいだろうか。

「二十歳だよ」とエーコは言った。

 なぜ心が読めるのか、とハンナは驚いた。

「そんな何歳だろうか、みたいな顔してましたか」

「してたよ」

「……このゴミは捨てていいですか?」

「ダメ」

「これは」

「ダメ」

「ぜんぶダメじゃ全然きれいになんないんですけど」

「……」

 ハンナはゴミに紛れてデカいトンボの死骸らしきものを見つけ、ぎゃあ、と言って戦慄した。だがそれは作り物のブローチだった。ハンナはむかついた。

「あーびっくりした。このキモいオニヤンマのブローチなんですか?」

「あ、それほしい?」エーコはすこしうれしそうになった。

「いらない。捨てていいですか?」

「……だめ。超がんばって作ったから」エーコはまた目線を下に落としてがっかりした。

 それからハンナは床に散乱している大量のエフェクターやシールド、絵の具チューブや少女漫画などと格闘を続けた。

「この少女漫画、全巻そろってないんですけど」変に几帳面なハンナはエーコに尋ねた。マンガは左から順番に並べて、巻数がそろってないとなんだか気持ち悪い。

「きらいなシーンがあったから何巻か捨てたのよ」とエーコ。

「……さいですか」

 ハンナは果たしてこの子と気が合うだろうか、とちょっぴり心配になった。

 ゴミ袋は六個になった。三つずつもってゴミ捨て場に捨てに行った。


 そんなこんなで二時間が経った。机の無い教室はかなりきれいになった。二人暮らすには十分な広さなはずなのだが、クイーンサイズのベッドをど真ん中に置いてあるのでまあまあ狭い。話し合いの結果、教室の黒板側半分をエーコゾーン、ロッカーと掃除用具のある側半分をハンナゾーンとすることにした。ベッドは共用部として使用する。

「一人で使うには広すぎたからちょうどいいわ。きれいになったし」

 そう無表情でエーコは語った。んんー、と伸びをしながら、身体が固いのか可動域の少ない体を小規模にぶんぶんしてストレッチするエーコはかわいらしい。小柄な割におっぱいが大きいのでハンナはうらやましかった。

 一方エーコはハンナの美しい顔と伸びきった猫のような細長身がうらやましかった。つまりお互いに印象は良かったといえる。

 結局掃除はすべてハンナがやった。エーコの日常生活における無能さは母をおもいださせた。

「疲れたね、お茶でもしばきましょう。コーヒーと紅茶どっちがいい?」とエーコは言った。あんた何もしてないやんけ、と汗だくのハンナはおもった。ハンナが汗で顔に髪の毛をひっつけて労働者然としているのに対して、エーコは涼し気な顔で貴族って感じの顔をしている。

「あたしは冷たいのがいいです」

「あ、そう」

 ハンナはバスケ部みたいな勢いでウーロン茶をがぶ飲みしつつ訊いた。

「エーコさん、昨日ギター弾いてましたよね」

「うん。まあね。エーコって呼び捨てでいいよ」とリプトンのティーバッグをカップの中で上下させながら答えた。

「ならば遠慮なくエーコ。あたし見てたんすよ。マジ感動して。だからここにいるんですけど」

「そうなの。ギターの人が風邪で急きょ代役としてでたの。ひとりでテロみたいな演奏をやるつもりだったの。迷惑かけてやろうとおもって。二曲目でやりたいように演奏したらおいだされて超怒られた。もう完全敗北よ。二度と出てやんない。アシッドジャズは気取っててきらいなの」とエーコは言ってぷりぷり怒った。ハンナはそういう場の空気を読まない態度ってアーティスティックでかっこいいなぁ、とアホ丸出しでおもった。

