第5話

 下弦の月が夜のに引っかかっている。

 立ち上がるだけでもひと月はかかろう、という霜霄そうしようの見立てとは裏腹に、ツチは歩けるようになっていた。壁を伝い歩きするのが精一杯の、乳飲み子より覚束おぼつかない足取りだったが。

 驚きを素直に表す霜霄そうしように、ツチは、

「私は体が頑丈なんだ」

 と、自慢げに胸を張った。

 そうして、今、二人は霜霄そうしようの住まいである洞窟の前で、並んで月を見上げている。並んで、という表現はあまり正確ではない。霜霄そうしようはツチのやや後ろに座っている。くだんの屏風が、ツチと霜霄そうしようの間に立てられている。ツチから彼の姿は見えない。

「月見でもしないか。実は少しいい酒を持ってる。あのあたりにござでも敷いて、月見酒としゃれ込もう」

 漆で光るひさごを振って誘ったのはツチだ。

 霜霄そうしようの世話はありがたく、そして快適だったが、一日中、洞窟の中で寝転がっているのはさすがに気が滅入めいった。なんのことはない、外の空気が吸いたかったのだ。

 霜霄そうしよう躊躇ためらう風を見せた。

「なあ、いいじゃないか。あんたはその屏風ごと出てくりゃいいよ。絶対に屏風の内には入らないって約束する。今まで通り」

 その言葉で霜霄そうしようはうなずいた。彼もこの提案にそれなりに魅力を感じていたのだろう。あるいは、酒に目が無いクチなのかも知れないが。

 薫風くんぷうが梢を揺らした。春はおぼろと相場が決まっているが、見上げる月は冴え冴えとして冷たげにすら感じられる。

 めずらしく、霜霄そうしようの方から口を開いた。

「こんな場所で酒など飲んでいては、追っ手に見つかるのではないか?」

 おや、とツチは片眉を上げてみせる。

「私が追われる身だと、気づいてたのか」

「あなたの態度で。なんとはなしだが」

 ツチは土器かわらけからひとくち、んだ。まろやかな感触が喉を滑り降りてゆく。

「まだ――時が許すと思う。ここは竜背の川の支流の、そのまた支流のさらに山奥だろう。私を追う者たちは精強で恐ろしいけど、手勢てぜいは少ない。でも――」

 いつかは必ず追いつかれる、あいつらはしつこいから。ツチはうっそりと笑う。

「いい機会だから言っておくけど、もし私が出立しゆつたつしたあと、私の行方を捜すものが現れたら、構わない、なんでもかんでも喋ってしまえ。あいつらは関係のない人間まで傷つけたりはしないはずだ」

「追っ手をよく知っているような口ぶりだ」

 それどころか、ほのかな親愛まで感じさせる口調だ。足に大穴を空けられた相手だろうに。

「まあな。――兄姉あにあねなんだ、私の」

 土器を持つ霜霄そうしようの手がぴたりと止まった。それを気配で悟ったのだろう、ツチは言葉を継いだ。

「共に育った――違うな、私を育ててくれたひとたちだ。と、言っても実のきょうだいってわけじゃない。子どもの頃、実の親には捨てられてな。口減らしって奴だ。で、死にかけた私を拾ってくれたのが、今の身内。その時から、兄姉とはずっと一緒に暮らしてた。そりゃもう、黒子ほくろの数からいびきのやかましさまででよく知ってるよ」

「なぜ追われている」

 それを聞いちゃうのか、とツチは苦笑した。

「私が旅をしているのは、あるひとを殺すためだ」

 白濁した酒の面に浮かぶ月は霞んでいる。ツチはこういう月のかたちが好きだ。輪郭が溶け、朧で不確かなもののほうが好もしい。冴えた月は――強すぎる。

「あなたは殺し屋なのか」

「違う。ああ、いや、そうなのかな。今だけだが」

「誰を殺そうとしている」

 霜霄そうしようという男は、恐らく冴え冴えと照る月の方が好きなんだろうな、とツチは思った。

「――親だ」

 私を拾ってくれたひとだよ、とツチは答えた。

 体を硬くする気配は、あまりにもあからさまだった。

「多くは聞いてくれるなよ。お家騒動だとでも思ってくれ。私は親を殺したい、兄姉は殺させたくない。だから私を殺してしまおうとしている。なかなか血なまぐさい一家だろう」

 ああ、酔った酔った。余計な話までしてしまった――とぼやいて、ツチはごろりとござの上に転がった。

 この程度の酒では、ツチは酔ったりしない。

 兄姉は、いずれはこちらの足取りをつかみ、霜霄そうしようを見つけるはずだ。その時、霜霄そうしようがなにも知らぬ存ぜぬでは、兄姉は納得すまい。ツチという女がこれこれこのようなことを言っていた――という、手土産程度の情報を霜霄そうしようが与えられるようにしておいたほうが、彼のためにはよかろう。兄姉は無関係の人間を傷つけない。霜霄そうしように言った言葉は真実だが、彼らは今、れていよう。いざ出立の時になれば、ツチは自分の行き先を霜霄そうしように告げてやるつもりでいた。安全弁は多い方が良い。霜霄そうしようの身を守るためには。

 助けられた礼とは、少し違う。

 つまるところ、ツチはこの顔さえも分からぬ奇妙な男が気に入ったのだ。とても。

「あなたは――実の親には殺されかけ、やしない親を殺そうとしているのか」

「そうだ。最悪だろう」

 手枕たまくらのまま、器用に土器かわらけに口をつけた。濁り酒はするりと唇に馴染む。

 い酒があって良かった。気に入った相手からの悪罵あくばに耐えるには、これくらいの褒美がないとやってられない。

 だが、予想していたようなものは、霜霄そうしようからはやってこなかった。

「私も、親を殺した」

 ツチは思わず手枕から顔を上げた。

 屏風はただ、平坦にそこにあった。

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