日常の23『世間話な昔話』
『学生寮』とかろうじて読める半分腐ったような1メートル四方ほどの看板を、二人は見下ろしていた。
昔はきっと、大学の寮生たちが日に何十人と行き交うのを静かに立って見守っていたであろうそれは、生い茂る草むらに、その身を隠していた。
二人の眼前には所々コンクリートが剥がれ、黄ばんだ壁面や割れた窓が目立つ建物。
大きさは、先ほどの教室があった講義棟と同じくらいだろうか。午前中だというのに、背後に鬱蒼と茂る杉の木のせいで辺りは薄暗く、まるで巨大生物が大きな口を開けて来訪者を待ち構えているようだった。
しかしながら、異世界人にとってはその不気味さもあまり意味をなさないようで、
「まさか父が生前に、幼い私に何度も話してくれた命の恩人……、恩竜……様、と言うべきでしょうか。それが貴女だとは露知らず……、大変な失礼をいたしました」
「私も、そんなに時間が経ったナユタ大陸から貴方達がやって来ていたなんて思わなかった。……よく考えればそうよね。私とおじいちゃんが禁呪を受けた間隔は、向こうの世界では一か月と間を置かなかったのに、こちらの世界では七十年以上の差が開いてしまっているんだもの。時間軸のズレかぁ。………ホント、度し難いわね、あの魔法」
そんな話をしながら、二人はすでに全体の三分の二ほどが錆びて赤茶色に変わった大きな鉄扉の前にいる。
「開いてるわよ、絶対ね」
「まあ、そうでしょうね。ここが開いてなくとも、割れた窓からなら、こちらの人でも入れそうです」
ライガがドアノブを回し引くと、ざらついた低い悲鳴のような音が響き、扉が開いた。
かび臭い、饐えたにおいと腐臭に、思わずライガは顔をしかめる。
「そっか。カムラン死んじゃったんだ。………残念だな」
まるで散りゆく美花を惜しむように、急に花束がライガの背後で言葉を紡いだ。
ぴたり、とライガの動きが止まり、彼はそのまま、
「名誉の戦死と聞いています。当時は私も幼かったので父の顔も覚えていません。十五で騎士団に入団してから知ったのですが、大戦の折に籠城戦となり、当時の蛮族の長と一騎打ちとなったそうです。満身創痍の身体で勝利を飾り、王より誉れをいただいたと……。一族の誇りです」
と背中で応える。
「きっとカムランも天国で、騎士団長となったあなたを誇りに思っているでしょう。魂がこちらの世界に、転生しているかもしれないわよ?」
「それはいい。父には一度でいいから、騎士団の長となった私を見てほしかったのです」
声もなく笑って。
迷いなく、二人は再び歩き出した。
木造の床がミシミシと音を立てている。ライガは途中で部屋数を数えるのをやめた。
広くて長い廊下の両端に、対になって黒いドアが並んでいる。ドアの上には、名札が付いたままになっているものもあった。
廃屋となった寮から漂う臭いの中で、確かに鈴木一郎の血液のニオイが濃度を増しているのを、ライガは感じる。廊下の突き当たりに、その場所はあった。
「……ここです」
開かれた入り口に、埃をかぶった破れた暖簾。寮の浴室だった。
「まあ、水回りよね。死体をバラバラにするんだもの。……血液も流さなきゃいけないし」
早足で脱衣所を突っ切り、ライガは老朽化して抵抗の強い引き戸を開けた。むっと目当てのニオイが鼻孔をくすぐる。
背後から花束の声。
「講義室に腕を置いとく、なんて大胆なことをするってことは……、犯行現場はもう片付け終わってるに決まってるわよね」
ところどころタイルは剥がれ、崩れている部分もあるものの、つい最近洗ったかのように綺麗な大浴場が、二人の目の前にはあるだけだった。
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