第8話 愛する人を信じる
恵美子が手を差し伸べたその時、まだ完全には泣き止まないままの槇子は車のハンドルから面を上げた。
惠美はビクッと右手をひこうとするが、こちらを向いた槇子にはしっかりとその手が視界に入っていた。
「……ありがとう。優しいのね。ぐすっ やっぱり多喜ちゃんの惚れた子だわ。ふ……」
槇子は泣き笑いしながら涙を拭っている。
「良かったら、その…… 差し出がましいようですが…… その、手をお借りしていいかしら」
惠美は黙って宙に浮いていた右手を差し出す。その手を槇子は両手で包むようにして握る。多喜とは違う温かさと柔らかさを感じる手。
「ああ、この手が多喜ちゃんと繋がってたのね。羨ましいなあ…… いつからお付き合いなさってたの? 全然知らなかった。それを言えるほど信頼されてなかったのかなぁ私」
「あ、一昨年の二月十四日、つまり今日で……」
「そう…… 二人の記念日だったのね、今日って。バレンタインデーが記念日っていいなあ…… 私は毎年もちろん義理チョコを貰ってたけれど、私の方はこっそり本命をあげてた」
俯いて呟くように、誰に聞かせるでもなく独り言のように呟いている槇子。更に俯き、さっきよりは少ししっかりした声になる。
「もう当然わかってると思うけど、包み隠さずいいますね。私も多喜ちゃんが好きだったの。真剣に。あ、大丈夫。私の事は絶対ばれてないから。」
やはり、と惠美は得心がいった。そうでなければあれほど苦しそうに涙を流すはずがない。私のように。
「私は多喜ちゃんとはただの親戚どまりだったけど、貴女が彼女さんだったんだからきっと多喜ちゃんは幸せだったでしょうね。」
そう言われると惠実の表情は曇る。もしかすると多喜は幸福ではなかったのではないか、その思いが惠実をずっと
「たぶん、そんなことなかったと思います…… 幸せだったら、多喜は……自分で……」
惠美は自分の手と声が小刻みに震えてきているのがわかった。怖い…… 考えたくない…… 何故…… 何故多喜は惠美を捨てるようにして自ら命を絶ったのか!
惠美の言葉と手の震えに気付いたのか、槇子はそんな惠美の手をぎゅううっと握った。その力の強さに驚く惠美は思わず槇子の顔を覗き込む。今度の槇子は優しく励ますようで少し怒ったようで、それでもやっぱり本当に可愛らしい顔で、まだ涙のこぼれそうな真剣な眼差しで惠美を見つめていた。こんなに優しくてこんなに強い瞳で見つめられたのは初めてだと思う。また胸が苦しくなる。その眼をその瞳を、もっと見つめていたい。
「違う。そんな事考えちゃ駄目。さっきのと同じくらい駄目。多喜ちゃんは、多喜ちゃんは絶対に貴女の事が大好きで大好きで、愛してて、絶対に、最期の最期まで貴女の事を想っていたんだから。」
惠美にはこれほどまでに断定的に言われるのが不思議だった。
「どうしてそれが……」
「理由なんてない」
「えっ」
「敢えて言うなら、あなた達は愛し合っていたから。それが理由。貴女が愛した人を、その愛を、信じてあげて…… ね?」
「……はぁ いや…… でも…… ええ、はい。」
惠美は槇子にすっかり気圧される形で思わずあいまいに返事をしてしまう。それでも槇子は分かってくれたようだ。
「よかった」
すっかりメイクが崩れた槇子が少し笑う。考えてみれば惠美にも槇子の言う事が少しわかる、少しだけ。
「愛した人を、多喜の愛を、信じてみます…… そんな風に考えたことなんてなかった」
俯いて、数か月ぶりに僅かながらも明るい表情が浮かぶ惠美。何かに照れたように微笑みを浮かべる惠美を見て槇子もなんだか少し嬉しくなって頬を赤らめた。
「ちょっとぐちゃぐちゃになっちゃった。直しますね。すぐ終わらせますから待っててください。」
槇子はバイザーを下ろすとミラーを開きポーチも取り出してメイクを直し始める。それを横で眺める惠美だが、彼女の不思議な可愛さが目を引きつい見つめてしまう。しかし可愛いと思う彼女のその齢は一体? マナー違反なのは重々知りつつも聞かずにはいられなかった。
「こういうのは聞いてはいけないと分かっているのですが、あの、その、おいくつなんですか?」
「うーん、驚かないでくださいね。三十二なんです」
「え……」
「一回り以上違うんですよね… これで高校生を真剣に好きになるとか、ロリコンみたいで引いちゃいますよね。ヘンなおばさんでしょ。気持ち悪い話でごめんなさい」
メイクをしている槇子の笑顔は引きつった苦笑いだった。世間的に受け入れられない想いだと感じての自嘲なのかも知れない。
でも、そんな顔もやっぱり可愛い。そう惠実は思う。
「でも、その、私みたいなのが言っても怒らないで欲しいんですけど…… ほんと全然そんなお齢に見えないですし…… 槇子さんってすっごく…… その…… 全然大丈夫…… いや何がどう大丈夫って…… いや、まぁ…… ほんとに、 その、か可愛い…… と思います…」
「…………」
なぜか動悸が止まらない惠美はなんだか照れくさくて、その上恥ずかしくて、槇子から視線を外して正面を向いてしまう。車外の景色はそろそろ日が落ちようとしている。惠美としては槇子を励まそうと咄嗟に声を掛けたわけだが、どうして可愛いとまで言ってしまったのかは自分でもよくわからない。でも本音だからまあ構わないか、と槇子の可愛さを惠美ははっきりと自覚した。
しかし、黙っている槇子に、怒らせてしまったかも、とちょっと後悔する。槇子さんに嫌われるのは嫌だ、とこれもまた久しぶりの感情が生まれた。今まで誰に嫌われようとどうでもよかったのに。槇子さん、きっとからかわれたとでも思っているんだろうな。
ところがそっと自分の右横の運転席を覗き見てみると、槇子は硬直して、その手は止まり、ミラーを見る顔は惠美に不意打ちを食らった為に真顔で首から耳まで真っ赤になっていた。それがまた実に滑稽で惠美はつい吹き出してしまう。声を出して笑ったのは実に何カ月ぶりか。
「クスクスクスっ」
槇子は更に虚を突かれた。先ほど思っていた通りのまるで多喜みたいな笑い声に。またもや身体が硬直しそうになったがうまくごまかす。
「しょ、職場でも部下にカワイイ、って言われちゃうから困ってるんですよねえ」
今度は創り笑いでそう答えメイク直しを続ける。槇子は何故か動悸が止まらない。職場で若いコに言われても何てことないのに。
「それなりの役職についているから威厳がなくて本当に困る…… もうコンプレックスって言っても良いかも」
「あ、す、すいません……」
恐縮して身を縮こまらせる惠実。気がつくと惠実は槇子に対し素直に言葉も態度も表すようになっていた。
「いいんですよ。多喜ちゃんの恋人から言われたのならむしろ光栄、かな? へへ……」
またそんな緩い笑顔で笑って、そう思いつつ惠美は槇子に見惚れてしまっている自分にはまだ気付いていない。
【次回】
第9話 2月14日-9 微笑む心
4月28日 21:00 公開予定
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます