第8話

 どうして、自分だったのか。

 すぐ上の姉は、十二。せて、身弱な娘だった。

 すぐ下の弟は、九つ。きかん坊で、やはり痩せていた。

 末子は冬に生まれた乳飲み子だった。

 七人の兄弟のうちで、なぜ自分ひとりが九泉岩きゆうせんいわを跳ばされたのか。


 ――飛んでごらん。

 ――ここから飛ぶとね、お天道様てんとうさまの国にゆけるのだ。

 ――お天道様の国には、たんとご馳走ちそうがある。

 ――きれいな衣も、甘い菓子も、柔らかい寝床も、なんだってある。

 ――なんだって、お前のものになる。

 ――だから、飛んでごらん。


 そう言った母親の顔はもう思い出せない。笑っていたのだろうか。泣いてはいなかっただろうか。いなかっただろう。だって、その年は凶作だった。その前の年も、前の前の年も。

 岩の下からはびゅうびゅうと強い風が吹き上げてくる。風穴は黒く、底が知れない。通じる先はお天道様の国ではない。根の国だ。

 こけむした岩棚の、自分が立っている場所だけが踏みならされていた。肉のないつま先。草履は脱がされた。母が持って帰るのだ。持って帰って、誰かにまた履かせるのだ。


 ――お前は蜻蛉とんぼが上手だろう?

 ――さあ、飛んで。

 ――飛べったら!


 心より先に、体がじていた。膝頭が壊れた玩具のように笑う。

 

 ――ゆるして。


 懇願は半ばで途切れた。とん、と背が押されたからだ。


 ――あ。


 どうして、自分だったのか。

 七人の兄弟のうちで、なぜ自分ひとりが九泉岩を跳ばされたのか。

 身弱な姉でなく、きかん坊の弟でなく、赤ん坊の末っ子でなく――なぜ。


 ――そんなもん、考えるだけ時間の無駄だ。


 谷底に向かって落ちてゆく己を見下ろして、苦く笑う。

 笑えるのは、”済んだこと”だからだ。

 自分の心のどこか隅っこの方、汚い長持ながもちの奥にでも突っ込んで、片付けてしまった。忘れられはしないけれど。そこにあるのは知っているけれど。

 それでも、しまってしまったことは笑えることだ。

 笑えぬのは――仕舞しまえぬものだ。

 風が吹いた。

 花弁が巻き上がり、渦を成した。

 吹雪のように、白いはな

 かすんだ世界の向こう側に、望んだ人影を見つけた。


 ――ああ、なんだ。そんなところに隠れてたのか。

 

