BLAME

 部屋の空気を震わせて、チャイムが鳴った。

 外ではひどい雨が降っている。朝方はそうでもなかったのに、午後になって急にひどくなった。こんな時にわざわざ訪ねてくるのは、よっぽどの物好きだと思う。

 それではその物好きに敬意を表して、と彼はドアを開けた。思いがけない訪問者に彼は大きな目を見開く。


「どうしたの」


 こんな日にくるのは珍しい。今の時期なら、部屋の中に閉じこもっているの方が多い奴なのに。

 友達は服の裾からやら髪の毛から水滴をぽたぽたと落としながら、笑ってるとも不機嫌ともつかないような表情で、軽く手にまとわりつく水を払いながら言う。


「悪いけど、ちょっと塩かしてよ」


 友達は黒い服を着ていた。彼にしては珍しい「まとも」なスーツである。ある程度は着崩していたが。

 彼は友達の言うままにキッチンへ引き返すと食卓塩の小瓶を持ってきて、靴下を脱ごうとする友達に手渡すと、


「悪いけど今、これしかないんだ」

「十分」


 友達はさらさらと自分に振りかける。

 濡れた黒い服に一瞬さらさらと白い膜ができ、すぐに溶けて消えた。


「入っていい?」

「何いってんの」


 今更。彼は大きくドアを開ける。


「珍しいじゃない」

「何」

「黒い服さぁ、以前はステージとかでも着てたけど最近は見なくて」

「ああ」


 そのことか、と友達は首を傾ける。髪からも水が滴り落ちる。


「そーしきがあったの」


 ふーん、と彼は友達の言葉を受け流す。友達が特に会話を求めている訳ではないのは知っているから。 彼は食卓塩を戻しついでに、ハンガーに吊るしてある大きなタオルを取り、友達に放った。

 友達は濡れた服を取りながら、誰にともつかない言葉を続ける。


「別に直接知っているって人じゃないんだけれど」

「親戚が何か?」

「知らない人」


 友達はうるさそうに緩くウェーヴした茶色の髪をかきあげる。勝手知ったる他人の家、とばかりに洗面所へ行くと、これ貸してよ、と彼のよく使うクリップを掲げる。別にいいよ、とキッチンの彼は言う。


「濡れた方の服貸しなさいよ」

「別にいいよ、乾いたら着てくし」

「クリーニング出さなきゃならないでしょうに」

「あ、塩まみれ」


 今更のように友達は気がついた。



「そんなに人がいい訳でもないでしょうに」


 キッチンから彼は友達に言葉を放る。


「僕だってそう思うよ」


 友達はあっさりと言う。


「別にさ、放っておいても良かったんだけど」

「どういうひとな訳?」


 ようやく彼は友達がそのことに聞いて欲しいのに気がつく。


「僕たちの音を良く聴いてる子」

「女のこ?」

「一応ね」


 友達はあまり関心が無さそうに喋る。


「どうやって調べたのか、わざわざハハオヤがやってきて」

「なじされたりしたんだ?」

「や、その逆。別に何も。ただ真剣に頼まれてしまって」


 それで大変だったんだよ、と友達は黒い服を指す。


「久々に出したから防虫剤のにおいがとれなくて困るんだから」


 くす、と彼は笑う。そしてトレイにカップを二つ乗せて、友達の前に置く。友達は少しだけ唇をとがらせて、カップを渡す彼に向かい、少しばかりの怒りを浮かべる。


「何だよ」


 彼は友達の前に座り込む。


「珍しいこともあるもんだな、と」

「だから別に放っておいても良かったって……」

「うん」

「そう思ってないだろ」

「まあね」


 全く、とつぶやきながら友達はカップの中味に口をつける。しばらく黙っていたが、友達はやがて彼の方を向くと、


「考えたことない? 僕らの音が引き金になるって」

「引き金? 何、どっかのバンドの新曲じゃあるまいし」

「理屈は一緒なんだと思うよ。ただ、それが生きてる方向に向かうか死んでる方向に向かうかの違い」


 友達は彼を凝視する。


「そりゃあまあ、あまり、健康的なものではないと思うけれどね」

「全然健康的なんかじゃないでしょう」


 あざ笑うような口調。彼は友達の一面に軽く驚く。


「空に溶けてしまうとか、眠ってしまって目覚めたくないっていうのは、少なくとも健康な人間の考えることじゃないと思うよ」

「そお?」

「そおだよ」


 友達は言い切る。確かにそうだろうな、と彼も思う。友達の言っているのは、別に朝の寝起きのことじゃないのだ。


「僕が気持ちいいと思って書いてる世界ってのは、確かに誰かにも気持ちいいのかもしれないけれど…… そのまま気持ちよく全てを捨ててしまいたいって取るひともいるのかもしれない」

「聴いたら気持ちよく全て捨てて眠ってしまいたいって?」

「作っている側に全くそういう気がないとは言えないでしょう?」


 猜疑的な目。


「確かに僕だって考えない訳じゃないんだから」


 友達はいつのまにかカップをトレイに戻すと彼の借り物の長いシャツごと膝を抱え込む格好になる。友達がひどく小さな子供に、見える。

 どのくらいそうして言葉を止めてしまったのか。

ふと友達は背中の温みに気付く。


「大丈夫だよ」


 友達は彼に言う。


「それでも僕は、死なないから」

「本当?」

「時々、昔のこととか、誰かの言う僕への言葉が勝手に浮かび上がってくることがあるんだ」


 彼は黙って友達の背を抱きしめたまま。


「僕の記憶のはずなのに、勝手に浮かび上がってきて、通り魔のように僕を傷つけて去っていく。記憶はまた奥底に閉じこめられるけれど、痛みはしばらく消えない」

「……」

「誰もいない夜なんかに、音のない夜に、色の無い時間に、気がつかないうちに僕は自分のしてきたことを数えてる。そんなときは、苦しい。息ができないくらいに胸は苦しい。水の中に放り出されたように。楽になりたいって…それは僕の台詞じゃないか」

「だけど、生まれてきたんだから。伝わってほしいから。だから…」


 友達は目を閉じる。


「何かの本で、言ってたんだけどさ」


 彼は何気なく言う。自分の位置は変えない。


「とにかく、踊り続けろってさ」

「?」

「トラブルは絶対に待っている。でも、生きるために、踊り続けろ、ステップを間違えずに、すべきことをすべきように、って」

「シビアなこと」


 友達はくすくすと笑った。

 踏み外した時には。


 彼はその続きは言わない。

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