日常の4『彼女は思い出す』

 初めて彼に会ってからもう二日たったというのに、天童花束はまだ由利本荘和平のことを考えている。


 今日は入学式だというのに、昨日は午前中から喫茶店のアルバイト、夕方からは近くのコンビニで夜中まで働いて寝不足気味だ。疲れの残る身体には、彼のことを考える余裕はなさそうなものだが、それでも、気を抜くと彼のことを考えてしまう。


 何とか、あの『普通』の青年に近付けないものか、と。


 桜の花香る並木道。努めて目立たぬように、スーツに身を包み、彼女は地に舞い落ちた花びらを避けながら進んでいく。


 自分でもこんな感情に途惑う。


 頭の回転は速い方だと思うし、無駄な思考は切り捨てて然るべきだと常々心掛けているにも関わらず、それでも、瞳を閉じると彼の純朴そうな顔がちらつく。


 でもそれは『彼』に惹かれているのか、それとも『普通』を手に入れたいだけなのか、そこが分からない。


 一目惚れなんて、そんな直情的な一面を自分が有していることも否定したい。


「ゆりほんじょう……、かずひら…………」


 油断した。勝手に口が動いた。

 頬が熱を帯びるのを感じる。恥ずかしい。恥だ、この感情は。何を呟いている、私は。


 周りに誰もいないのに、彼女が感情を隠す様に両手で頬を押さえた瞬間だった。


 脳天から足のつま先まで、刹那に、すべての神経を通り過ぎるような衝撃に、彼女は膝をついた。


(雷に、打たれた?)


 彼女の曇りのない双眸が見開かれる。


 脳に莫大な記憶の渦が巻いているよう。


 情報を処理するために血液を要して、心臓が鼓動を早める。


「……そうか。そうであった」


 瞬きを一度。そんな一瞬で、彼女は全てを取り戻した。


「我は……、人ではなかったのだ」


 どこか遠くから、けたたましい車のブレーキ音が響き渡る。


 立ち上がった彼女の目の前に、老いた、しかしながらその姿勢は正しく眼光は鋭く、どこまでも落ち着いた雰囲気を有する男が直立不動で立っていた。


「我が王よ。ご健勝であらせられますか?」


 言葉を発するが早いか、目の前の彼は漆黒のスーツの膝が桜散るアスファルトで汚れるのも厭わず、跪いた。

 その声に、花束は両目を見開く。


「お前は……、まさか――――か!?」


「はい。こちらでは遠野善喜とおのぜんきと名乗っております。大戦の際に、あの憎き魔法使いの禁呪を受け、不本意ながらこの世界に転生しておりました。長い間、御身を離れましたこと、お赦し…」


 遠野善喜と名乗る老人の肩越し。並木道の向こうから、幼児と手を繋いだ女性がゆっくりと向かってくる。花束はそれに気が付いた。すぐに老人に駆け寄る。


「ちょっと、善喜おじいちゃん?急によろけてどうしたの?具合悪いの?」


 心配そうにしている表情をつくり、肩をつかんで立たせながら、彼女は久しぶりに種族の能力を行使する。


(我はな…、ああもうっ!一人称が面倒くさい!私はね、つい今しがた加護を取り戻したばかりなの。記憶は戻ったけど、人間としての人生の記憶もある。私がなんでこんなに普通でいたかったのか分かった。……理解したわ。あんな異常な世界で、血で血を洗うような戦争ばかりしていたからよ。私はね、もうあんなのは嫌なの。誰も失いたくないし、誰かに狙われたり、誰かと争ったりしたくない。この世界で『普通』に暮らしたいの。協力してちょうだい)


 相手に念じるだけで同じ種族と言葉を用いない会話が出来る。王の訴えに、老人は静かに頷いた。

 どっこいしょ、と言いながら立ち上がると、別人かと思われるほどに表情が柔らかくなる。膝に付いた砂を手で振り払いながら彼は言う。


「いや、すまん。ちょっと躓いてしまってね。ああ、時間に遅れてしまう。ええっと……」


(王よ。こちらでの御名は?)


(天童花束よ)


「……は、花束や。ケガをしないように、急ごう」


「ゆっくり歩きましょう、おじいちゃん。もう若くないんだから」


「なんとっ!…我が孫ながら言うようになったわ。おじいちゃんはな、まだまだ若い者には負けんぞっ」


「はいはい。恥ずかしいからやめてちょうだい」


 向こうから歩いてきた幼児と女性が、桃色の桜が舞い散る中、花束と善喜と行き交う。

 二人のやりとりをすれ違いながらに見て、女性は微笑むのだった。


 その老人と孫が少し離れてから、母の手を握った幼い少女は振り返り、母親に話しかけた。


「おかーさーん。あのふたりはね、りゅーなんだよ?おんなのひとはりゅーじんさまなんだよ?」


「あらあら、ふふふ。竜は空想の生き物なのよ、つがるちゃん。昨日エルマーとりゅうを読んであげたからかしら?帰ったら、続きを読んであげましょう」


「わーい、やったー!つがるね、えほんだーいすきっ!」

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