「マジあれなんなんですか、すごい音だった」

「あれはね、ああいうのが好きなのよ。リバースリバーブかけまくったノイズなんだけどね。ってわかんないよね。吹っ飛ばすような音」

「なにを吹っ飛ばすんすか」

「いろいろ。憂さ的なもの。だるいもの」

「工業機械みたいな音でおもしろかったです。ばばばっばばああばばああーーーみたいな」

「ふーん。もっとぐぎゅいいいいいいいいいーーーーんんん、っごおおおおおって感じにしたいんだけどね。まあいいか。……そう。でもうれしい。ほめられたこと無かったから。ありがとう」

 ハンナは教室の端に無造作に片づけたキャンバス等の画材の方をみやって言った。

「エーコは絵も描くんですか?」

「うん。『絵も』っていうか、そのふたつしかできない」

「どういうこと」

「『ギターで変な音を作ること』『油絵を描くこと』以外はなんにもできないんだよね、本当に無能なのよ。あたし。ちゃんと生きていける能力が無いんだわ。しかもどっちも下手で社会で通用しないのよ」

「掃除は下手だとおもいましたけどギターはなんかすごいとおもいましたよ」

「普通の人はあれをすごいとは言わずに怒るんだよ。すくなくとも食えないよね」

「あのギターと絵が描けるだけで十分ですよ。すごいですよ。あんたはすごい。あたし星のカービィだけは狂気的なほど描くの上手いけどそれ以外なにも描けないっすよ」

「ありがと。絵もそんなうまくないし全然おもったように描けないんだけどね」

 笑いなれていないのかエーコはンゴっ、と豚鼻鳴らしつつわらった。

 その後もハンナとエーコは会話を楽しんだ。お互い会話のスタンスや笑いの感覚などが合うので非常に楽だった。

「エーコのいちばん好きな食べ物なんですか?」

「ウインナー入ってるパンだね」

「あれおいしいですよね」

「世界一うまいよウインナー入ってるパンって。正式な名前知らないけど。ハンナは食べ物なにがすきなの?」

「スナック菓子全般っすね。あとアイスのチョコ系なら何でも好きっす」

「あー、一番うまいよねー。わかるわかる」

 エーコは喋るのに飽きたのかハンナに気を許したのか、背を向けてベッドに寝ころがってしまった。喋るのが苦手で疲れているのかもしれない。

 ハンナは朴訥ながら素直な反応をするエーコが自分や母とは違って宝石のようにおもえた。やりたいことがあって、頑張っているエーコがうらやましい。エリクだってそうだ。彼は日本すべてを背負うべく生きている。じゃああたしはなんなのか。エリクのようにもなれないし、この子のように一芸に秀でることも無理そうだ。ハンナはなんだか自分がくだらないもののように感じていやな気持になった。自尊心の回復が急務であると感じた。そこで、エーコに、あなたも素敵よぅ、顔面がかわいいわぁ、みたいなことを言わせようと、あえて自虐的な言葉を吐こうとおもった。

 ハンナがそういう自虐的なことをいうと、それを聞いたひとは概してお世辞を言う。ハンナちゃん美人だからいいじゃない、スタイルいいしさー。みたいな。それで自尊心を回復するのをよすがとし、初対面でこの類の自虐をする人は多い。うっとうしい人種である。

「あなたに比べたらわたしにはなんも取り柄が無いわ」ハンナは自嘲的にほほえんだ。

 エーコは寝返りをうってハンナ方を向き、顔と身体を舐めるように見た。

 来る。お世辞が来るはず。っていうか来い。来るのだ。我が精神を回復せしめよ。

「そうなのね」とエーコは言った。

 お世辞来なかった。ハンナはガッカリし、若干の怒りを覚えた。そこは「そんなことないよー。あなたは私よりかわいいわよー自信もってよー」みたいなのが来るはずだった。

 肩透かしではあったが、ハンナはお世辞の概念に欠けたエーコに好感を持った。この同居はうまくいく。そんな予感があった。エーコには、自分は特別な才能や能力がある人間である、と勘違いしている人間特有の気持ち悪さが無かった。好きな食べ物ひとつとっても気取ったところが無い。

