偶然

 あれから毎日、おやすみとおはようを繰り返す俺たちだったが、進展があったかといえばそうでは無かった。藤花ちゃんは、毎日おやすみとおはようを忘れずにくれるから、少し期待してしまった俺がデートに誘うと、


『無理』


『あんためっちゃ暇じゃん』


 など、ストレートに断れたり躱されたりで会ってくれなかった。だから、メールを繋いでも、朝と夜に生存確認するくらいなもので、もう2月を迎えたこの時期でも何も進展が無かった。妄想の中では、今頃データを重ねていい感じの雰囲気になって、それで、バレンタインデーにはチョコレートを貰う……というシナリオを期待していたのだが、現実はそう甘くない。相手があの毒花みたいな少女だから余計なのだろう。でも、この好きはやめられない。悲しい結果を迎えようとも、きっと後悔はしないから。


 日曜日。バイトのシフトも入ってない上、活動の多いサークルに入っているわけでもない俺は暇を持て余していた。家でだらついているのが勿体なく思えて、思いつきで散歩に出る。屈託のない笑顔の溢れる公園、すれ違う商店街、風の吹く並木道、なだらかな芝生と爽やかな音の河原。今となっては河原でキャッチボールする親子なんて見かけないが、俺は父さんによく付き合って貰った記憶がある。姉ちゃんは、何が楽しいんだかわからないような顔をして、兄ちゃんは自分から誘ってきて。兄ちゃんは大好きだったけど、キャッチボールは父さんと、となぜか強くこだわっていたから、兄ちゃんのことは毎回振ってたっけ。


 懐かしくなって、坂になっている芝生の中程に腰を下ろし、ひやりと光る銀色が挟まった小説を取り出す。栞を見るだけで、無意識に俺はふっと微笑んでしまう。


 ふと、見覚えのある後ろ姿に目が行く。あれはもしかしなくても


「藤花、ちゃん」


「ひあっ!?……ま、マコちゃん……?久しぶりじゃん、相変わらず暇してんの?まあ、その様子じゃあそうなんだろうけど?」


 毒花の藤花ちゃんだ。コートの下に黒いシャツにラインの入った白いセーター、スカートに黒いタイツにブーツという装いの藤花ちゃんは、俺の大好きな涼しげな瞳で俺を見ながら、軽く憎まれ口を叩く。俺は気にせず会話を続ける。


「うん。バイト無くて、暇しちゃって。藤花ちゃんは?絵を描きに来たの?」


「ん。見りゃあ分かんでしょ?風景画、ここで描くの好きなんだよね。あんたは本読むんだ?なになに……はること……?」


「うん、春琴抄しゅんきんしょうだね。最近この作者さんのハマってて」


 藤花ちゃんはあんまり漢字が得意では無いらしい。頭の回転は速いけど、勉強はできないタイプなのかもしれない、なんて勝手に考える。藤花ちゃんはどんな絵を描くのか、少し気になって聞いてみると、人か風景かモノの模写、と言われてしまった。それ殆ど全部じゃないのかと思ったのだが、彼女曰く違うらしい。


「あたしは写生スケッチが好きなの。デザイン系とか抽象画は描かないし、ほぼ鉛筆だけで色も滅多に塗らないし。塗るとしても絵の具は使わないから、系統はワリと絞ってんのよ。まあ、人に見せられるクオリティじゃないから、あんたには見せないけどね」


「藤花ちゃん……!」


「なに」


「俺のことちゃんとヒトだと思ってくれてるんだね!」


「そうだった、アンタ害虫だったね」


 てことで失礼します!と彼女のスケッチブックを覗く。一瞬、風景をモノクロに切り取った写真のような絵がスケッチブックの中に見えた。その刹那、俺の頭から人間から鳴ってはいけないような、ゴッという鈍い音が鳴るとともに眼前がグラついて、俺は地面に転がった。如何やら彼女の肘鉄砲を頭に食らったらしい。頭のジンジンする痛みをさすって起き上がると、藤花ちゃんは少し怒ったような恥ずかしそうな顔をして、


「何見てんのよ、バカ!」


 と言う。



 …………可愛い。


「ごめんってばぁ……。でも、めっちゃ上手かったし、肘鉄食らわさなくても……」


「は?もう一発喰らって地面にめり込みたいって?」


「御免なさい」


「分かればいいのよ、ヒト科ゴミムシ男」


「めっちゃ悪口言うじゃん……」


 甘くないけど。藤花ちゃんが隣にいて、話してくれて、笑ってくれて。これが一番、楽しい気がしてきた。肘鉄は、この娘プロなの?ってくらいめっちゃ痛かったけど……。

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