「ド」の音に包まれて

史澤 志久馬(ふみさわ しくま)

「ド」の音に包まれて

 祐紀は、一つ深呼吸をして目を開けた。目の前にはいくつもの段ボール箱とひもでくくられた大量の教材。こんなに時間をかけているのに、まだ片付けが終わるまでの作業量は途方も無く続いている。これまでこまめに片付けたり、断捨離をしていたら。

 祐紀は高校を卒業し、地元から離れた大学へ進学することとなった。そのために、下宿先に持って行く荷物をまとめようとしているところだ。それにしても不思議である。片付けても片付けても、一向に部屋がすっきりする気配が無く、むしろ散らかっている様子なのだ。

「祐紀ー、そろそろお昼ごはんできたよ」

「はい」

 リビングから母の呼ぶ声がした。祐紀は素直に返事をし、足の踏み場も無い自室に足場を探しながら苦労して部屋を出た。

 まもなくここから引っ越して一人暮らしか、と考えても、大した感傷は沸かなかった。そもそも田舎の中途半端な故郷に興味は無いし、親と離れても別になんとも思わない。会えなくなってさみしい友達もいるにはいるが、自分のことだ。すぐに忘れてしまって、そのうち道ばたで声をかけられても分からないようになるだろう。自分はそういう人間だ。

 でも確かに、毎食自分で用意をするというのは難しいかもしれない。母が作った昼食を食べながら、祐紀は考えた。春休みに入ってから、家族の分の料理を作ったりもするが、家族がいるから作ろうと思うのだ。自分一人だとカップ麺で済ませている未来が見える。



 昼食を食べ終わると、祐紀は洗面所へ向かった。昼餉はナポリタンだったため、口周りと手を洗おうと思ったのだ。

 洗面所から自室へ戻ろうとする途中、ふとその途中にある扉が目に入った。今まで六年間、ほとんど一度も開けることなく通り過ぎてきた扉。それでも、まあ、もうすぐ引っ越すんだからという思いが手伝って、祐紀はドアを手前に引いた。

 その部屋の真ん中には、漆黒のピアノが鎮座していた。長い間誰にも弾かれなかったせいでほこりをかぶっている。特に何という目的も無かったが、祐紀はそのピアノに近づいた。

 中学生に上がる前までは、祐紀も熱心にピアノを練習していた。難曲を弾いて他人を喜ばせられるほどでは無かったが、合唱のピアノ伴奏くらいは引き受けてもいた。

 しかし中学生になり、部活と勉強の忙しさを理由にピアノ教室をやめてからというものの、全く触れること無く日々を送ってきた。同じ時期にピアノをやめた子であっても、趣味程度に弾き続けたり高校生になってから始めたりしている者もいた。でも祐紀はそうしようという気を全く起こさなかった。過去のことは過去のこと。ピアノを弾いていたのは過去だ。もう誰も弾かないピアノなど、早く売ってしまえば良いのにとも思っている。



 でも今日は、何かが祐紀にいたずらしたらしい。祐紀は珍しくピアノの蓋を開け、鍵盤を覆っている布を取り去った。以前と同じ顔をした鍵盤が、そこに大人しく並んでいた。

 祐紀は右手を鍵盤の上にのせた。でも特に弾ける曲も無い。祐紀はただ、「ド」の鍵盤をポーンと押した。久しぶりにこの家に響くピアノの音。その余韻にじっと聴き入る。

 あの頃は……熱心にピアノを練習していたあの頃は、ピアノが、音楽が好きだった。先生に褒められたりして自分が伸びているのを感じるのは、うれしかった。ピアニストのCDを買って、こんな音を奏でたいと思いながら練習していた。ピアノを弾いている自分は最大限にナルシシストで、ピアノを聴いている自分は最大限に酔っていた。音楽に関係の無いところでも、自分が理由も無く好きで、なぜか行動に自信があった。でもその分、自分が間違えた時には素直に謝ることができた。

 今ではどうだ。自分に自信が無いくせに、プライドだけが無駄に高い。そりゃあせっかく作った友達も離れていくわけだ。

 変わらないピアノの前で祐紀は、自分があまりにも変わってしまったことに気づいた。気がつけば、涙がこぼれていた。何でも無いただの「ド」の音に、やたらと心をかき乱されていた。

 祐紀はそれ以上何を弾くこと無くピアノを閉じた。再び、しばらく弾かない日々が続くだろう。それを悲しいとも、さみしいとも思わなかった。

 それでもなぜか、一音だけ奏でた「ド」の余韻が、いつまでも耳の奥に残っていた。

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「ド」の音に包まれて 史澤 志久馬(ふみさわ しくま) @shikuma_303

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