第17話 救いなき決意

 救急車も救急隊員も野次馬もいなくなる。そうなると道は広いくせに人も車も少ないいつもの風景に戻る大通り。そろそろ日も落ちようとしている。槇子はひとつ大きなため息をつくとがっくりと膝に手をつく。

「良かった…」

 明らかにホッとした声でつぶやく槇子。自分ではほとんど何もしなかったものの、人命救助の一助になったという事実は惠美にとっても自分自身を救ったような、ほっとしたような気持がほんの少しわいてくる。


 槇子は顔を上げて惠美を見上げてにこっと笑顔を向ける。

「ふふふふ… いいコンビですって…」

「!」

 救急隊員に言われていた時は全く気が付かなかったが、今にして思うと実に気恥しい台詞だ。惠美は耳まで真っ赤になる。惠美は何か拡大解釈して動揺する

「そ、だっ、そっ、だってそれは、さっきのAEDのっ、」

「えへへへ、そうだよねえ 」

 苦笑しているようにも見えるが、やはり満面の笑みがこぼれる。一方で本当に疲れているようで歩道のガードレールにお尻を預ける。

 疲れた表情が張り付いていても槇子の満面の笑みは、やはり惠美にとって正視に堪えないほど可愛い。

(なんなんだ、なんなんだ、なんなんだ、あの30過ぎて可愛いって一体…)

 惠美は顔を赤くしながら目を逸らすしかなかった。


「今度ね…」

 ふと、さっきまでのおっとりとした口調と少し違う声で槇子が呟くように話す。惠美は不思議に思い槇子を見下ろす。

 惠美の胸の奥がきゅうぅうとなるような面持ちで槇子が惠美を見つめていた。

 分からなかった。なんでそんなに切なそうな目でこっちを見つめるのか。

 そしてそんな目で見つめられたからといって、なんで自分の胸がこんなにもきつく締め付けられるのか分らない。早鐘を打つように鼓動が激しさを増すのが分からない。

「今度、多喜ちゃんと一緒に行ったところに連れていって欲しいな」

 予想だにしなかった言葉に動揺した惠美は、思わずつっけんどんな言葉を突き放すように吐いてしまう。

「そ、そんな、場所教えますから一人で行ってきて、く、ください、よっ……」


 槇子がそっと惠美のブレザーの袖を掴む。嫌悪感はない。ないどころか胸のドキドキがますます止まらなくなる。心音が外に漏れそうで恐ろしくなる。どうしたんだ私は一体どうしちゃったんだ…… 槇子の瞳の美しさに吸い込まれそうだ。

「一緒に行きたい。そうでないと意味がないもの。そして、多喜ちゃんとどんなことをしてどんな話をしたのか。そういうのをみんな知りたい。教えて欲しい。そうしないと…… なんて言えばいいかな…… 私は多喜ちゃんとちゃんとさよならできない気がする。うん、ちょっと違うかもしれないけれど……多分そんな感じ。それに…… それに、私ね…… 私……」


 真剣な眼差しで惠美を見つめる槇子。しかし、その眼差しに射抜かれ、惠美は今確信した。このままでは必ず多喜を裏切ると。槇子の眼差しはそれほどまでに惠美の心に突き刺さって、さっきとは逆に目をらすことができない。そんな自分が怖い。永遠の愛を裏切ってしまう確信に嫌悪感が走り自分に対する激しい憎悪が湧く。もう決して還ってはこない壁の向こうの多喜。だからせめて多喜への愛だけは自分の生きている限り、永遠に。

だから槇子にこれ以上しゃべらせてはいけない。

そうしたら私は。裏切り者に。


「……ムリです」


 槇子の表情に魅入られながら、やっとの思いで呟くように拒絶の言葉を絞り出す。


 今度は先ほどとは違う恐怖に襲われぞわぞわと鳥肌が立つ。これで槇子とは永遠に会えなくなるかもしれない。

 それでも構わない。惠美は思い返した。私には多喜がいる。多喜との思い出がたくさんある。多喜への溢れんばかりの愛がある。それがあればきっと自分は何でもできると思う。だからその多喜を裏切りたくはない。

 だからこれでいい。これでいいんだ。


「どうしても、ダメかな?」

 袖を掴む槇子の指の力が強くなった気がする。

 互いに目を離さない。目を離せない。表情もほとんど変わらない。しばしの沈黙。ダンプの走行音。数人の人通り。街灯がぽつりぽつりと点灯し始める。


「はい…… 

 ……どうしても…… 

 …………ダメ……です……」


 惠美はようやくかすれ声をもう一度絞り出した。目を背けたいのに怖くて目を離せない。吸い込まれるようにその瞳を食い入るように見つめる。本当に綺麗な瞳。


「そ……か……」

 きっと今の惠美と同じであろう胸苦しい表情で、惠美を見つめていた槇子。惠美の拒絶の言葉を聞くと寂し気に微笑んで視線を落とし、惠美の服の袖からすーっとゆっくり手を離す。



 しゃきっと立ち上がると、いつものふわっとした優しさが消えた、惠美の見た事のない顔で笑う。見たくなかった顔で笑う。


「今日は色々大変だったね。お疲れ様。私も疲れちゃったから残業休んでもう帰っちゃおっと」

 踵を返した槇子は、少し振り向いた。


「じゃね」

 この時の槇子は笑っているようには見えなかった。

 そしてとても疲れたとは思えぬ勢いで風を切って惠美のもとから歩み去っていく。


 今、駆け寄って引き留めればまた槇子と会えるようになる。槇子がしたみたいに袖を掴んだっていい。そう思うと右手の指がぴくりと動く。このままではあのどこか気の抜けた、いや、どこもかしこも気の抜けたふわっとした笑顔が見れなくなる。二人で色々な所に行ってみたい。本当は行ってみたい。多喜と行ったところでなくたって構わない。

 だけど、怖い。自分が変わるのが怖い。多喜以外と親しくして、多喜を捨てるような真似をする自分は絶対に許せない。自分は多喜を愛していると誓い、奇しくも槇子が教えてくれたように、多喜も最期まで私を愛してくれていたに違いないと信じている。それをなかったことにはできない。多喜への愛も多喜からの愛も多喜の死によって永遠に惠美の魂の深奥に刻み込まれている。だから私はそれを覆すことは絶対にしてはならないと惠美は思った。そして理解した。自分の心は多喜という死者と共にあるものなのだ、と。

 その考えに至った惠美はぶるっと身体を震わす。心の凍てつく悟り。拳を強く握り、くるりと振り返ると槇子とは反対の方角に歩みを進める。

 この道はもう引き返せない道。


 私はもうこの道を違えない。


 私は一生死ぬまで多喜と一緒だからね。惠美は固く冷たく決意する。


 陽の落ちた初夏の風は急速にその温度を下げていった。



【次回】

 第18話 死者と生者

 5月7日 21:00 公開予定

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