第3話

 ハンナは現時刻をもって蒔岡ハンナと名乗ることになったらしい。この白髪の男が義父となるのだ。母が嫁ぐ蒔岡家は名家で、当主たる義父はボロボロの格好をしているが、日本国で最も重要なポストにあるらしい。ハンナは、あんな汚いおっさんがマジか、とおもった。だが母曰くネット番組で義父を見ない日は無いとのこと。日本政府の代表として外交の場に出ることも多い。なぜなら彼は学者よりも官僚よりも賢い、えげつなく優秀な公務員だからだった。


 車は広い道路から次第に狭い道へと入っていった。渋谷駅前のゴミゴミした雰囲気から一転して、窓から眺める風景が落ち着いていき、ハンナが見たことのない豪邸だらけゾーンへと突入した。露骨に広告と情報量が減り、つるんとした静寂の中を車はゆっくり走った。

 車酔いしつつあったハンナは、義父に許可を取って窓を開けた。鳥の声が聴こえるくらいでとても静かだった。

 入り組んだ狭い道の途中、車止めと警備員二名が通行を阻んでいた。

 義父が顔を窓から出すと、彼らは大げさにうなずいておつかれさまです、なんて言いつつ車止めを急いでどけた。

 このような警備員が塞ぐ関所のような場所が入り組んだ住宅街の中で三つ続いた。その光景を見るたびにハンナと母の緊張は増した。


 ようやく目的地であるものものしい構えの蒔岡邸正門へと着いた。

 個人の家に門なんてあんの? とハンナはおもった。

 車は警備員二名の視線を浴びつつ、巨大な木製の楼門をそろそろと低速でくぐっていった。

 楼門の二階にも真面目な顔をしてモニターを睨んでいる警備員が居てハンナは笑ってしまった。あそこでなにしてんのあの人、と母もつられてなんとなくへらへら笑った。楼門はいかにも和風で機械的な感じはなかったが、実際は小型センサーの塊で、母の「なにしてんのあの人」という母の声は警備員すべてのインカムに聞こえていたし、熱、音、振動、重さ、放射線、など、門を通過する物質のあらゆる情報をこの門は集めていた。体温から口臭まですべて高感度のセンサーで測られている、そんなことは知らず、母娘はのんきに笑っていた。笑うしかなかった。母が先ごろまで食べていたポッキーの甘味料の香り、ハンナの発汗、体温、車酔いの進行度合い、すべてのデータが集められていた。

 蒔岡邸は高さ三メートルほどの塀と広大な庭に囲まれた大邸宅で、南米やアフリカなど治安の悪い地域の富裕層が住む、いわゆるゲーテッドハウスである。ハンナがこれから暮らすところだった。どうやら蒔岡邸はJR渋谷駅から五〇〇メートルほど西に位置するらしく、塀に囲まれた部分すべてが敷地であった。塀の内部への入口は一つしかなく、先ほどの楼門だけである。周囲を巡回している警備員はテーザーガンとアサルトライフルで武装していた。壁は「チンコ」や「アナル」などの下品な言説の落書きであふれており、ハンナの知らない漢字や英単語での醜悪な悪口が描かれていた。警備員たちは落書き行為は不問としている様だった。蒔岡邸の周囲はけして平和ではないということはハンナでも理解できた。しかし、しょぼいマンションからこんな大邸宅に引っ越すことになるとは。ハンナは母が実父と離婚したあと、すぐに再婚するという話を聞いた時、内心いやだったことをおもいだした。せっかく母と二人になれて自由を満喫していたのに、あたらしい他人が入ってくるのかよ、とおもった。だがその時のハンナはここまでラディカルに環境が変化するとはおもわなかった。イメージとはぜんぜんちがった。ふたりは個人のレベルではないなにかにのみこまれたような気がしていた。

