日常の②-6『おのぼりさん』

 T駅の円之内口、という呪文みたいな改札口を出て、俺たちはオフィス街へと足を踏み出した。

 ゴールデンウィークだというのにスーツ姿の人間たちが、まるで乱反射するレーザービームのような速さで目の前を通り過ぎていく。

 俺はその危険な光線たちにぶつからないようにするので精一杯だった。


 そうなのだ。俺はオノボリさんだった。


「気持ち悪い。吹き飛ばしてしまおうかしら」


 多分、竜神様もそうなのだろう。眉根を寄せて、険しい目つきで会社勤めを眺めている。

 そうは言ったが多分、視界に入っているだけであって、見てはいないだろう。


 例えるなら、天空の城から下界を見下ろすムスカの心境、と言ったところか。


 それにしたって、田舎モンにとってはT駅以上のホラーはない。


「………………」


 アヲちゃんなんか、怯えた子兎みたいになって、花束さんに隠れて、メガネまで震わせていた。

 ぎゅっと掴まれた右腕に向かって、花束さんは声を掛ける。


「アヲちゃん、頑張ってちょうだい。あなたが先頭じゃないと、目的地に辿り着けないわよ?」


 いや、それは酷というものだろう。


「いや、俺でさえ人に酔いそうなんだ。目的地さえ教えてくれれば、俺が先導するよ」


 自身の右腕から、ゆっくりと視線が俺の眼を捕らえる。


「ユーリ君?男らしさを遺憾なく見せつけているところ申し訳ないけれど、それは余計なお世話よ。成長する機会を奪うことは、優しさではないわ」


 貼り付けたような笑顔で。


「そ、そんなつもりじゃ……」


 慌てて俺は否定しようとしたが、花束さんは間髪入れず、俺に弁解の機会を与えない。


「そんなつもりじゃなくても、こんなに人が大勢いることなんて、田舎じゃ滅多にないでしょう?ここで頑張らないでどうするの。こんな貴重なチャンスを、この子から奪わないでちょうだい。アヲちゃん?先頭に立ちなさい」


 ガタガタ、と音を立てそうなくらいアヲちゃんは目を右往左往させて挙動不審になっている。

 黄色い花束さんのブラウスの皺から察するに、腕を握った手には更に力がこもったようだった。


「いや、無理だって。こんなに怯えてるじゃないか。もっと人が少ないところで、練習してからでもいいだろ?」


 物事には順序がある。レベルも上げずにラストダンジョンに挑ませるのは無理以外の何物でもない。


「……無理?いま無理って言ったわね?それをユーリ君が判断していいの?他人の限界を勝手に決めていいの?そうやって余計な気を使うから、アヲちゃんはいつまでも他人が怖いままで、生きづらいままなんじゃないの。アヲちゃん、私から手を離しなさい。逃げることは許しません。この状況と、自分の内面と立ち向かいなさい。乗り越えるのよ」


 すでに花束さんの表情からは笑顔は消えている。眉根を寄せて、厳しい顔で自分の腕に向かって彼女は命じた。


「アヲちゃん、いいから。行き先教えて」


 そんな花束さんの冷たい言い草に、俺も意固地になってしまう。


 それが助け舟になったのか、アヲちゃんはスマホに表示された目的地を、オドオドしたまま俺に見せてくれた。


「……まったく。甘いのね、勇者様は」


 そんな恨み節を聞き流して、俺は目的地をスマホのナビで検索する。


 目的地は思った以上に近く、駅を出てに二十分ほど歩いただけで到着した。

 アヲちゃんがずっと腕を掴んでいる花束さんから離れれば、もっと早く着いたかもしれないが、それは別に気にするほどのことでもない。

 花束さんも俺に無視された後は、黙ってアヲちゃんにぎゅっとされるがままだった。


 そこはオフィスビルが立ち並ぶ一角ということもあり、言われなければ人が住んでいる場所とは思えなかった。

 実際、会社兼社宅、という扱いだと聞いているから、それもそうか、とは思うが。


 大きな高層マンションの入口。自動ドアだろうか、広い大きなガラス扉の玄関。突き出た庇に大きく飾られた金色の文字のその下に、女の子が一人立っている。

 『IKUSA興業』と書かれたUの下ぐらいに、彼女はいた。


 それにしても、有名配信者となると纏っているオーラが違う。小柄で細身な容姿。ソバージュの銀髪。マスクで隠してはいるが、なぜか目を引く彼女は、横断歩道の反対側から見ても『戦国時代』のイエヤスその人だと分かった。


