日常の30『同時刻』
【M県警察本部】
県警内の喫煙スペースで、猪木寛一は紫煙を燻らせていた。一ヶ月前に起きた一人暮らしの女性のバラバラ殺人事件の資料を、備え付けのテーブルの上に並べて、立ったままもう一度確認している。
溜め息をひとつ。その口から、魂でも抜けたかのような真っ白な煙が塊になって抜けていく。
二週間前から、捜査に進捗はほとんどない。女性からは、例えば体液や爪の間の皮膚など、犯人を特定できそうな物は一切検出されず、部屋からは女性や、その家族以外の指紋は出て来なかった。かといって、家族にはその時間に女性宅にいた可能性のある者はおらず、犯行時刻が深夜であるためか、目撃情報もない。
何か、何か見落としていることはないか。
天を仰いだ猪木が、資料にもう一度目を向けようとした時だった。
ガチャリ、と狭い部屋の扉が開いて、猪木よりも大柄な背広が姿を現す。
「ああ、ここにいたの?」
面長の坊主頭の上司が、こちらに視線も合わせずに声を掛けてきた。
「馬場さん……」
猪木の上司。捜査一課課長の馬場正大警部だった。ゆっくりとした動きで、こちらに近付いてくる。
猪木は馬場が苦手だった。あの、のんびりとした動きの割に、頭は切れ、無駄なことは一切言わない。
猪木の隣に立ち、嘘だろ、と猪木が思うほどの大きな金属のケースを開けて、嘘だろ、ともう一度、猪木が思うほどの太さの細長い茶色の塊を摘まんで出した。
「葉巻……ですか?」
「……うん」
馬場の視線が資料に落ちる。
「……ああ、これか。初動捜査が、悪かったやつだよね?」
一ヶ月前にそれで馬場の怒りを買ったことを、現場の責任者だった猪木は忘れていない。
家族に対しての報告や聴取を優先させ、周囲の目撃情報や被害者の交友関係を洗う指示が遅れたのだ。遅れた、と言っても警察署に戻る数時間のことで、猪木は許容範囲だとは思っているのだが。
その時も、ここで二人きりだった。猪木は馬場が苦手だが、馬場も猪木を事あるごとに、ミスとも思えない小さなことで叱責しているように思う。
部下の佐山にも、馬場さんと猪木さんって仲悪いですよね、と先日言われたばかりだ。
「捜査本部の会議では、言わなかったんだけどさあ、というのもさあ、僕の個人的な考えだから、聞き流してくれて構わないんだけどね?この事件、そういうのが好きな奴の犯行だと思うんだよ。でさあ、……排水溝にバラバラになった遺体が詰まったのはさあ、犯人には想定外だったと俺は考えてる。犯人の致命的なミスだったって。つまりね、何が言いたいのかというと……」
二人の視線がぶつかる。その眼光に思わず、猪木は目を逸らしてしまった。
「早く捕まえないと、そういう奴って完璧主義者だからさ。失敗を取り返すために、また同じことするんだよね」
【Cafe Vandine】
木目調の丸いテーブルが三つ、それとカウンターがある店内は、午後からは雨が降るという予報が出ていたものの、今日は朝から満席だった。
「お待たせしました」
大繁盛の理由は彼女なのだが、特にそれを気にも留めていないという表情でテーブルにコーヒーを給仕する。
天童花束であった。
私服の白いブラウスにこのカフェの唯一の制服である黒いエプロンという出で立ちで、彼女は笑顔を崩さない。
そのまま、ふわりと踵を返してカウンターへ戻る。
「いやあ、美人のウエイターを一人雇っただけで、こんなに急に忙しくなるものかね」
壮年の男が、カウンター内でコーヒーを淹れながら、温和な表情で話しかけてくる。
「いつもは、こうじゃないんですか?」
花束が尋ねる。
「恥を承知で言うけれど、閑散としていたね。腰をやらなけりゃ、人を雇う必要なんてなかったくらいさ」
二日前にこの店先で見た、アルバイト急募!の貼り紙には、そんな理由があったのか、と花束は腑に落ちる。
「仕事を覚えるのも早いし、花束さんは期待以上だよ」
「そんなことありませんよ。普通です、ふつう」
笑顔を保ったまま、しっかりと花束が否定する。
「はっはっは。バイト初日でこう見せつけられてはね。仕事が出来る子の謙遜にしか聞こえないかな」
注文いいですか、とカウンターの外から女性の声がかかって、花束が床を蹴ってそちらへ向かう。
普通がいいんです、と自然と彼女の口から静かに零れた。
【陸前市内一等地】
「ドクター……、今日も………、すみませんね……」
ベッドに臥せる遠野善喜は、痩せ細った喉の奥からそれだけ、呟くように言った。
「善喜じいさん、いいから。無理してしゃべんなくて。俺も仕事でやってんだ。お礼なんかしなくていい」