 エーコの方は、ハンナよりもさらにおもっていた。この娘は自分と違い性格が爽やかで勤勉だし謙虚で好ましく美しい、とハンナが知り合った誰よりも感動していたのだが、それを反応として外に出すのが恥ずかしかった。恥ずかしいので、常備してあったチョコスティックパンを二本たべた。おいしい。


 この日からハンナは学校に住んでいるという新機軸のひきこもりであるエーコと同居し、同じ廃校の体育館に出勤し働くという奇妙な生活が始まった。

 ジョルジが一度校舎まで来て、エーコに挨拶、ハンナと母やエリクの様子を一言二言交わして、安心して帰る、みたいなことが何回かあった。とりあえず蒔岡の許可は得られたらしいので、晴れてハンナは自由の身となったのだ。母の様子が若干気になったが、ジョルジさえいれば大丈夫だし、もう自分なんかあの家にいない方がいいだろう、とおもった。

 オフィスの代わりである体育館には大体七~八人が毎朝出社していた。基本的にシェアオフィスみたいなもので、職制次第では必ずしも毎日出勤しなくてもいい。デザイナーなどは会議が無い限りめったに来なかった。ハンナはバイトでしかも事務職員だったし、そもそも職場が徒歩一分だったので毎日出勤した。なぜならマルテもかならず居たからである。ハンナとマルテ以外は、毎日出勤する社員は三名だけだった。

 まず遠江本社に籍を置く担当部長である「フィル」と言う男。本名では無くあだ名である。

 なんでフィルかというと、彼は米人と日本人のハーフで、出身国である米国でアメコミ映画を監督したことがあるからだ。フィルムのフィル。そのまんまである。彼はベースも弾く。先日のライブでもベースを担当しており、帰りの車を運転していたのも彼である。サラリーマン然としていて地味な顔つきをしているおじさんだった。遠江本社のマーケティング・ブランディング顧問も兼任しているらしく、彼の承認がなければなんの決済もできないので、実質的にはマルテの上長でありこの会社のトップであった。マルテはこの小会社の名ばかりの社長で、権限はすべてこの男が握っていた。ハンナにも適切な距離を置き、いわゆるちゃんとした人だという印象を持った。

 次にライブでドラムをたたいていた、「お寿司」という若者。これもあだ名で、前職が寿司屋だったからそう呼ばれているらしい。今はバンドと子供向けの動画配信をやっている。ウニの殻のようににつんつんに尖らせた、無教養の極みみたいな頭をしていた。ハンナは飲み会の時などよく話したが、元気がいいだけで人間的な魅力が皆無で、屁のような男であった。

 最後に、エーコの姉であるフーコである。妹とは顔と体型が似ているが、どこか疲れたような化粧の濃い顔だちと、うっとおしいロングヘア、露出度の高いぱつぱつのスーツに高いヒールを履いている。彼女がこの会社のすべての事務処理を行っており、もっとも負荷が高そうであった。ハンナは彼女のバックアップとして雇われたのである。フーコは低血圧な感じでハンナに対して表面的に優しく相対したが、妹ほどに気が合わず、仲良くはなれなかった。


 ハンナの仕事はフーコが主に担当している、見積作成やら外注先への発注処理やらクライアントへの請求やら事務作業を手伝うことであった。この会社は今までフーコが死ぬ思いをしながらこなしてきたから廻っているのであって、仕事を徐々にキャストされていき、ハンナは少しずつ忙しくなっていった。

 マルテの仕事における要求は厳しかった。明日までにこれデザイナーに発注しておいて、とか納期に間に合わない、とかざらである。

「事務に慣れたら広報の仕事もやってもらうから。よろしくね」そうフィルはハンナに言った。

「広報の仕事ってなんですか?」とハンナが訊くと、

「遠江の名前をネットの目につくところに出せばいいんだよ。マルテはバンドの曲をyoutubeにあげてるでしょう。お寿司は毎日おもしろい動画を作ってネットにあげてる。それをやればいいんだよ。お給料増えるよ」と言った。