 車がゆっくりと楼門を抜けると、ふたりの眼前に広大な日本庭園が広がっていた。おどろいたハンナはここは公園じゃないのん? と義父に尋ねたが、すべて義父の私有地だときいてさらにおどろいた。枯山水の石庭に松林やら梅の木やらおめでたい感じの回遊式日本庭園である。よく手入れされていてきれいだけどイヤミなほど派手ではない、とにかく広大な敷地だ。庭の中心は複雑な石組みに囲まれた見事な池で、中ノ島に飛んできた鷺が、けぇん、と鳴いた。白砂がまかれてハンナの背ほどの青松がぽつぽつと配置されているシュールな印象の領域があった。ひときわ闇の濃い、葉のこすれる音が涼やかな竹林もあった。また庭中には数え切れぬほどの石灯篭がそこかしこに配置されている。猫が狭い石灯籠の中に入り込んでこちらを見ているのをみつけ、ふたりは嬌声をあげた。やだぁー、超かわいいー。超かわいいー。その後も猫が庭じゅうを歩き回っているのを見かけたので猫好きなハンナはあの猫の名前なんだろう、と当初おもっていたが、のちにこの家には百匹ちかくの猫がいると知り、名前を覚えるのを諦めることとなる。ブチ猫が枯山水の円を描いた美しい砂紋を全く崩さず、その上をしなやかに歩いていた。

 車外の見事な景色に夢中な母を横目に、ゆったりした後部座席で足をぶらぶらさせ、慣性によって脚の腱が伸びる感じを楽しんでいたハンナは、ふと母と話したくなった。こんな広い庭、個人が所有するのはお金持ちというレベルを超えて異常である。母も同じ気持ちだったのだろう、となりに座るハンナに顔を近づけて話しかけてきた。

「すごいお庭だよね、作った人頭やばいんじゃないのかな」

 いくら小声にしても母のすぐ隣には庭の持ち主である義父が居るのでまる聞こえである。そういう配慮が彼女はできない。アホなのだ。

「うん超広いね。ネコがめっちゃいたよ。激烈にかわいかった。是非あとで撫でたい。あとでっかい池にカメもいた。これが家なの? すごいね、最初総合公園かとおもった」とハンナは答えた。ここでハンナがいう総合公園とは、平塚市総合公園のことである。平塚という街出身の人間は広い公園といえば総合公園であり、それを聞いた母はハンナの狭い世界と発想がなんだか悲しかった。自らの困窮と低い知能のせいでつまらぬ労働に明け暮れ、娘の教育に一銭も割けなかったが、これから娘には色々な経験を積ませてあげたいわよね、なんておもった。

「あたしも話にきいてたけどこれほど広いとはおもわなかったわ」

 まだ午前中だというのに既に表情に疲れが見えた。このおばはんのスタミナの無さよ、とハンナはおもった。

「おかあさん、なんか映画みたいだね。すごい昔のやつ、この前ネットで観た、つまんなかったけど」

「なにそれ」

「なんだっけ、おかねもちの人に貧乏な女の人が気に入られるやつ」

「あぁわかった、プリティ・ウーマンでしょう。ジョディ・フォスターだっけか。あんな若くないよぉ。貧乏なのは合ってるけど」

「ジュリア・ロバーツじゃなかった? 口がでかくてなんか顔こわいひと」

「すげぇ昔に観たからわすれちゃったよ。でもどっちにしろ似てないでしょう」

「顔じゃなくて境遇が似てるよねって話よ。外見は全然ダメでしょ。最近のお母さん、ほんとダサいしキモい、服がダメ。下品」

「えぇ……けっこういけるとおもうけどなぁ。だめぇ? この服」母はおどけていった。いやいやいけないよ、あんた顔以外やばいよ、とハンナは母のウエストポーチを見つめながらおもったが、もう口には出さなかった。母は頭も悪いし、いい年だし、恰好はダサいし、子持ちだし、いいところは顔だけ。義父は母の顔だけに惚れたのであろうか。そうだとしたら義父もなかなかしょうもない人間だ、とハンナはおもった。

 ハンナと母は軽口をたたいてお互いに緊張をほぐしあうことに成功し、改めて窓の外に意識を向けると、まだ遠くに見える小高い丘の上に巨大な洋館があるのを見つけた。

 これからふたりが住む洋館は想像を超えた大豪邸であった。三階建ての重厚なテューダー様式、本館だけでも全貌がつかめない広さで、左右に広がり紅葉の林に隠れてしまって見えないが、子供であるハンナにとって建物がどこまでも続いているようにみえた。

「ああ」

 屋敷を目にした母がうめくのを見て、彼女がおびえているのがわかった。今まで暮らしていたアパートとは大ちがい、彼女が屋敷のすべてを把握するのは不可能だろう。それが彼女にとって憂鬱なのは声色からして間違いなかった。なぜなら彼女は以前住んでいた七畳と五畳半二間の部屋でさえキャパオーバーしていたからだ。どこに何があるか完全に把握しているのはハンナだけだった。