答えたのは白衣に身を包み、真っ白なベッドの隣に座る訪問診療医。
口は悪いが腕は良い。そんな、市内でも評判の名医だった。
「もう、先生。またそんな冷たい言い方して。車の中ですっごく心配してたくせに……」
一緒に来ていた看護士が、そんなぶっきらぼうな医者の言葉を注意する。目尻の皺を隠さない彼女も、救急外来やICUの経験がある、ベテランの看護師だった。
「うるさいよ。看護師は仕事だけしてろ」
「はいはい。もう終わりましたよ。エスピーオーツーがちょっと低いくらいです。痛み止め注射も、終わり……っと」
実際、もう二人に出来ることはバイタルの測定と痛み止めの注射ぐらいしかないのだ。齢九十の善喜の身体は、あとはもう、その活動を終えるのを見守るだけだった。
老衰である。
「じゃあ、じいさん。俺ら帰るわ。……明日もまた来るから、ちゃんと生きてろよ?」
善喜が彼らに世話になるようになって、数年になる。当初は、玄関まで歩いて出迎えていたのが、杖が必要になり、車イスになり、去年の冬からは寝たきりになってしまった。
入院や施設への入所を彼は勧めてくれたが、死期を悟っていた善喜は丁重に断り続けた。彼から、頑固ジジイ、と言われたことも一度や二度ではない。
今、自分には終末医療である緩和ケアが施されていることも、善喜は彼からすでに説明を受けている。
「……ふふっ。………どうも、ありがとう」
手を振りたかったが、今日は身体に倦怠感があって、出来そうにない。
看護師が温かいタオルで拭いてくれた顔に、微笑を湛えて、善喜は二人を見送った。
屋敷の扉が閉まる音が響いた。
外では、春の風が医者の白衣を靡かせている。看護師がためらってから口を開いた。
「先生、実際のところ………」
看護師に顔を向けることもなく、医者は日の光を仰ぎながら、
「ああ。……もって一週間だな」
とだけ答えた。
「もう九十歳ですもん。……大往生ですよ」
はあ、と医者が苦虫を噛み潰した顔でぐしゃぐしゃと頭を掻く。
「俺も年取ったかな。ちょっとこの間までこの国を支えてきた人がさ、孤独に家で死を待つなんて、今の時代、どこかしこである話なのになあ………」
【鈴木一郎宅】
教育学部内にある欅の並木道。そこで二人は出会った。
鈴木一郎は、高校時代のただの噂が、これほど相手を従順にさせるなどとは、当初は思ってもみなかった。
そしてそれが、自身が死ぬきっかけになるとも。
彼女と出会ったのは偶然で、こちらから声をかけた。
最初は相手も、他人行儀な笑顔で会話していたが、一郎がそれを口にすると、見る間に彼女の顔からは血の気が引いていった。
途中からはずっとアスファルトの地面を見て、一郎の話を、脅迫を、聞いていた。
そこからは、いつも通りだった。いや、酔い潰す必要がないので、いつもより早かったと言ってもいい。
一郎のルーチンとして、果てた後はすぐに煙草を吸うことにしている。
隣の女の口から漏れる嗚咽が、耳に心地よい。
涙を流す女とするのは、初めてのことじゃない。慣れていると言ってもいい。
そんな自分でも汚物より醜いと思う自尊心と裸の女の姿を、心の中で嘲笑しながら煙と一緒に吐き出す。
「これで終わりじゃねえからな?……分かってると思うけど、お前が高校ん時に、ブタみてえなオヤジ共に金もらってヤってたたこと、バカな学生たちのゴシップネタにされたくなかったらさ、俺が呼んだらすぐ来いよ?」
むせび泣く女から返事がない。クソ女が、と一郎の眉間に皺が寄る。
「……返事は?」
「…………はい。………」
煙草を枕元の灰皿に、乱暴に押し付けた。女の片胸を、すぐさま彼は鷲掴みにする。小さな短い悲鳴が部屋に響き、指の間からはみ出た白い皮膚に、彼は気を良くする。
「お前も良かっただろ?経験人数だったら、俺もお前に負けてねえからよ。アホみたいに口開けて、何回もイッてたもんな?」
何か言おうとした女の口を、自分の口で塞ぎ、そのまま布団の上に相手を押し倒した。
そのまま、彼女の首を片手で絞める。
その興奮が、彼の性欲を再び隆起させた。
「これからも、俺の良い玩具でいろよ?」
目尻から大粒の涙を流す女の秘所を空いた手で乱暴に触り、自分の身体を起こし、お互い自身をまさぐる。
もう彼女は、その運命を受け入れたのか、当初のような無駄な抵抗をすることはなかった。
それも鈴木一郎には心地よい。
松井沙世のナカに、興奮で肩を上下させながら、彼は乱暴に侵入していった。
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