 ハンナはお寿司の動画をひとつも面白いとおもったことは無かったが、まさか自分もやることになるとはおもわなかった。

 それからのハンナの毎日は小忙しくなった。まだ慣れない事務処理と並行して、とにかくネット上での影響力を増やすのが仕事であった。

 ツイッターやウェイボーで毎日自分がユニークだとおもうことや好きな映画のシーンについてつぶやき、インスタグラムで毎日着ている服の写真を撮り、抽象的な趣旨のわけの分からぬイベントに顔を出しこれまた抽象的な感想をブログに書き、とにかく活動、アウトプット、活動、アウトプット。ネットで話題になればよろこび、ならなければ落ち込んだ。ただ、どこかむなしい。ゴミをネットに投げ続けている様に感じていた。


 ハンナは教室内のベッドに寝転びつつエーコに言った。

「やっぱネットの人はバカが多いのね」

 エーコはいつも通り絵を描いていた。時々お茶をいれて若干冷ました後、うまそうに飲んだりしていた。ハンナがネットに大量のブログを書いたり、動画を上げたりして、批判やクソリプと喧嘩しているのに、エーコはまだ一作も描きあげていない。まだ白いキャンバスに下書きの段階である。何を書こうとしているのかわからない。

「そうなの」

「そうだよ、セクハラめいたメッセージとか、嫉妬まるだしの悪口とかさぁ、いやんなっちゃうな」

「それをやるとバカなの」

「だってそうじゃん、意味ないじゃんそんなんしても」

「たいしてあたしたちと変わらないよ。あたしの絵もギターも意味ないよ」

「そんなことないよ。クソリプよりかはよっぽど高尚だよ」

「ギターも絵も上手くならなきゃぜんぜん高尚じゃないよ。やっても大体の人がダメダメなんだよ。ネットみてればわかるでしょ。大体の人は才能ないし頭悪いんだよ。わたしも超絶クソバカだよ。どんどんバカになっていくよ。でも自分だけはバカじゃないと誰もがおもいたいんだよ。ひどい世の中だよ」

 エーコは諦観に満ちていた。きっと自分には何の才能も無い、とおもっているのだ。ギターも絵もエーコより上手い人はたくさんいる。

 ハンナは、自分には容姿以外誇れるものがなんにもないからマシだよ、とエーコに言いたかった。何かに挑戦しているだけいいではないか。そして義父がホワイトボードに書いて見せてくれたベルカーブのグラフをおもいだした。なにかを為すことができるのはグラフの右端、人類の五%だ。あたしたちみたいなあとの九五%の凡人は、すごい人たちを称賛したり、憧れたり、むかついたり、ネットでコメントつけたりするのが関の山。みなあらゆる情報に囲まれている。それにすぐアクセスできる。でも出来るだけで活かせない。ほとんどの人間はなにも出来ず、訳の分からぬまま適当に働いて死ぬのだ。

 だが義父とエリクだけは違う。彼らは国を背負って苦しんでいる。何かを為している。あたしはそんなんしんどいからできない。でもそういう感じが欲しい。なにかに一生懸命になりたい。特別になりたい。いまのままじゃ人間として情けない。世間に役に立っている気がしない。エリクとなにもやっていない自分を比べると、情けないのだ。

 エーコはキャンバスの前でうんうんうなっていた。

 ハンナはそれをうらやましいな、とおもいつつみつめていた。

 エーコの絵はずっと下書きのままだ。構図が決まらないらしい。ハンナがなにを描きたいの、と訊くと、ひこうき、と力なく語った。

 ハンナは、オニヤンマといい空を飛んでいるものが好きなのかな、とおもった。エーコにプレゼントするとしたら、なにか空を飛ぶものがいいだろう、となんとなく決めた。

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