第4話
こうしてハンナは世の中に数十人しかいない、公務員の娘になった。
母娘ともに顔面が上等なので、いずれ出世するのは自然の摂理で当然である、とハンナは考えていた。我々のような見目麗しい母子が、七畳の部屋で人生を終えるなんてことはあってはならない。今頃あの部屋には不細工な家族が住んでいるであろう。それが世の常である。あなめでたや。マジ美女なめんな。
ハンナが屈託していた未払いの請求書群は、義父がさらりと支払った。それを切り出す際の母は卑屈な半笑いで、下賤な貧民そのものであった。
蒔岡での暮らしは彼女たちの想像を超えていた。
まず家族と一部の下人共が生活する巨大な洋館は、大量のLED照明を持ってしても照らしきれぬ闇がそこかしこにあった。またハンナと母はこの邸宅の全容をつかむことを半ば諦めていた。部屋数は百を超えるし、どこも似たり寄ったりで覚えられない。専用の蒔岡邸マップアプリをそれぞれの端末にインストールし、ようようお風呂場やらトイレの場所などの必要不可欠な箇所を覚えた。とはいえ慣れるまで時間がかかったし、ふたりともよく邸内で迷子になった。
外の庭園にはLEDなどという野暮なものはない。夜になると完全なる暗闇である。母が夜の庭園内に猫を発見、テンションが上がり、闇の中へ手を伸ばした先にぴんぴんに尖った松の葉があり、中指を刺してめっちゃ血が出たよ、なんてこともあった。
ハンナは蒔岡邸の中でメインの洋館よりちょっと離れたところにある和館を好んだ。畳の部屋が十五ほどあり、いちばん広い部屋は三十畳ほどで、乱取り稽古でもできそうな広さである。そこでハンナは伸びきった細く長い手足を投げ出して転がり、壁にかかっている華やかな加賀のれんを眺めつつ無為に時を消すのが好きだった。また和館には船型の檜で出来た小さな風呂があり、ハンナは洋館の瀟洒な大浴場よりもやはりこちらを好んだ。
また蒔岡邸には数多くの美術品がそれとなく展示されていた。義父の趣味か、陶器や刀剣などが多い。専属の下人共が毎日手入れを行っている。床の間に飾ってある刀剣の類は定期的に研ぎにやっているようだ。陶器の類は廊下の隅などにライトアップされて鎮座、蒔岡邸のそこかしこにある闇を埋めるように配置されていた。柿右衛門の新作が増えたり、季節に合わせて配置を変えたり、義父の目利きによって絶えずアップデートされており、出入りの美術関係業者などがひっきりなしに義父の元を訪れて来た。和風趣味だけではなく、義父はジャクソン・ポロックのデカい絵を衝動買いするなどして、下人たちをざわつかせることもあった。ハンナが彼らにお茶を出したりすると、審美眼があるのかそれともおべっかか知らぬが、決まってハンナの容姿を褒めてくるので、やだーおじさんうれしーい、なんつって調子に乗っていた。
そんな美意識の高い蒔岡家に影響されたのか、ハンナの母は見違えるほどに美しくなった。加齢とともに質が落ちてしまった外見を、母付きの下女たちが急ピッチで再建し始めたのだ。この闇の多い邸宅の中で、母は美術品同様に光であるよう期待されているようだった。渋谷に初上陸した日の母は、惨劇そのものといえる格好をして、しかもそれに気づいていないし、なんなら自分はおしゃれなのでは、という勘違いをしているという救いようの無い感性を持っていたが、センスだけ良いが顔面は並以下、ってな感じな蒔岡の下女たちのサポートにより豊田章夫もびっくりの改善に次ぐ改善、大物公務員の妻としてふさわしい外見を手に入れるべくプログラムが組まれた。
母はかねてからの長時間労働により乱れていた生活習慣を改め、下女に申し付けて栄養状態をコントロール、敷地内のジムに通い、ランニング、筋力トレーニング、エアロビクス、ヨガ、金魚運動などに時間を費やした。
ハンナも影響されたのか、母にならいおっかなびっくりおしゃれやダイエットをしてみようと試みたのだが、しかしてハンナは運動ぎらいで、服も地味好みであったし、すぐに飽きて母が汗だくになり鬼の形相で金魚運動をしているのを冷めた目で見るようになった。懸命に努力している人間をダセぇ、と軽蔑する傾向がハンナにはあった。それは何事も一所懸命頑張れない、という自分への言い訳であった。朝からスピッツのベストアルバムを大音量で聴きながらヨガをしている母の様を見かけた。ハンナは、母がアホみたいなポーズをしながら、そらもぅとべぇるはずぅ、と機嫌よく口ずさむのをみて、あんたにゃ飛べないよ、とおもいつつ鼻白んでいた。