 一方ハンナは幼さからくる好奇心を隠すのに精いっぱいで、初対面である義父の手前あんまりはしゃいでない風を装いつつ、内心ではしっかりとはしゃいでいた。このおうちめっさ素敵じゃんか。わくわくするなぁ。はやく猫と遊びたいなぁ。

 それが庭と屋敷に対する、母とハンナの正反対の精神の表れだった。いずれ、反転することになる。


 ともあれふたりはようやっと蒔岡邸に到着した。

 車止めに停車し、庭に入ってから屋敷までバカみたいにゆっくり走って時間をかけた運転手をにらみつつ大仰な石畳を歩き、階段五段ぶんくらい高くなった正面玄関へ、母と手をつないで最初の一歩を踏み入れた。この玄関なら馬に乗ったまま入れるだろう。家というかいつかネットでみた高級レストランのようだ、とハンナはおもった。

 内部は窓が少ないためか暗い印象で、白漆喰の壁に様々な形状をした電笠をつけた照明が落ち着いた明るさに調整している。床は複雑な組木模様になっており、直接寝ても気持ちよさそうな赤いビロードのカーペットがその上に敷いてある。

 ハンナは義父に案内されて玄関入って左手すぐの応接間に通されると、自分が車に酔っていることにいまさら気づいた。

「おかあさん、酔ったわ」

「ああ、くすりね、乗る前に飲んどきゃよかったね」

 母は持っていたバッグから子供用でもよく効く酔い止め用マイクロマシンをあげた。

 それを飲んだハンナの胃から静脈へと勤勉なマイクロマシンが泳ぎ脳まで到達、酔いはすぐにおさまったが、緊張はおさまらなかった。

 ハンナが今まで住んでいた部屋の十倍ほど広い応接間の中には、革張りのソファと暖炉があった。池に面した壁がガラス張りになっており、見事な庭をめちゃリラックスして眺めることができた。紅茶とか飲みながら四季おりおりの庭園を眺めることができるなんて、想像するだけでも優雅である。どうやら応接間から見る庭が一番美しい角度のようだ。雲間から太陽がまばらに差し、庭園の苔の緑が濃かったり薄かったりしている。つい最近までクーラーの無い五畳半間で日がな不得意なプログラミングに精を出していた日々とは、比べ物にならぬ生活がこれから待っているのだ、と母はおもった。

 外をずっと眺めていると、義父がふたりに近づいてきた。「二階からは人工の滝が見えるんですよ」と言った。よれよれの上下スウェット姿が豪邸の中で明らかに浮いている。

 ここは滝もあるんか、と衝撃を受けたが、別に鯉じゃないんだから滝を見てもうれしくはならない、とハンナはおもった。

 母はソファに座って空中の一点を見つめぼうっとしている。移動と緊張で疲れたのだろう。アホな子供みたいに無力でかわいらしかったが、ちょっと危なっかしいくらい放心していた。白目をむいている。どれだけ豪邸にびびっているのだろうか。ハンナはできるかぎり母のそばに居てあげて、出された茶を飲むなどしていた。

 その後ちょっと周囲の人間どもがドタバタしたあと、義父が下男、下女たちを各十名ハンナたちに紹介した。執事服と和式メイド服を着た男女が順番にハンナたちに挨拶してきた。家のことはすべて彼らに訊けばわかるらしい。

 とはいえ彼らはハンナたちの身の回りの世話をする係であって、義父曰く屋敷全体では数百名の下男下女が勤めているそうだ。母もハンナも絶対に覚えられない。

 みな、「初めまして奥様お嬢様、○○係の○○です」という自己紹介で、特にユーモアとか個性は必要とされていないらしく事務的に終えた。おおむね顔面は美しくも醜くも無かった。ただおしなべて著しく生気に乏しく、声はか細かった。

 下男下女達の長たる執事長で、名前をジョルジという大柄な男があいさつした。彼は熟練したホテルマンのようにイヤミではない程度の作り笑いで義父の座るソファの近くに控えていた。先ほどの車を運転していたのもこの男だった。ハンナは珍しく初対面の大人の男性に極めて直観的に好印象を抱いた。顔がおもしろかったし、ハンナに対しても、お茶じゃなくてジュースにしますか、って下手に出てくれてうれしかったのである。

