第16話 壁

 私が失敗したら取り返しがつかないことになるんじゃないかという不安が頭をもたげる。


「ふーっ、ふーっ、ふーっ、31,32,33,34,35,36,37,38,39,40」

 大量の汗をかきながら人工呼吸と胸骨圧迫を続ける槇子。


 もうすぐ惠美が交代しなくてはいけない。

「41,42,43,44,45,46」


 怖い。倒れているお婆さんの顔は未だに青ざめた、いや土気色で生きているのかどうかわからないままだ。こんなことして蘇生するんだろうか、私にできるのだろうか、出来なかったら私はこの人を殺してしまった事になるんじゃないだろうか。怖い、無理だ、怖い怖い怖い怖い……


 死ぬのか。死んでしまうのか。

 この土気色の顔色で意識を失っている老婆はもう生き返らないのではないか。多喜の様に。そして最後はただの骨片になってしまうのか…… 槇子がこれほど懸命に蘇生術を施しても死ぬ定めを変えることはできないのか。先ほどの意気はたちまち煙のように消え、無力感が惠美の中に生まれる。


 遠くから救急車のサイレンが聞こえた。


 惠美は遠くから近づいている救急車を見つけ飛び跳ねる様にして必死に手を振る。一秒でも早く来て早くこのお婆さんを病院に運んでいって欲しい。ごめんなさい。怖い。私じゃ無理です。私は槇子さんのように勇敢じゃないです……

「ふーっ、ふーっ、よかった救急車来たぁ~ 61,62,63,64,65,66」

 交代の約束をした50を超えても玉の汗を浮かべながら心肺蘇生術を一人で続ける槇子。

 それを少し遠目から見つめて畏敬の念と後ろめたさと恥ずかしさでいっぱいになる惠美。


 その十数秒後に救急隊が到着すると、お婆さんは救急隊員の手によって手際よくストレッチャーに運ばれる。その間、槇子と惠美の二人はマスクをした小太りで眼鏡をかけた白髪交じりの隊員に簡単に事情説明をする。


「本当によくやって下さいましたね。経験がおありなんですか? 」


 事務的なのか、感心しているのかよくわからない印象で左の紫色のゴム手袋に何か書きながら話している救急隊員。こっちも見ないで失礼な奴だな、という気が惠美に浮かぶ。


「救急法の基礎講習受けていましたので……」


 慌てて財布から白い名刺のような紙を見せる。左上隅に赤十字が印刷されている。

 救急隊員はそちらに眼をやると特に感慨もなさそうな声で話す。

「なるほどそうでしたか。受講していてもなかなかスムーズに実践できるものではないですよ。素晴らしいです。」

「いえ、講習と実際は色々違って焦って…… それに本当は救急員養成講座も受講したいのですが、なかなか時間が……」


 疲れたような照れ臭いような気恥しいような嬉しいような、と複雑な表情でやたらとぺこぺこする槇子。それをすぐ隣という彼方から見つめる惠美。槇子を尊敬する眼差しで見つめつつ、勇気のない自分のを卑下する気持ちで苦しい。


「拝見させていただいたところ実に的確な救命措置でしたよ。機会があれば是非救急員も目指してください」


「それと、通報して下さった貴女にもお礼を申し上げます。ありがとうございました。」

 ゴム手袋から目を離して惠美を見る。

「……っ」

「とっさにはなかなか適切な情報を伝えられないものです。お若いのに冷静に対応できましたね。お見事です」

「や、わ、私は槇子さんの言われたとおりにしただけで、な、何にも、本当に何も……」

 惠美は自分では何もせず無我夢中で槇子の指示に従っただけの自分が恥ずかしくて、自分でもわかるほど真っ赤になる。挙句怖くて胸骨圧迫から逃げ出した自分に苛立ち、俯く。

「そ、それは… いきなりだったんだもの、びっくりして慌てちゃうのは当たり前だから気にしなくていいの。ね?」

 泣いてるとでも思ったのか慌てたように槇子が後ろから惠美の両肩を掴む。励ますように優しくゆする。こんな風に人から優しくされたなんてしばらくなかった。すっかり忘れてた人の優しさに触れたせいか、今度は本当に涙が溢そうになる。

 優しい人の手は温かくて、冷え冷えとした心に少し日が差しこんだ。


「お二人はお知り合いだったんですね。医者でない私が言うのもなんですが、あのお婆さんでしたらまず大丈夫でしょう。お二方の適切な措置と迅速で正確な通報のおかげです。いいコンビしたね。本当にありがとうございます。お二方にはいずれご連絡差し上げますのでよろしくお願いします。では。」

 そうか、あのお婆さんは亡くならずに済むのか。多喜とは違って生きる事が出来るのか。死の淵にいる人でも周りの人たちの努力で生を取り戻す事もあるのか。今さっきここで目の当たりにした通り、それはそう簡単なことではないのだろうが。


 惠美や槇子と会話をしていた救急隊員が救急車に乗り込むところで、車内の他の隊員が「蘇生しました」と口にしているのが聞こえた。救急車の車内で蘇生措置を行っていたようだ。先ほどの救急隊員は惠美と槇子の方を向き手を振って頭を下げた。目が笑っているように見えた。槇子が礼をするので惠美もそれを真似て慌てて礼をする。そして救急車はサイレンを鳴らして走り去っていった。


 あのお婆さんの命を救おうとするだけでもこれだけ大変なことだったのに、すでに死んだ人を蘇らすなんて不可能だ。

 どんなに強く願っても、物理的には絶対に超えられぬ生死を隔てる壁。現実にはそれがあるのだと、今惠美は理解できたような気がした。


 そうか、もう多喜は。多喜はもう。その壁の向こうの存在なのか。あたかもあの分厚い冬の逆巻く海のうねりのような壁の。

 決して覆せない厳然とした真実をようやく惠美はその胸に落とし込む事が出来た。



【次回】

 第17話 救いなき決意

 5月6日 21:00 公開予定


※2020年10月23日 加筆修正をしました。

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