蒔岡に来て数週経ち、努力の甲斐あってもともと素材がよかった母はさらに美しくなった。全身は引き締まり、十代の娘のような肌を取り戻した。和館に収納されているベージュの結城紬に群青の帯を締め、平塚時代は洗いざらしで生えるに任せていたぐねぐねの白髪交じりの髪を、まっすぐまっくろに染め、蒔岡家お抱えのセットサロンできれいに結った。三十路後半でとうがたった感は隠せぬものの、娘のハンナからみても、母は周囲の空間が歪み陽炎の様に匂い立つような、若者のものとも中年のものともいえない独特な色気をはなっていた。特に常に半開きで見ようによってはアホにしか見えない口元から、白痴的な淫を感じさせた。色白の母が暗闇の多い蒔岡邸内に居ると、彼女の白い顔だけが淡いLEDの光をよく反射して観察者の瞳孔に届き浮かび上がり、その顔面の造形美と何も考えていなさそうな表情が、能における面の機能がごとくこの世ならざるものの様に思われるのである。その怪しいまでの美しさにあてられたのか、視線が合うだけで精神をおかしくする若い下男が続出した。母の美貌に慣れるまで時間を置く、なんて気遣いを下人の長であるジョルジがしなければならぬ事態となった。同性の下女は嫉妬するのがあほらしくなる、それくらい奥様はきれいだわ、なんて噂していた。このようにして外見が完成した母は、蒔岡という舞台装置に完全に調和したのである。庭園の池傍で和装に日傘を持ち、鯉や亀に餌をあげてにこにこしている様はこのうえなく優雅だった。
「なんか最近いいじゃん」とハンナは母の外見を素直に褒めた。
応接間でファンタオレンジを飲んでいた母は、みずからの左拳に接吻をし、後左拳をハンナに向けて言った。
「サンキュウ」
白痴的唇から白痴的言動で答えた。米国の黒人ラッパーの形態模写であった。
いくら美しく生まれ変わっても、ダセえウエストポーチをつけていた頃と変わらず、母の未だ頭の中はカラのままだわ、とハンナはおもった。
ハンナも同じく和館に収納されている浴衣やら袴を下女に命じられるままにことごとく着替えてみたのだが、母程しっくりこなかった。年若のわりに一七〇センチと背が高く、顔も濃いほうなので和服が似合わない。のびっぱなしの髪をきれいなおかっぱにして、薄紫色の浴衣に黄色の帯の組み合わせを身に着けると、濃い顔と爽やかな色合いがなんとか調和して辛うじて見れることがわかり、これをひとまずお気に入りとして定期的に着用しよう、ときめた。その姿を母に見せると、キモい日本人形みてぇだな、とファンタ片手に雑な悪態をつかれ、うっさいわ、あんたこそ和服でファンタばっか飲むな、とじゃれあったりした。
彼女たちは仕草等にも気を配るようになり、かつては、アシャーン! と工業機械のごとく、クシャミを豪快に飛ばして笑いあっていたのだが、蒔岡に来てからは、ちゅん、ちゅん、とミュートしたハイハットのような音で控えめにするようになった。
次に驚いたのは、蒔岡家の下人共の数である。ハンナは詳しく調べていないが二百人は下らない。ハンナはかかる身分の人間の存在を知らなかった。彼らは義父とエリクに忠実で、全員がしかるべき教育を受けた日本人だった。そして彼らは父やエリク、新しく家族になった母とハンナに非人間的なまでに尽くした。ハンナはこの家で最も異常なのは下人の存在だ、と思った。人間は平等なんだよ、だから参政権をみんなに分配するべきなんだよ、なんて毎日平塚駅前でがなっているおっさんやネットのしょうもない言説に軽く洗脳されていたのかもしれない。
ひとくくりに下人、と呼んでいる者どもの中にも階級があって、執事長と呼ばれるジョルジという男がいた。レッド・ホット・チリ・ペッパーズを全員足して四で割ったような顔をしていた。義父やエリクが執務室にこもっている時は、ジョルジはハンナにかまってくれるので、自然ハンナはジョルジと仲良くなった。大人の友達は初めてで、しかもすべてのわがままも聞いてくれるので、彼は十三歳のクソガキにとって誠に都合のよい存在であった。彼が驚いたり痛かったりする時に見せる目を剥いた表情がハンナの特殊な嗜虐趣味にハマり、ことあるごとに腹を蹴ったり、足をかけて転ばせたりしてその表情を引き出すことにハンナは腐心、晴れて成功すると自分でも大げさだなと思うほど笑うのだった。ジョルジはハンナがいくら嘲笑的なスタンスでも、笑って許してくれた。傍から見ると大人の男が娘に蹴られてばかりいるという、ソフトSMのような良くない領域に入りつつあった。