 胸が歓喜で沸き立った。

 慕わしい、懐かしい、嬉しい、嬉しい、嬉しい。

 次々にほどける白い蕾。

 はずむ足が地を蹴る。


 ――探していたんだ。長いこと。あんたちっとも帰ってこないから。


 いっぱいに両手を伸ばす。

 抱き留められることを疑いもしない。

 広い胸に吸い込まれてゆく、腕。

 左の手は、衣をつかむ。

 右の手は、山刀を握っている。

 刃は、肉を穿うがっている。


 ――会いたかった。さみしかった。


 厚い刃が胸の肉をえぐる、湾曲した骨を断つ、臓腑をえぐり出し、まき散らす。

 総身に浴びた朱はぬくい。虚空を見つめる眼球に、すでに命の光はない。

 それでも止めない。止めたくはない。

 最後に、力任せに首級くびをねじ切った。

 たらりたらりと、粘つく血糊が手首を伝う。

 首を抱きこんで、そこでようやく安堵する。

 幸福で身が痺れるようだ。

 赤い花がこぼれる。


 ――とうさん。


 音にならぬ絶叫が、ツチの唇からほとばしった。

 視界がまばゆい白にふさがれている。

 はな。あのひとの血を浴びた。この手が染めた、赤。

 いやだ、とけだもののように吠えた。

 あんなことは望んでいない。あのひとを殺したくなどない。

 白い世界に、どろりと濃い影がく。あだのように愛おしく、半身のように忌まわしい。温かで冷たい唇が、弧を描く。闇色の四肢をくつくつと揺らす。

 いいや、殺す。なんとしても。どんな手を使ってでも。

 仕舞ってしまうのだ。

 そうすれば、笑える。

 あのひとを殺せば、しまいにできる。

 馴染んだ柄は、するりと手のひらに滑り込んできた。

 殺させるものか。お前さえおらねば、あのひとは生きられるのだ。

 鞘を飛ばすように抜く。刃はちらりとも光らない。斬るためではなく叩き折るための道具だ。

 おお、怖い。

 うそぶいて、影が膨れあがる。のしかかる。息ができない。

 ご自慢の獲物を、今度は私に向けるのか。

 首を削り潰し、き千切るのか。

 あのひとに、そうしたように。


「黙れ!」


 叫びが、初めて空気を震わせた。

 岩肌に跳ね返された己の声が耳朶じだを揺らした瞬間、白い世界がかき消えた。背には身に慣れた古い畳の感触がある。丸い入り口から差し込む夕日の中で、埃が静かに舞っていた。視界の隅には、あの変わった意匠の屏風がにじんでいる。その端に置かれた薬湯の香り。

 第二の我が家かと思うほどの親しみを持つようになった霜霄そうしようの住まいだ。

 しかし、ツチが弛緩しかんしたのは一瞬だった。

 さらした喉元に、生臭い息が吹きかかっている。

 仰向けに横たわるツチの体にのしかかる体躯たいくは、恐ろしいほど巨大だ。山刀の柄をつかんだ腕を押さえる手――前足。鈍く光る爪が食い込んだ二の腕は、小さく血がにじんでいる。耳まで割けた口からのぞく無数の牙。よだれが糸を引いてツチの肌に落ちた。


 ――青寧あおねのお山にはねえ、化け物が出るよぅ。

 ――身の丈三丈の大鬼サ。

 ――何人も食い殺されたんだ。

 

 

 思うより、動く方が早かった。

 ツチは巨躯きよくの下で膝を折り、満身の力を込めて両脚を脾臓ひぞうのあたりに叩き込んだ。地響きのような咆哮ほうこうが岩壁にこだました。圧が揺るんだ隙に、腕を一気に引き抜いた。穿たれていた爪に肉を引きちぎられたが、構ってはいられない。

霜霄そうしよう、逃げろ!」

 拘束から抜け出し、叫ぶ。

 とっくに逃げ出した後かも知れん、どうかそうであってくれと祈った。

「化け物め」

 吐き捨てて、構えた。もし霜霄そうしようを食っててみろ、胃のを引き裂いて取り戻してやるから。

 低い姿勢をとりながら、ツチは目の前の生き物を見下ろす。

 紺鉄の毛皮に覆われた、古木の根を思わせる巨躯きよく。後ろに寝た両の耳も、同じ色の毛に覆われている。獰猛に上下する肩から広大な背は、毛皮の色が白藍しろあいに変わる。鼻は長く、黒い。金色の眼は、子どもの握り拳ほどもありそうだ。

 大山犬おおやまいぬか。

 ツチは心中で歯がみする。

 ツチは武人ではない。例えひとが相手であっても、戦いに誉れなど求めたためしがない。だから、平素であれば一目散に逃げ出していたはずだ。このような異常な巨体に育った獣の恐ろしさもよく知っていた。

