第13話

なんだかやかましい音がする。

 やめてくれよう、こっちゃいい気分で寝てんだから――と、寝返りを打ったらひっぱたかれた。

「痛えっ!?」

「あら、起きた」

 目を白黒させて飛び起きると、見知った中年女の丸い顔があった。自分の店を定宿にしてくれている行商人だ。商売の帰りなのか、大きな葛籠つづらを背負っている。

あねさん――こりゃ、どうも。いらっしゃい。お泊まりで?」

「なぁに寝ぼけてんの、親父さん」

 ぎゅっと鼻をつままれて涙が出た。ぼやけた視界で辺りを見回した。家と家の隙間の、細い路地。大通りを飾る提灯の明かりがわずかに差し込んでいる。尻に敷いているのはどぶ板だ。

「俺ぁ、なんで、こんなとこに座り込んで――?」

 あたしが訊きたいわよぅ、と女は唇を尖らせた。小娘のような仕草しぐさが妙に似合っている。

「こっちの宿に寄ったらさ、親父さんが出たきり帰ってこないって下働きが困ってたわよ」

「こっちって……」

「やだもう、しっかりしてよ。ここは六の辻。アンタの店が通りの西にあんでしょうよ」

 ああ、そうだ。

 薄ぼんやりとだが思い出してきた。

 帳場ちようばが忙しくなる前にと馴染みの飯屋に顔を出して、けど、半分も食わねえうちに俺は飯屋を飛び出して――一言、注意してやんなくちゃかわいそうだったから――そう、誰かを、追って――。

 ――誰を?

 ――一体、誰を。

 考えに沈む親父をよそに、女はぺらぺらと唇をそよがせる。

「んもう、驚くったらないわよ。親父さんったら、こんなとこで板塀に寄っかかって寝てんだもの。破落戸ごろつきにでものされちゃったのかと思ったわよ。どこも怪我はなさそうだし、その様子じゃ違うみたいだけど。何なの? 酔っ払ってたの?」

 言われて、はぁと息を吐いてみる。酒精しゆせいは漂わなかった。

 分からねえ、と首をかしげると、女はいたずらっ子のように笑った。

「じゃあきっと、鬼の仕業しわざね」

「鬼ィ?」

「親父さんが言ってたんじゃないのさ」


 ――青寧あおねのお山にはねえ、化け物が出るよぅ。

 ――身の丈三丈の大鬼サ。


 冗談――じゃねえ。

 あんなのぁ、逗留客を喜ばせるためのつくりごとだ。けかけたじいさまの与太話よたはなしに、背びれ尾ひれをたっぷりつけてある。化け物なんざ、鬼なんざ、いるわけがねえ。

「あん時は気のないふりをしたけど、あたしも気になっちまってね。商売がてら、あっちこっちで鬼の話を拾い集めてみたのさ。ある人が言うには、鬼ってのはひとの肉じゃなくて血を欲するらしいんだよ。不老で長寿、大力たいりきの持ち主で、妖しのわざも使うんだとか」

「そりゃあ、おっかねえ……」

 答えた声は、自分でもちょっと驚くくらい小さかった。それを気にした風もなく、女は得意げに語る。

「そう、おっかないのよ。でもね、よくできたもんで、そのおっかない奴にはちゃあんと弱点があるんだってさ。奴ら、お天道様てんとうさまの光に覿面てきめんに弱いのよ。身体が燃えちまうんだって。哀れだねえ、夜しか動けないんだよ」

 夜。お天道様のいらっしゃらない、夜。

 そういや、あいつの顔を見るのは、いつも夜じゃあなかったか――。

「……あいつ?」

 心に浮かんだ言葉を呟いて、親父は首をかしげる。もやがかかったように、頭がはっきりしない。ぶるぶると首を振る。

「ごたくは勘弁してくれよ、姐さん。第一、俺がぶっ倒れてたのが鬼の仕業なら、とっくに食われちまってるだろ。ここでこうして姐さんと暢気のんきに話してられるわけがねえ」

「あら、親父さんがいい人だったから、きっと鬼が見逃してくれたのよ」

 女の明るい笑い声で、頭の中がすっきりした。

 よっこらしょ、と勢いをつけて立ち上がる。とたんに目眩めまいがした。

「ちょっと! 大丈夫!?」

 女が慌てて支えてくれる。

「急に立ち上がるから――あら、いやだ。顔色が悪いわよう、親父さん。紙みたいに真っ白」

 冷えたんじゃないの、と女が心配そうに眉根を寄せた。言われてみれば、寒気がする。親父はぶるりと震えた。

「あったかいものでもおごるわよ。早い店ならもう開くわ」

 見れば、いつの間にか提灯の明かりは消え、大通りは薄藍に包まれていた。夜明けが近いのだ。

 ありがてえ、甘酒なんかいいねえ、と機嫌良く応じながら、親父は首をでた。

 しわの寄った首筋には、二つの小さなあなが空いていた。


 人のいい親父はこの三十八年後、子やら孫やらに囲まれて平凡で幸せな生涯を終える。あの夜、自分の身に何が起きたのかを知ることは、なかった。




 ――いんや、姐さん。姿は人と変わらねえそうな。

 ――だってよぉ、その鬼は、もともとただの人なんだもの。

 ――鬼に食われて、鬼の血を飲むと、ひとが鬼になっちまうとよ。

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