ある日、ハンナが屋敷の三階にある屋根裏でフィギュアで遊んでいた時のことである。ハンナは窓を開けて、フィギュアにポーズをつけるなどの遊びに興じていた。
すると風が吹いた。ハンナはヤベっ、とおもった。
窓の真下にある植え込みに、数十年前に制作された平成特撮の傑作「仮面ライダーアギト」にでてくるキャラクター、仮面ライダーギルスの十六分の一フィギュアを落としてしまった。
ハンナはあーあ、と言った。ううむ、自分で階下に降りて取りに行くのは面倒だし、しんどい。とおもった。
そこでハンナはジョルジを携帯端末で呼び出した。
すると、どうかしましたか、とジョルジがすぐに屋根裏までやってきた。
フィギュアを下に落としちゃったんよ、とジョルジに伝えると、彼は一笑の後、今取りに行ってまいります、と答えて階段で窓の下へ降りようとした。
ハンナは意地の悪い笑みを浮かべそれをとがめた。私は今すぐ仮面ライダーギルスを愛でたいのであって、これは真にいますぐじゃないと我が精神に多少なり損害が生じる。わたしの精神に損害が出るのはいけないので、ジョルジには窓からとびおりてフィギュアを回収、のち壁を上って急いで戻ってきてほしい、マッハでよろしくね、との旨を述べた。
しょうもないわがままを言う娘である。ジョルジを困らせて悦に浸ろうとにやにやしていた。
するとジョルジはわかりました、と一言、窓の方に近づいて何やら下の方を検分しはじめた。一番ダメージの少ない飛び降り方を模索しているようだ。
自分で命令しておいてハンナはおどろいた。ハンナは別にギルスのフィギュアをいち早く愛でたい訳では無かった。むしろギルスは別に好きではなく、主役であるアギトの方がフォルムが洗練されていて好きであった。ギルスは外見が気味悪く、変身後も強いんだか弱いんだか分からず、かかと落としが決め技でしかも食らった敵が爆散するという理解不能さがいやだった。以上の理由から、かかるフィギュアをいちはやく愛でたい、というのは嘘である。
では、なぜそんな嘘をついたのか。
ハンナはジョルジにわけのわからぬ無理を言って、暇をつぶそうと考えていたから。だがそれも自分自身に対するいいわけであって、無意識的にはジョルジが自分の為にどれだけ無茶をするか試してみたい、というおもいの表れで、悪趣味な実験が本意だった。どれだけ自分がお嬢さまで、どれだけジョルジが下人なのか知ろうとしたのである。自分の根性の悪さを自我のレベルで認めないハンナは悪餓鬼であった。
そんなことを知ってか知らずかジョルジは、承知しました、と言ったのち、窓下の状況検分を終え、納得したと同時に飛び降りた。ハンナはあっ、と声をあげて、この段階で初めてジョルジの身体を心配した。正しくはジョルジがこれでけがをした場合、自分の立場はどうなるのか、という心配をした。
わがままなお嬢様感を出してみたかったという、あさはかで程度の低い願望のせいで、ジョルジがケガをしてしまうかもしれない。むしろ頭部をぶつけたりしてお亡くなりになる可能性もある。それはまずい。おこられてしまう。おこられるどころの騒ぎじゃない、正直あたしはジョルジ大好きだし、そんなんで死んでほしくない。なんてことをしてしまったのだろうか。しかしながらあたしは十三歳、そういう倫理的な欠陥があっても世間様、主にネットとかから責めらるるところは少ないだろう。お嬢気質のガキと忠臣が起こした悲劇として、かえって美談になるかもしれない。ジョルジの死によってあたしは反省し、世界を回って同じように高いところから落ちて死んだ人に対して弔いの行脚をするのがいいかもしれない。墓に手を合わせて、遺族にお気持ちはわかります、あたしの大切な人も高いところから落ちて死んだのよ、なんて涙を流しながら遺族と慰めあったりして。後に聖女として現代のナイチンゲール的な扱いを受けられるかもしれない。あるいはジョルジ頭をぶつけてもかろうじて生きており、脊髄損傷、半身不随なんて障害を抱えるなんて状況になった場合。そしたらわたしは彼を献身的に介護しよう、それが世間に知れて、後に聖女として現代のナイチンゲールとして……