 下人たちを紹介されるにあたって、はい、はい、よろしく、えへへ、などとひっくりかえった小声で対応する母をみて、ハンナはなんだかなさけなかった。

「最後にエリク、うちの長男です」と義父が言った。

 この世の業を一身に背負ったような顔つきの青年がぬうっと現れた。

 青年はなにも言わずに頭を下げた。

「こいつは私と同じ公務員を目指していて、四六時中勉強しているから、ほうっておいてください」と義父が続けた。

「はぁ、ごりっぱですねぇ」と母がゴミみたいな返答をした。

 エリクは義父の前妻との子である。母にとって義理の息子であり、ハンナにとって義理の兄である。最もナイーブなところで、ここが雑ではまずいとおもったハンナは、あんたしっかりしてよ、という意味を込めて母の脇腹を肘で強めに小突いた。すると「いった、なによあんた、クソが」と母は言った。この人なにもわかってない。

「どうも、よろしくおねがいします」そんな低レベルな母娘のやり取りを無視して、エリクは運転免許証の写真のような無表情とちぐはぐな丁寧なことばであいさつした。彼の視線はハンナや母を捉えず、書物以外のものに焦点を合わせることに戸惑っているようだった。

 ハンナは公務員という職種について想いをめぐらせた。良く知らなかった(良く知ってる職業など無い)が、公務員について解説している動画をみたことがある。日本の政治形態に批判的なYouTuberのものだった。YouTubeで政治的な意見を述べるのは再生回数が増えるから良策であると、ハンナはネットでみたことがある。

 寡頭政を採用しているこの日本で公務員になるには、苛烈な競争と無間地獄の様な試験を潜り抜けなければならない。誰よりも深く広い知性を身につけたものだけが参政権を持つことができる。政治家の質が落ちすぎて今の様な制度に変わったのが二〇三〇年。日本国は民主政をやめて少数の公務員が政治を運営する寡頭政に切り替えた。AIにおける技術革新の影響が非常におおきい。日本は貧乏な国だけど、蒔岡リュウゾウを代表とする一握りの優秀な公務員と、彼らが書いた行政AIと、そのAIが主導する国策複合企業体のおかげで、なんとかうまくやれているらしい。そのYouTuberは日本は民主主義に戻したほうがいい、公務員にしか参政権がないのはよろしくないとおもう。独裁反対。という結論で四分の動画を終えた。

 ハンナは日本も昔は選挙だけで政治家を選んでいたらしいけど、ハンナや母の様な何も知らない人間が政治に関わる権利を持っているなんて、馬鹿げた制度を採用していたものだ、とおもっていた。アホの票のせいでアホが政治家になったら大変じゃないか。ハンナと母もアホだと自覚していた。怠惰で間抜けな人民だった。義父や公務員の卵であるエリクとは、人間の出来がそもそもちがうのだ。そんなやつが政治に関わっちゃいかんよな。


 義父は息子のエリクをハンナたちに紹介したあと、子供同士で遊んできなさい、と下知してハンナとエリクを外に追い出した。ハンナは母と離れるのですこしいやな気持ちになった。背の高いエリクの顔を見あげると、ハンナ以上にいやそうな表情をしていた。彼はまだ午前中だというのにひどく疲れた顔をしていて瞼が常に痙攣していた。肌が土色で、とても人生を楽しんでいる人間には見えなかった。


 エリクに屋敷外の庭園を案内してもらうこととなった。

 玄関から外に出ると、空は薄い雲に覆われ、雲の切れ目からは弱々しい太陽光が松の木に薄い複雑な形の影を落としていた。

「ひとまず、庭を一周しようか」とため息のついでみたいにエリクが言った。

 エリクはハンナの顔をなかなか見てくれない。ハンナは己が容姿にはかなり自信があった。社会の中でもいわゆる美少女的な立ち位置にいると自覚的であった。なのになぜ見ない。ホモなんか。

 エリクは十八年の生涯の中で会った最も美しいとおもった女性が義母になり、二番目に美しいとおもった女の子が義妹になったことに青年期の男子らしく心中舞い上がっていたが、厳格な父の手前舞い上がっているところを丸出しにしたらおこられてしまいますよね、という判断のもとに、舞い上がってない感じを出そうと苦慮していた。散歩してこい、という命令はそこを父にすでに見抜かれているのでは、といらぬ心配で肝を冷やし、始終なんともいえぬ変な顔をしているのであった。

