第5話 別れの日
吉光消防士の体調が悪くなり始めた。午前中までは看護師の栗本雪と気軽に話ができる状態だったのだが、午後になり体が熱くなり咳もひどくなってきた。吉光自身こんなに症状が急変するとは思ってもいなかった。息をするのも苦しくなり、呼び出しボタンを押した。
「どうなさいました?」
この声は雪さんだな?そう思いながら吉光は返事をする。
「息が…… できない……」
声を出したつもりだが殆どかき消されるような声にしかならない。スピーカー越しには聞こえていないようだ。
「どうなさいました? 大丈夫ですか? すぐ行きますね」
返事の無い様子に雪は慌てて病室へ向かった。そこには午前中までの吉光ではなく、苦しそうに何かを訴える姿写っていた。これは、ただ事では無いと思いすぐにPHSで担当医を呼び出した。
「吉光さんが急変しました。現在意識はありますが呼吸があまりできない状態になっています」
担当医とのやり取りが終わり雪は吉光に声を掛けた。
「今からレントゲンとCTを撮ります。頑張ってくださいね! 退院したらデートしてくれるんでしょ?」
最後の一言は小声で吉光の耳元で囁いた。吉光も雪の方を訴えるような目で見ながらうなずいた。その後、検査室に運ばれて肺の検査や血液検査を行い病室へ戻ってきた。
「吉光さん、現状は肺の中に肺炎の症状が見られます。状態としてはあまり良い状態ではありませんが、この肺炎はご存知の通り薬が今のところは効きませんので対処療法を行っています。万が一これより悪くなるような事になれば、人工呼吸器や人工心肺装置が必要になるかもしれません。とにかく肺の症状改善をめざしていきましょう」
医師の白石は吉光に淡々と説明をしてしていくが、その表情はあまり良い表情ではない。雪はその顔を見ながらとてつもない絶望感に打ちひしがれていた。変異したウィルスは以前のように回復して行く人は殆どいない。肺炎をこじらせてしまい肺の中が白くなってしまった患者はそのまま良くなることはなく亡くなってしまう。そんな患者を沢山見てきた雪は吉光の状態を見て、もう二度と話をすることができないと思うと涙を流した。刻々と悪くなる吉光の状態を雪は時間の許す限り病室へ顔を出して見守るが、呼吸は安定しない。白石より最後の通告をされた。
「残念ながら、吉光さんはこれ以上良くなることはないと思う。このままつらい状態を続けるよりも、麻酔で眠ってもらって静かな時を過ごしてもらおう。もっと酸素を供給する事が出来る人工心肺 装置ECMO(エクモ)の台数が沢山あり、それを維持できるスタッフがいればもしかしたら、少しは可能性があったんだけどな……」
雪もここまで悪化したら決して良くなる事は無いと判っていた。でもこれが最後の別れになるのはとてもつらく悲しくやりきれない気持ちでいっぱいだった。
「吉光さん、今から麻酔をいれますね。これで少しは楽になると思います。ゆっくり休んで下さい」
意識の殆どない吉光に涙声で話しかけながら、点滴に麻酔を入れ手を優しく握った。この手のぬくもりと触れ合えるのは、これが最後になることは十分わかっている。本日はもうすぐ勤務終了で、退勤後は速やかに会社指定の車で国がコロン専用病棟の医療従事者専用に借り切ったホテルへ行くことが義務付けられている。ホテルでは到着後にすぐに食事ができるように部屋へ食事が手配されていて、部屋からは外出できないが、必要なものは全て出勤前にリクエストすると退勤後の部屋に届くシステムだ。ゲームでも本でも可能な限り用意され、食事も美味しい料理が提供される。
帰らないと行けないが帰りたくない。雪にとって看護師になって初めて心惹かれる男性が吉光だった。屈託のない笑顔、落ち込んでいた時には冗談を言いながら励ましてくれたとても優しい患者だった。もう会えない……
退勤の時間になってしまった。まだ多数の患者さんがいる状態で自分のわがままが通るはずはない……
「苦しむこと無くゆっくり休んでください。おやすみなさい」
振り絞るような声で耳元で囁き、部屋を後にした。
ホテルに戻っても全くやる気が出ないがシャワーだけは絶対にかからなくてはならない。シャワーを浴び、食事の準備がされているテーブルの椅子に座った。今日は自分が大好きなカラアゲをリクエストしていたが、全く食欲がわかない。食べないと翌日の勤務に支障をきたすので、無理やり口に放り込んだ。テレビではその日発令された非常事態宣言のニュースがどのチャンネルでも放送されていて、コメンテーターが無責任にコメントを言い合っていた。
今この時間も吉光さんは苦しんでいる……
もしかしたらもう……
明日の朝にはもう空のベッドだけがあるのだろう……
吉光の事を考えると涙が止まらない。泣きつかれていつの間にかベッドで寝てしまった。
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