そんな都合のいい自己欺瞞的妄想をハンナがぐるぐるしている間に、ジョルジはその巨体をものともせずにひらりと着地、あおむけになって空を仰いでいたギルスのフィギュアを回収、壁をよじ登り屋根裏部屋までもどってきた。
おまたせしました、と言って執事服についた砂をはらったあと、ハンナにフィギュアを渡した。服が汚れたので着替えてきちゃいますね、と一言、アホみたいな顔でぽかんとしているハンナを置いて部屋を出ていった。三階から飛び降りても案外ケガしないのね。下がふかふかの土だったのかな。ハンナはそう理解した。
遠くでカラスがにわかに鳴いた。渋谷の繁華街でゴミをあさっているやつらだった。ハンナはカラスは呑気でうらやましい、とおもった。朝渋谷を上から眺めて、ときどき、カー、とか鳴きつつ、どこにいい感じの生ごみがあるか検分するのはさぞ楽しいであろう、とおもった。
その後ハンナは己が為に窓から飛び降りたジョルジの手前、ギルスのフィギュアで遊ばざるを得なかった。ジョルジへの償いの為、全力で仮面ライダーギルスの声真似をしながらフィギュアで遊ぶふりをし、結果声真似が無駄に上手になった。ぐあああああおおおおお。ぐあああああああおおおおおおお。ジョルジはそれをほほえましいなぁ、とおもいながら見つめていた。ハンナは虚心この上無し、という心持ちであったが、内心ジョルジの身体が無事に終わったことにほっとしつつも、彼の不自然な忠義に戦慄していた。
こいつらはあたしが死ねと言ったら死ぬんか。
その戦慄の対象は、ジョルジの異常性よりか、ハンナのバックボーンである蒔岡家の威に対してであった。
ハンナの罪悪感は消えず、虚しい声まねは小一時間続いた。 ぐあああああああおおおおおおお。
このように下人共の長たるジョルジは、蒔岡家の最忠臣だった。常に義父、あるいはエリクの周囲にかしづいている。優先順位は明確で、義父、エリク、母、ハンナの順であった。ハンナのなんか油性のペン持ってない? とか、ハサミどっかにない? 等のばかばかしい要求にもすぐに答えた。母の「七人の侍が出てくる映画ってなんてタイトルだっけ?」などの狂った質問にもすばやく、「『七人の侍』のままでいいんですよ」と食い気味に答え、ググればいいじゃん、と言うことも無く完璧に対応する俊敏と寛容を持ち合わせていた。
ただ一度だけ、ジョルジがハンナの要求に気持ちよく答えぬことがあった。
とある気持ちよく晴れた午前中のことである。
学校が休みで暇を持て余していたハンナは、和館で寝そべって奇声を発しながらオリジナルの踊りを考えたり、下手な紅をさしてみたりしていたが、すぐに飽きた。
ハンナはローティーン丸出しのきまぐれな好奇心を発揮して、和館の入口の真裏をのぞいてみることにした。あまりひとりで庭をふらふらしちゃだめですよ、とジョルジに釘を刺されていたが、ハンナにとっては釘でもなんでもなくカンフル剤みたいなものであった。
和館の裏へ回ると、半径十メートルほどの円形にカラーコーンで囲まれた、不自然な地面のへっこみをみつけた。角度の浅い巨大な蟻地獄のようで、円形に苔が吹っ飛んでおり、きれいに整えられている椿やら楓やらがここにはなく、まるはげで、土もぐしゃぐしゃのままだった。
ハンナは此方はなんぞ、とおもった。
これは先般エリクの言っていた、ぐしゃぐしゃのゾーンだな、と思い出し、なんで隙のない日本庭園にこんな不格好な領域が存在するのだ、と普段はものぐさなくせに、変なとこが几帳面なハンナは憤った。
ハンナは本館へ戻り、下人に掃除の指示などをしているジョルジに、和館の裏のぐちゃぐちゃにへこんでるのはなんなんよ、と訊いてみると、
「へこんでるからへこんでいるのです」とつれなく腹立たしいだけの回答が返ってきた。
いつものとおりハンナは、駄々をこねながら非難してやろう、とおもったが、ジョルジの表情をみてぞっとした。
そのとき、ジョルジはものすごい形相をしていたからである。夜叉のようであった。怒りで顔が吹き飛びそうであった。ジョルジは次の刹那にはその表情をやめて、いつものファニーフェイスにもどった。「なんで一瞬怖い顔したのぉ?」と訊くこともためらわれた。
ハンナはなんだかこわくなった。この家には隠されていることがある。
この日以降ハンナはジョルジにも節度を持って接するようになった。
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