「あ、ブルーさん!久しぶりだねえ!」


 手を振りながら、ずっと花束さんの背後で怯えていたアヲちゃんに向かって、彼女は元気に叫んだ。


「ブルー?」


 俺は、アヲちゃんに目を移しながら訊く。


「私の、は、配信の時の、名前……」


「え?アヲちゃん、配信者だったの?」


 メガネのレンズの奥の瞳と、目が合ったが、彼女はすぐにそれを逸らす。少し頬を赤らめて、


「ゲーム……、とか、……顔は出さないで、……配信して、る」


 と、頑張って――少なくとも俺には頑張っているように見えた――そう口にした。


「ああ、それでイエヤスさんと知り合いになったってこと?」


 花束さんが尋ねた。


「昔……、は、始めたての頃、アカウントにメール、……もらって、連絡、し合う、ようになって……、それで……」


 一生懸命に話すアヲちゃんの言葉は、途中で、


「ブルーさーんっ!一年ぶりだねえー!えーいっ!!」


 イエヤスの大きな声で遮られた。


「……きゃっ」


 有名配信者となると挨拶も独特なのか、それとも二人にとってこれはいつものことなのか、イエヤスは急に叫びながら走り寄ってきて、そのままアヲちゃんに抱きついた。


「来てくれてありがとっ!あんなことがあったから、すごぉく、すっごぉおく、心細くてさぁ……。なのに私って、頼れる友達なんか、ブルーさんしかいないじゃん?会いたかった、よおおぅっ!」


 ぐえっ、と、いつものアヲちゃんからは聞いたことのないような、押し潰された声があがる。


「と……、徳ちゃん、今日からよろしくね。あのね、メッセージでも伝えたけどね、私のお友達も連れてきたの。大丈夫、だった?」


 比較的、いつもより饒舌に聞こえるアヲちゃんの声。それだけで、二人の仲の良さが俺には理解できるようだった。

 少なくとも、俺や花束さんと話すときは、彼女は言葉をとてもよく吟味してから、アウトプットしているように感じていた。イエヤスちゃんには、そのタイムラグがない。


「もちろんだよぉお!ブルーさんの友達は私の友達っ!あ、私、イエヤス。配信者してまーす。よろしくねっ!」


 イエヤスがアヲちゃんから離れる。横断歩道を渡り切り、俺と花束さんに両手をひらひらさせながら笑顔で自己紹介した。


「アヲちゃんの友達の天童花束です。よろしくお願いします」


 花束さんが優雅に会釈する。イエヤスはその姿に、うわあ、綺麗な人だねー、とこぼした。


「ゆ、ゆ、由利本荘です。ユーリって、呼んで下しぁ……」


 そりゃあ、芸能人ばりの美人で、有名配信者相手である。凡人の俺が挨拶を噛むのも当然だ。

 こう偉そうに弁解しておけば、恥ずかしさも薄れるってもんよ。


「えー、珍しい。アヲちゃんに男の子の友達いたんだー?え?もしかして彼氏?」


 おっとまさかの、と思い、俺はすぐに隣の竜神に意識を集中した。


 ただでさえ、さっきのやり取りで花束さんはストレスが溜まっている。

 ピリッ、と空気が裂けるような音を、俺は確かに聞いた気がした。隣を見なくてもわかる。


 花束さんの闘気が一瞬にして、天高く放出されたような気配を、俺は確かに感じ取っていた。

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