第6話
――私の生まれは西の――いや、具体的な名は止そう。西国、とだけ言っておく。
母は父の正妻であった。家格から言えば、母の方がはるかに高かった。父に
父と母には長く子ができなんだ。それでも六年、父は待ったようだ。しかしそこまでだ。父は家に若い妾を入れた。こちらにはすぐに子が生まれた。その後も数人の子ができたから、結果的に父の行いは正しかったと言える。
母の心中は想像が難しいが――
私が生まれたのは、妾の元に四人目だか五人目だかの子が生まれたのと同じ月だ。
私の病は、生まれ落ちた瞬間に知れた。
ここらの地では聞かぬらしいが、私の故郷ではままある病だ。父の曾祖父の弟も、この病を患っていたと聞く。
病を得て生まれた子は、山に捨てられるのが
――そうだな。あなたの言うように、ただの子捨てかも知れないな。我が子を捨てた罪悪感に耐えきれぬ者たちが、都合の良い言い伝えを作っただけかも知れん。消えた赤子は山の獣に食われただけやも。けれど私は、やはり子は還されただけだと思う。いるべき場所に。
話が
母は、私を山に還すのを拒んだ。手元で育てると。
愛情?
――ああ、なかったとは言わない。
比重の問題なのだよ。母の場合は、意地が勝っていたようだ。
「私の息子は普通の人間と同じだ。いいや、ただ
母は私に思いつく限りのことをしてくれた――と、思う。
しかし、私はなにひとつ上手にできなかった。
この病は
そうだな、あなたは笛を吹けるだろうか。旋律は奏でられずともいい。息を吹き込めば、音は出せよう。私には、それができない。口やら唇の造作があなたがたとは異なるのだ。笛は――好きなのだがな、これでも。
盲人だと思ってもらえれば良い。
私は盲人であることを許されなかった
目の見えぬ者は、杖を頼りにするだろう? 眼の代わりに、耳や指先を鍛えるだろう?
私には杖ではなく、筆と
鳥獣の肉を禁じられたのも、根元は同じだ。母は”山”の全てから我が子を遠ざけたかったのだ。
――は? いや、違う。私は
感謝はしているとも。私は与えられものを享受した。純粋な善意や愛情からくるものでないからといって、恩恵それ自体を
私は学ぶことが好きだった。詩楽も礼法も。しかし、人並みにはできない。
私は注意深く肉食を避けた。しかし、食してみたいという気持ちは常にあった。
どちらも、母は後者に比重を置いていたようだった。彼女はいつもすり切れるように苛立っていた。哀れだった。
外見に表れるこの病は、容易に
母が死んだのは私が十五の時だ。
きっかけは――本当にささいなことだ。あなたは笑うかもしれないな。
今よりまだ浅い、春の頃だった。庭の紅梅が咲き
私は文机で書き物を――そう、
母だった。
深窓の奥方で、誇りの高いひとが、
母の顔を見たのは、はて、いつぶりだったか。初め、記憶にある彼女の姿と重ならず、とまどった。母の体の
母は天変地異でも告げるような口調で、加冠の儀が行われると言った。
私のではない。私と同月同年に生まれた妾の子のだ。
どんな変事が起きたのかと身構えていた私は、だから、つい訊いてしまった。――それがどうかしたのですか、と。
生まれて初めて、母に打ち
私を打ちながら、母は吠え狂った。
悔しくは思わないのか。情けないとは考えないのか。そなたは卑しい女の卑しい子どもに負けたのだ。そなたがそんな風だから、お父様は――。
打たれ続けながら、私はただただ謝った。なにが悪いのか、なにを
しかし、その日の母はいつもと様子が違った。
母の肉のない手が、文机の上の
あんなもので打たれたら死んでしまう――。
私はとっさに、母の手首をつかんだ。きしり、と手の中で嫌な音がした。
顔を上げると、母と目が合った。従順さだけが取り柄の息子に抗われるとは思っていなかったのだろう、驚きに見張った眼の中に私に対する怯えを見つけた時――なぜだか、猛烈に腹が立った。凶暴な、けだもののような怒りだ。
何を心得違いなさっておいでか、母上。
父上が母上の元に寄られぬようになったのは、
拙が例え、栄耀栄華を極める身となっても、父上は戻られない。
もう気づいておられるのでしょう?
母上、あなたは父上にきらわれておいでなのですよ。
――母の呆然とした顔を見て、私は朗らかに笑ったと思う。生まれて初めて味わう巨大な
その夜、母は首をくくって死んだ。
私は狂乱した。あの日の母と同じように。
どうやっても
どこをどう走ったものかは思い出せない。
「御山に還るのだ」、「御山に還る」と
我に返ったとき――私は山の祠の前に居た。私が本来、いるはずだった場所に。
そして私の
彼らは私を受け入れた。私は在るべき住み
これでめでたしめでたし――となれば良かったのだが。
私は初めは戸惑い、すぐに絶望した。
彼らと私では、話す言葉が異なった。詩歌を詠ずるどころか、意思の疎通も難しい有様だ。暮らぶりや、ものの考え方や、立ち居振る舞いも
――本当のことを話そう。嫌悪したのは、獣の肉に喉を鳴らすことを押さえられなかった自分自身だ。溢れる血の匂いは芳香だった。その嫌悪は、私に肉を飲み込むことを許さなかった。私は肉を口にしては吐き、血を口にしては戻した。
そんな私を、兄弟たちは不思議そうに、心配そうに見守っていた。その口は、肉の脂で光っていた。
十五年の歳月で、私と彼らは、既に決定的に違う生き物になっていた。私を形作る何もかもが御山を拒否した。
とても一緒にはいられなかった。私は彼らの元を離れた。
元の住まいには――母の館にはもう戻れない。戻るわけにはいかない。人里へも。ひとは――もう、嫌だった。私は誰も怯えさせたくはなかった。
ひとが、恐ろしかった。
そうして、流れ流れて、この住み処に落ち着いた。
早、九年にもなるか。幸せな暮らしだ。これほど心落ち着く場所を他に知らない。誰の眼も気にせず、誰に迷惑をかけることもなく、時はただ、平らかに流れてゆく。自由と孤独。欲したもはふたつながら手に入れた。
けれど――ああ、贅沢な
そう、このような冴えた月の夜には特に。
共に愛でてくれるひとがあるとよいのにと。
風に語り、雷に
誰かが、共にあるとよいのに、と。
孤り在るを望み、十全に得られたというのに。
これほど
私はなおも、ひとを欲しているのだ。
浅ましい。
醜い。
――ツチ?
なんだ、眠ったのか。
やれやれ、結局、ほとんど自分で呑んでしまったのだな。
まあいい。私は
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます