第3話

 覚醒したと同時に、ツチの手は腰の後ろに伸びていた。

 山刀の柄を探った指は、虚しく宙をく。

 畳の上に寝かされていたのだ、と気づいたのは飛び退くように壁際まで後ずさってからだ。足の痛みのせいで、立ち上がることはできなかった。

 ツチはふうふうと肩で息をした。いっぱいに見開いた目は怯えと警戒が満ちていて、罠にかかった獣によく似ていた。

「こぁが――こあがるこほは、ない」

 びくりと肩を強ばらせ、ツチは声の主を探した。

 暗い居室だ。灯りとなるのは粗末な燈台しよくだいの小指の先ほどの炎のみ。その小さな灯りすら避けるように、屏風が立て回してある。賑やかな町並みの中に豆粒ほどの大きさの雑多な人々が描かれた珍しいものだが、いかんせん古び、色あせている。

 声の主は、その屏風の向こうにいるようだった。

「お――お前は、誰だ」

 噛みつくような問いに対する答えは静かなものだった。

ひゆうに起き上がってはいけない。ひずが、痛もう」

 涼やかな大人の男の声であるのは間違いないのに、口調はどうにも覚束おぼつかない。「まんま」をようやっと覚えた幼子のようだ。

「誰だと聞いている! 名乗れ!」

 返ってきたのは、ため息だった。

「とってうたりはしない。不安なら、それを抱いて眠るといい」

 ツチはそこでようやく自分の枕元に置かれた山刀に気づいた。いたちのような素早さでつかみ取り、胸に抱く。

 体力が持ったのはそこまでだった。

 糸が切れたように、ツチの意識は途切れた。

 気を失う直前、「だから起き上がるなと言ったのだ」と、誰かが立ち上がる気配がした。




 次に目覚めたとき、まず感じたのは濃い風の匂いだった。

 萌える緑、露に濡れる花、生き物、虫――そんな匂いだ。

 頭はすっきり晴れている。体は軽い。いつものようにぴょんと跳んで立ち上がろうとして、

「痛い!」

 ツチは足を押さえてごろごろと転げ回った。

 屏風の向こうから、忍び笑う声がした。

「あんた――助けてくれたのか」

 冴えた視界でよく見てみれば、ツチの穴が空いた足には布が巻かれている。寝かされていたのは毛羽けばだってはいるものの、上等な重畳かさねだたみの上だ。害意がないことくらい分かる。

「悪かったな。私は命の恩人にとんでもない態度をとってしまったみたいだ」

にしなくていい。それより、そこの薬湯はふとうを飲みなさい」

 先日、山刀が置いてあった枕元に、今度は緑色の汁が満たされた椀があった。ツチはありがたく唇をつけた。

「か――、らい! 苦い! 酸っぱい! えぐい! なんだこれは! 毒か!?」

「違う。痛みを和らげ、体を温めるだけだ」

「くそ、眼まで痛くなってきた。見ろ、涙が出てきたぞ」

 心づくしの品と分かっていても、本音がこぼれてしまう。恩人は気にもせぬのか、また忍び笑う気配がした。ツチも思わず笑ってしまった。

「助けてくれてありがとう。言うのが遅くなったけど」

「偶々だ。あなたが河原はわらいひに引っかかっていたのを見つけた時はおろろいた」

「そうか、私は運がよかった。――まだ名乗ってなかったな。私はツチだ」

「変わった名だ」

 うちの故郷じゃそう珍しくない、と答えて薬湯を一口飲む。やっぱりしかめっ面になってしまう。

わらひは――そうだな、霜霄そうしようと呼んでくれればいい」

「そうしょう」

 そっちこそ変わった名だ、と言うと、そうだな、と穏やかな肯定が返ってきた。本名ではないのだろうがツチは気にしない。

「けど、困ったな。礼になるようなものを何も持ってない。銭――は、ほんの少ししかないし、これをあげちゃうと私が困る。本当なら薪割りやらの水くみでもするところなんだが、今はちょっとまずい。少しばかり急ぐ旅なんだ」

 追われている――との明言は避けた。この親切な男を怯えさせたくなかったのが二つある理由のうちの一つ。もう一つは、この男の口から自分の所在が追っ手に漏れるのを恐れたためだ。当然の用心だった。

 しかし、屏風の向こうの男はツチの警戒など知らぬ風に、

「そうか」

 と少し考え込むように言った。

「気の毒だが、そうそう早くは出立ひゆつたつできないかもしれない。歩けるようになるまでに、かなりかかるだろう」

 そう言えばでかい穴があいてたんだっけ、とツチは手当てされた自分の足を眺めた。当て布が替えられていた。

「だが、礼をしてくれると言うなら――」

 しばしの間を、ツチが少し不審に思い始めるほどの間を置いて、霜霄そうしようは言った。

「傷が治るまでの間、そこで私の話し相手をしてくれ。こんな山奥に独り住まいをしていると、ひとの言葉ころはを忘れそうになる」

 あんた、こんなとこで暮らしてるのか――と、喉の奥まで出かかった台詞を、ツチは慌てて飲み込んだ。

 ここが当たり前の住居ではないと、ツチはとうに気づいていた。

 ツチが寝かされているのは重ねた畳だ。燈台もあるし、屏風もある。全体的に古びてはいるものの、調度の類いは洗練された趣味の良い代物だ。

 だが、ツチが背にしているのはむき出しの岩壁だ。天井代わりに頭上を覆うのも、やはり岩。頭を巡らせれば、遙か遠くに丸い小さな光。差し込む陽光が目に滲みた。

 霜霄そうしようが己の住まいだというこの場所は、洞窟の奥深くなのである。

 ――まあ、よんどころない事情があるのだろう。多くは聞くまい。

 ツチは気を取り直して言った。

「そんなことでいいんなら喜んで。だがその前に、いい加減に屏風の影から出てこないか。恩人の顔が見たい」

 それは――、と未だ声しか分からぬ男は躊躇ためらったようだった。

「なんだなんだ。あんた、ひょっとしてものすごい大家の姫君なのか。それとも、二目と見られぬまずいツラ――とか?」

 屏風の向こうで、男はなにやらもごもごと言っている。ツチは朗らかに笑った。

「私だって、自慢できるようなご面相じゃない。今は傷だらけだから余計だ。見てみたくないか? 出てきなよ」

「――病を、得ているのだ」

 相変わらず不明瞭な発音だった。

「業病だ。感染うつれば、あなたの障りになる。だからどうか、屏風はこのままにしておいてほしい」

 そんなの私は気にしない――と答えようとして、やはりやめた。

 容貌かおかたちの崩れる病なのかも知れず、でなくとも、真実、霜霄そうしようは顔を見せたがってはいない。

 だからツチは、

「分かった、やっぱり姫君なんだろう。それもすこぶるつきの美人なんだな。惚れられちゃ困るってことか」

 と、冗談に紛らわせてしまうことにした。

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