 ハンナは彼の三歩ほど後ろを歩いた。人見知りであるハンナにとっては初対面で二人きりなんて責め苦に近い。

 エリクはちらりとハンナの方を振り返ると、ハンナがついてきているのと歩く速度をなんとなく確認し、また歩き始めた。ハンナは振り向いた彼の姿を大きな目で観察する。こだわりのなさそうな短髪と無精髭を好ましくおもった。眠そうでうつろな目も慣れればかわいらしいな、とおもった。後は義理の兄として、あたしにやさしくしてくれれば申し分ない。時々おこづかいくれたり、オセロとかしてくれたりとかね、と勝手な考えを巡らせながら、たいして興味のない紅葉の木や池に来ているタンチョウを眺めつつ歩いた。

 あんまりしゃべらない義兄の後ろをついて歩いていると、母親から離された不安からか、なんだかハンナはこの先の生活が不安でかなしくなった。乏しい想像力をフル回転させ、あらゆる杞憂を繰り返した。誰かにいじめられたりしないかしら。ネガティブな方向で頭がよく回る娘であった。

 びょう、と突風が吹き、頭上の雲の流れは速くなった。

 池の傍の見事な花をつけた藤棚が、風にあおられてガサガサと不安になる音を立てた。

 するとハンナは、急激に「あれ」に襲われた。

 周囲の色がなくなり、現実感のないつるつるした世界に足を踏み入れた。

 ああ、いつものだ、ちくしょう、こんな時に、とハンナはおもった。この突如襲い来る幻覚はハンナにとって恐怖そのものであった。周囲の風景が平面的でそれぞれの質感を失い、非現実の混乱した感覚がハンナの神経を蝕んだ。自分とエリクが囚人で、行進を強制させられて、母はあの巨大な屋敷で既に殺されており、いずれ自分もひどい目に遭う、と異常な恐怖感を伴う、熱を出したときの悪夢に似た妄想に囚われた。全身から汗が噴き出した。なぜ「あれ」かというと、ハンナとしてはこの現象に名付けようもなく、ときおりこの現象がやってくると、またあれかー、という気持ちになったので、心中の便宜上「あれ」と呼称しているだけにすぎない。

 ハンナは冷や汗をたらしながらその場にうずくまった。こめかみから垂れた汗が頬を伝い、顎の先で水滴となって落ち、足元の白砂に斑点模様をつけた。

 周囲のものがぴかぴかしてつるりとした感触に変ってしまったので、元の秩序ある世界に戻るまで動いたら危険だと感じていた。

 ハンナは耳を塞ぎ、無限に広がるつるつるの世界が元の世界に戻るのを待った。それは日常的に訪れる、母やエリクや義父が想像だにしない、ハンナだけの闘争の時間だった。

 「あれ」の中では、ハンナの異常を察して振り向いたエリクの顔が、眼も鼻も口も無く、景色同様つるつるだった。

 ハンナはいつものとおり我慢しきれないほどに怖くなって、声を出さずに泣きだした。 

 泣いているハンナを気遣ったエリクが言った。

「おかあさんのところにもどる?」

 「あれ」の世界はエリクの声によってかき消された。

 酷い日は一日中続くのに、今回の「あれ」は短いやつだった。ハンナは心底ほっとした。

 正気に戻り、つるつるの世界は色や質感を取り戻した。ハンナは近くに咲いていた椿の花を触ることで戻ってきたことを確認した。

 急にうずくまって泣き出したのち、すぐに泣き止んで神妙な顔つきで椿の花を触っている美しい義妹にエリクは混乱した。なんだこいつ。やべえ。マジか。

 混乱しつつもエリクは気をつかって体調の悪そうなハンナに話しかけた。

「傘をもってくればよかったね。ひと雨きそうだ」

「たしかに雨ふりそう。すごく、ひろいですね、お庭」とハンナは答える。

 初めての義兄との会話だ。

「はしっこの方は庭師の手入れが全然行き届いてなくて、もっとおもしろいんだよ。見せたかった、草ぼうぼうでぐちゃぐちゃなんだ」

「草ぼうぼうなの?」

「そう」

「草ぼうぼうなのがおもしろいの?」

「いや、こんなきれいじゃないって意味」

 エリクはきれいなまんまるに剪定されたツツジの植木を指さして言った。

 ハンナは義理の兄の変にかしこまった態度がおかしくて、ウへへへ、とアニメにでてくる下品な男みたいな感じで笑った。エリクが喋ってくれた、という安堵がことさらに大きかった。この娘はおもしろくて笑うのではなく、安心すると笑うきらいがある。

