第32話 二億円事件


「おはよう咲矢君」


 教室に入り自分の席に座ると、木下さんが話しかけてきた。

 だが、いつもと様子がおかしい。


「何で名前呼びなんだ?」


 自然と下の名前で呼んできた木下さん。


 今までは藤ヶ谷君と呼ばれていたが……


「色々とあって仲良くなったからね」


「じゃあ俺も心春って呼ぶわ」


「……うん」


 俺の言葉を聞いて顔を真っ赤にさせた心春。


 名前で呼ばれることに慣れているかと思ったが、意外にも乙女なところがあるみたいだ。


「俺から呼ばれるのは嫌だったか?」


「あっ、いや、思いのほか心に響いただけ」


 心春の女の子らしい一面を見て、少しドキドキしてしまう。


「というか、意外と慣れた感じで名前呼びしてきたね。咲矢君ってそういうの恥ずかしくてできなそうなタイプなのに」


「弓花っていう美人とひとつ屋根の下で毎日相対しているからな。名前呼びくらいで恥ずかしがる俺はどこかに消えていったさ」


「うざいくらい余裕があるね。まぁそういう人の方が楽だけど」


 昔は心春に連絡先を聞くことさえ躊躇していたが、今ではそれも余裕だと感じる。


 ここのところ毎日、弓花からの誘惑に対抗しているからな……

 女子と話すとか名前で呼ぶとか、もうその次元で恥ずかしがる俺ではない。


「心春って好きな人いるんだろ?」


「うん。咲矢君じゃないから勘違いしないでね」


「わかってるよ。そこまで己惚れてはない。でも、俺と親しくしててマイナスにならないか? 他の男と仲良いと思われるかもしれないぞ」


「それは大丈夫だよ、この学校の人じゃないし。気を遣ってくれてありがとう」


 少し遠い目をして答えた心春。

 もしかしたら好きな人は遠い場所にいるのかもしれない。


 遠距離恋愛なのか、もしくはもう二度と会えない人なのか……

 どちらにせよ楽しい恋ということでは無さそうだ。


「長澤さんとは順調? 喧嘩とかしてない?」


 弓花の話なので、俺に耳打ちをしてくる。


 しかし、その様子は周りの生徒から不思議な目で見られてしまう。


「お互い好きだからな、抑制してれば順調に進む。口論はたまにあるが、俺も弓花も思いは同じだから喧嘩には絶対にならないよ」


「うらやま死刑」


 心春に首をチョップされる。

 距離感が弓花と少し似ていて、どこか安心してしまう自分がいる。


「また、休日に会おうよ」


「そうだな。心春の恋愛事情も気になるし」


「じゃあ約束ね。楽しみにしてるから」


 すっかり仲良くなった俺と心春。

 まさか女友達ができるとは思ってもいなかったので、素直に嬉しいと思う。


 だが、弓花の方を見るとこちらを睨んでいたので、浮かれないように気を引き締め直した。



     ▲



 三時間目と四時間目は家庭科の授業になった。


 クラスの影の存在である俺は、グループで行う家庭科の授業が腹立たしいことこの上なかった。


 しかし、二年生になって隣の席に心春がいるおかげで、俺にも居場所が生まれた。

 心春には大感謝だが、もう一人俺というか弓花は大丈夫だろうか……


「人参は皮を向いてから切るのよ」


 器用に食材を扱う弓花の姿を見て同じグループの人は感心している。


 弓花は俺と違って料理が上手いこともあり、エース級の活躍をしているようだ。



「転校生の長澤さんって最初はどうかと思ったけど、案外良い人だよね」


「休み時間とかはずっと音楽聴いてるし、一人が好きなんだろうな。だから転校初日にチヤホヤされてパニくっただけっぽいな。めっちゃ綺麗だし、好きってやつもたくさんいる」



 近くにいた男女が弓花の話をしていた。


 最初はどうなることかと思っていたが、容姿の綺麗さと関わらなければ人畜無害であることを理解したクラスメイト達は、弓花を変に思ったりはしなくなっていた。


 むしろ俺よりもクラスに溶け込んでいて、弟子に追い越された師匠の気分だ。



「七組の高橋が長澤さんに告白するとか言ってたよ」


「無理だろうな。長澤さんのハードルめっちゃ高そうだし。一流のスポーツ選手とか、IT社長とかにしか興味無さそう」



 当たり前の話だが、弓花に好意を抱く男子生徒も多いようだ。殺すぞ。


 だが、何も心配する必要はない。弓花は男は俺しか見えていないようだし。

 実際に、今も俺の方を見てきた。


「木下さん、料理上手いね」


「あたし父子家庭だから、料理も自分で作ってるの」


「そうなんだ、女子力高過ぎ」


 弓花に劣らずの料理の上手さを見せている心春。

 弓花も少し前までは父子家庭だったので境遇は似ているようだ。


「咲矢君も手伝ってよ、ジャガイモ剥いといて」


「お、おう」


 心春から指示を受ける。


 だが、同じグループの女子は別のことに注目した。


「木下さん、藤ヶ谷君のこと名前で呼んでるの?」


「うん。仲良いから、休日も遊んだりするし」


 心春は隠すことも取り繕うこともせずに、堂々と言っている。


「そうなんだ。意外」


 グループの女子は特に羨ましそうにもせずに、意外とだけ答えた。


 俺と仲良くても何のメリットも無いよねと言いたげだ。

 だが、男子陣は違った思いを抱いたようだ。


「木下さんと仲良いとか羨ましいな藤ヶ谷」


 同じグループの男子である真中君に話しかけられた。

 初めて話しかけられたので、誰だよお前殺すぞ状態だ。


「別に特別な仲とかじゃないけど」


「でも繋がりがあるってだけで、興奮するだろ。木下さんエロ可愛いし、妄想が膨らむ」


 心春がエロ可愛いのは認めるが、俺には弓花がいるからな。

 あなたとは違うんだよ、あなたとは。


「でも俺は長澤さんかな。たまにこっちのこと見てくるし、俺に惚れてるかもしれん」


 真中君は俺の斜め前の席だ。


 弓花が頻繁に俺の方を見てくるので、勘違いした男子が生まれちゃっているじゃないか。

 罪な女だな……


「そういえば藤ヶ谷って長澤さんと親同士が仲良いんだろ? 連絡先とか教えてくれよ」


「二億で教える」


「高過ぎワロタだろそれ」


 他の男から弓花の話題を出されるのは本当に腹が立つな。


 昼休みになったら弓花といっぱい……


「痛っ」


 よこしまなことを考えていたからか、ジャガイモを切る時に自分の指を軽く切ってしまった。


「不器用だね咲矢君は」


 心春は先生から絆創膏を貰ってきてくれる。

 情けないな俺さん……


「長澤さんのことでも考えてた?」


 心春に言い当てられて、めっちゃ恥ずかしくなる。


 きっと真っ赤な顔をしてしまっていることだろう――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る