日常の6『事件』
M県警刑事部捜査一課巡査長、佐山悟史(さやまさとし)は胃からこみ上げて来るものを我慢しながら、上司である猪木寛一(いのきかんいち)に事件の概要を報告していた。
「このアパートの大家である原久一(はらきゅういち)から1時間前に通報があったそうです。内容はアパートの二階の一室から異臭がしたのでマスターキーを使って入ったら、人の身体の一部と思われるものがあった、というものでした」
「え、なんでここに勝手に入ったの?」
猪木寛一は手帳から目線を外さず、部下の狭山に尋ねた。眉間に刻まれた皺から生えている眉の片方がピクリと吊り上る。大柄な猪木のその表情は、見る者を圧倒する凄みがある。
「それについては私も尋ねたのですが、原本人もすまなそうにしていました。なんでも、以前退去した住人が、このアパートの一室をゴミ屋敷にしたことがあったそうで、今回もそういったトラブルかと不安になって部屋に入ってしまったんだそうです」
「ああ…、そういうことね……」
「で、10分後に我々が到着して、第一発見者となった原への事情聴取となりました。被害者はまだ特定されていませんが、十中八九この部屋の住人である鈴木一郎(すずきいちろう)かと思われます。年齢は21歳。近くにある陸前大学の三回生でここ一週間、音信不通、行方不明だそうです。いま、彼の家族がこちらに……」
「……すまん、佐山くん」
猪木が佐山の言葉を遮る。
「お互いのために、外で聞くことにしよう。うっかりそこにある左足を踏んだら大変だ。鑑識課にドヤされちまう」
猪木が指を差した先には、数か所に点々と広がる血液の跡がなければマネキンの一部かと錯覚するような、いや、佐山がそう思いたいだけかもしれないが、人の身体の一部、詳しく言えば、膝から足の指先までが不自然に置いてあった。
それだけなら、数ある現場を見てきた佐山も嘔気をもよおすことはなかったのだが、六畳間1Kの狭いアパートの至るところに、男性と思われる身体の一部が複数、おびただしい血痕とともに転がっている。
あえて猪木は聞かなかったが、二人がいるキッチンから開いた二枚戸を挟んで奥に見える六畳間の真ん中、テーブルの下に、頭部と思われる塊が転がっていた。
その生気のない目線から逃げるように、二人は鑑識課の面々とすれ違いながら外に出る。
「例のバラバラ殺人犯ですかね?三カ月前に下水道を詰まらせた……」
「分からん。だが、その線も考えて動かないとな。また警部に初動捜査が悪いだの何だの言われたくない」
外に出て、錆びた階段を二人は降りる。革靴が金属の板を踏む音がリズムよく響いた。そのリズムを邪魔するように甲高い声が遠くから二人に向けられる。
「すみませーん!MTVの田村でーす!先輩っ!猪木せんぱーいっ!殺人事件って聞いたんですけど、取材させてくださーい!!」
田村、と聞こえた辺りで猪木がこれみよがしに舌打ちをしたのを、佐山は聞き洩らさなかった。
「田村か…。どっから聞きつけやがったんだ、あの野郎……」
声の聞こえて来る方に目を向けると、マイクを持った女性が嬉々とした目をこちらに向けている。猪木の大学の後輩で、M県の地方局の女性アナウンサー、田村翔子(たむらしょうこ)だ。
「今から捜査本部が設置されるだろうから、そっからの発表を待てっ!」
怒鳴るように猪木が遠くに向かって告げる。
「お願いしますよ、せんぱーい!またバラバラ死体が発見されたって聞いたんですけどー!?」
地方局なのに、いや、地方局だからか、マスコミのしつこさをこれ見よがしに田村が発揮してくれた。
あ、マズイな。と佐山は思った。大きなため息をつく猪木の顔をチラリと盗み見ると、こめかみ太い血管が浮き出ている。1、2、3、と佐山は心の中でカウントした。
「うるせえ!物騒なこと言うと地域住人が怖がるだろうがっ!この、バカヤローッ!」
静かな住宅街で、大きな猪木の声は遠くまで木霊していった。
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