 エリクはハンナが何で笑っているのか分からないようで、その怪訝な表情がことさらにおかしかった。ハンナは彼からしたら、初対面の少女が狂ったように笑いだしたのでサイコな感じを覚えつつ、ハンナと同じく屋敷に帰りたくなっただろうと想像した。

 事実エリクはこの子頭大丈夫かな、とおもっていた。

「草ぼうぼうをわたしにみせたかったんですか?」

「いや、手入れしてないだけだよ」

「あっちのほうの庭、手入れしてないんですね、ここはこんなにきれいなのに? なんで? 意味わかんない! うひゃひゃひゃひゃ」

 ハンナはそういうとまた笑いが止まらなくなった。手を叩いて高らかに笑った。ぐちゃくちゃの日本庭園、というのを想像したら、面白くてしょうがない。なんでかは知らない。うひゃひゃ、じゃなくて、おほほほほ、にしなくてはいけなかったのだが、そんなことはすっかり忘れてうひゃひゃとわらった。

 エリクは狂ったように笑うハンナを睥睨しつつ、ハンナが既に見慣れてしまった苦い顔をしていた。ふたりは屋敷に戻ることにした。

 エリクはハンナをおかしな女の子として認識し、深入りは避けようと自戒した。


 帰り道は行きとちがうルートだった。

 竹林を通り抜ける道は暗く、植物と池の湿度がうっとうしかった今までと、雰囲気ががらりと変わる、さわやかでおちついた空間だった。

 ハンナは脇に生えている成熟した竹はシンプルに美しいとおもった。

 だが成長途中の真っ黒でハンナくらいの背丈のタケノコと竹の間みたいなのは最悪だ、とハンナはおもった。真っ黒なのが不潔で、いびつな生命力を感じて下品だし皮がめくれる途中なのもいやだわ。キモい。

 なんだか見たくないものを見てしまったので、ハンナはまた落ち込んでしまった。気圧のせいか頭痛も始まった。いつものあたしならば、だるくなるとおかあさんの傍で、駄々をこねつつ陰湿な愚痴を三十分ほど吐いて寝てしまうのに。さきほどの藤棚で藤の花の香を嗅いでおけばよかった。なにか、わたしには爽やかなものが必要だ。ラムネとかフリスクでも可。

「あの、さっきの、藤の花」ハンナはエリクに声をかけた。声がこもって想定した声量が出なかった。思い切りのわるい娘である。学校の体育でも鉄棒における逆上がりや飛び箱など、自らの身体を投げ出すような種目は苦手であった。

「なに」

 エリクの声はあきらかに苛立っていた。さっきのハンナの異常な感情の上下、うずくまって号泣からの爆笑に完全にひいてしまっている。エリクは情緒不安定な女に慣れていなかった。

 自分は超絶かわいくてそんな娘と散歩中なのに、この男は不機嫌だ。どういうことだろう。やっぱこいつホモなのかしら。とハンナはおもった。

 雨が一粒、つんとハンナの頭に落ちて来た。

 冷たくて気持ちがいい。まるで気分がよくなった。これでよし。

「なんでもないです、帰りましょう」本当に何でもない感じの顔をしてハンナは言った。

 エリクは、ハンナの激しい情緒の上下動を目の当たりにし、思春期の娘とは皆こうなのか、すごいな、とおもった。

 それは誤りでハンナが異常なだけである。


 雨が降ってきたので、庭を一周するという目的は達成されず、ふたりは竹林の中を走った。

 次第に本降りになり、家の敷地内なのに東屋で雨宿りをしなければならなかった。

 雲に隙間が空いてそこから光が差し込み、池を照らして水面を輝かせている。ハンナは通り雨だから直に雨は止むだろうとおもった。「この感じだともうすぐやみますよ」なんてちょっと気取ってエリクに言った。

 でも全然やまなかった。下人を呼んで傘を持ってきてもらった。その後一晩中やまなかった。傘を待っている間、ハンナは時間が止まったように感じていた。理由なく悲しい気持ちになった。猫たちがうまく雨宿りできているといい、とおもった。


 その日の夜、初めて自分の部屋をあてがわれたハンナは、緊張か昂奮か、いつもよりさらに眠れなかった。

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