日常の8『帰りましょう』
タクシーを使ってしまった。手痛い出費だ。だってのに……。
会場はM県立音楽会館。
約千人が入れるその場所には、つい先日まで高校生だった若者が所狭しと座っていた。クラシックなんかをこういう場所で聴くのだろうか。広そうな舞台を一番下に、斜面に沿って座席が広がる様に並んでいる。二階席もあるようだ。
「本日の陸前大学入学式は中止となりました。入学生の皆様はすぐにご自宅にお戻りください。保護者がいる方はご一緒に、そうでない方は出来る限り集団で自宅までお帰り下さい。会場を出た際、報道陣の方々がいる可能性があります。取材等は絶対に受けないようお願いいたします」
「……交通費を請求したい」
会場のアナウンスに向かって、俺はそうぼやいた。ぼやかざるを得ないだろう、タクシー代1,230円が無駄になったのだから。
繰り返されているアナウンスが流れ始めた当初は、ザワザワとどよめきが広がる様に大きくなっていったが、今はそれも収まり、すでに三分の一ほどが帰りの流れを形成している。出口を眺めるとまだ混雑しているようだった。
「あの、ゆ、由利本荘くん……」
背後から急に声を掛けられ、俺は肩が揺れるくらいには驚いた。振り返るとカリキュラムだか時間割だかの説明会で隣の席にいた天童花束さんがいて、今日も美人だった。
そう、彼女は美人だ。それはどこまでも平凡な俺とは違って、非凡で唯一無二の、神からの賜物。今だって、数人の男子新入生が彼女をチラチラと盗み見ている。
「な、なんだか、殺人事件がね、あったんだって。うちの大学の学生が変な、こ、殺され方をしたって、さっき聞いたの。それでね、一緒に……」
花束さんは地毛なのか染めたのか分からないが、茶髪のポニーテールをゆらゆらと揺らしながら、伏せ目がちに悩ましく言葉を紡いでいく。
申し訳ないが容姿端麗な姿が眩しくて、ひとつも彼女の言葉が頭に入ってこない。実はあの揺れているポニーテールで催眠術、もしくは男を魅了する魔法でもかけているんじゃないだろうか。
魔法、という単語が出てくる辺り、俺もさっきの出来事を大分引きずってるようだ。
正直、引きずってるというよりは押しつぶされてしまいそうなんですがね。
「花束や……」
「いゃおっ!?」
関係のないことを考えている事を窘められるように、隣から急に渋い声がしたものだから、俺は驚きのあまりくねくねした声が出てしまった。
そこには、漆黒のスーツに身を包んだ初老の男性が立っていた。声が聞こえるまで全然気配を感じなかった。
「体調が優れないようじゃが、大丈夫か?何か事件もあったそうだし、おじいちゃんと一緒に早く帰ろう」
俺は花束さんの方に顔を戻す。すると彼女はぴくり、と整った眉を動かした。両者の視線が交錯する。あれ、表情には出てないけれど、花束さん、ちょっと怒ってる?
「おじいちゃん?」
と微笑む彼女が言葉を発すると、そう呼ばれた初老の男性は一瞬だけ、すまなそうな、子供がいたずらを親に叱られた時のような表情をした。
いや、一瞬だから勘違いかもしれないけど。
「私、由利本荘くんと一緒に帰ろうと思ってたの。おじいちゃんは先に帰ってて?」
なんだろう、花束さんから有無を言わせぬオーラ、何と表現したらいいか、闘気のようなものが放たれているような気がする。
「も、申し訳…あ、いやいや、分かった。花束や、気を付けて帰るんじゃぞ。由利本荘くん、花束をよろしく頼んだよ?」
はたから見れば優雅に、気品あふれる仕草で踵を返す『おじいちゃん』なのだが、俺の目には、それはまるで何かからそそくさと逃げるように見えた。
「ごめんなさい、由利本荘くん。順番が変になっちゃったけど、もし一人で帰る予定なら、色々と物騒だから、い、一緒に帰っても、いい…?」
一緒の高校だった友人は数人いるが、こんな清楚なお嬢様に頬を赤められてたどたどしくお願いされて、断れる男はいまい。
「……じゃあ、いっしゅ、一緒に帰ろうか。家まで送るよ」
そして急に俺は緊張しだして、舌を噛んでしまったよ。格好わるいな。
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