 だが、この洞窟にはまだ霜霄そうしようが隠れているかもしれなかった。

 守らねばならない。彼はそれだけのことをしてくれた。

 それにしても、体が重い。目がかすむ。ものの形が曖昧あいまいだ。不得手ふえてな刻だ。霜霄そうしようを守るどころか、己の命すらあやしい。

 このようなことを、ツチはほんの一瞬で、無意識下で考えた。脳の全ての領域は、生存の可能性を広げるために使っていた。

 山犬が低く唸った。牙の間から、紅色の舌が覗く。

 弧を描くように、ツチは慎重にすり足で動いた。ツチに正対する格好で、山犬も移動する。

 つま先に僅かな違和感を覚えた。下を向いて視認する間も惜しく――どうせ目は利かない――ツチはそれを蹴り上げた。器にたっぷり満たされた霜霄そうしようの薬湯。山犬の鼻にあたった器が砕ける前に、ツチの足は地面を蹴っていた。

 体をひねって、大きく振りかぶる。旋回の力が、山刀の厚い刃に集まる。

 脳天を、叩き割ってやる。

 これもまた無意識に、口角が上がった。笑みは猛獣のそれによく似ている。

 必中の一撃が、あと寸毫すんごうで紺鉄の眉間に達する、まさにその時。

 ツチの眼が大きく開いた。

「くそ!」

 無理矢理手首を返して、刃を寝かせる。無茶な体勢で関節をよじったため、身体の均衡が崩れ、ツチは大きくかしいだ。慌てて受け身をとり、転がる。

 膝立ちで起き上がったツチは、信じられぬものに相対したように、命を奪おうとした相手を見つめた。

「お前」

 毛皮の奥から、漂ったそれ。

 高貴な人が焚きしめる、せ返るほどの香の匂い。

 山の端に夕日の最後の一条が落ち、洞窟の中は藍に満たされた。

 薄い闇の中で、山犬がうずくまっている。晴れた視界の中で見れば、毛皮と見誤った白藍は直衣のうえのきぬ。ほどけた襟からのぞく裏地が青い。綾織あやおりに散る文様はあられ。袖からのぞく紺鉄の毛に覆われた手は紛れもなく獣のものだが、指はひとと同じように長い。

 金の眼は伏せられている。

「そうしょう、か」

 唇からこぼれ落ちた言葉に、犬は落雷にあったようにように身を強ばらせた。

 白い袖ひるがえり、さっと面を隠す。

「あなたは――ひどくうなされていた」

 隠しきれぬ長い鼻が、震えている。

「眠ったままその刀を抜いて、己の喉を突こうとした。無理に抑えつけるしかなかった。傷つけるつもりはなかったのだ」

 鋭い爪に裂かれた腕から、血が滴る。

「ばか。そんなことはいいんだ。それどころか、あんたにまた――」

 助けられた、と続ける前に、遮られた。

「行ってくれ」

霜霄そうしよう、待て。違う」

「もう行ってくれ。傷は癒えたのだろう。ふもとまでは二刻とかからない」

「待てって! なあ――」

 頼む、としぼりだすような懇願に、ツチはもう言うべき言葉を持たない。

 ばけものめ。

 己自身が投げつけた一言は、まだ唇が覚えていた。

 今は――そばにいられるのが、ツチにその眼で見られるのが、一番辛かろう。

 山刀を鞘に収め、ツチはのろのろと自分の荷を担いだ。なるべく、紺鉄と白藍の塊に目を向けぬようにしながら。

 洞窟を出ると、生ぬるい夜風が髪をなぶった。

 美しい夜だ。

 月はない。

 細かい枯れ枝や葉を踏みしめて、ツチは歩き出した。洞窟の入り口は、木立や茂みにすぐに紛れてしまう。

 数歩、歩いたところでツチは足を止めた。

霜霄そうしよう、聞け!」

 振り向いて、怒鳴るように叫ぶ。

「私の行く先は、竜背川の源。みずのえの荘、有楽院うらのいんだ! ミズノエと言えば伝わる! 忘れるなよ!」

 いらえはない。

 ツチは、ぐっと唇を噛んで振り切るようにきびすを返した。

 雲母うんもをばらまいた墨のような空の下、鳥の声だけが高く、低く響いている。

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