第7話 願望という呪い
「でも、もう逢えませんから……」
ふと惠実が吐いた真実の重たさと冷たさに二人は凍り付く。
車内に数分間の沈黙が続く。惠美は本当のことを言っただけのつもりだったが、なぜか気まずい。二人はともに喪失感を噛みしめていた。
「それでも羨ましい… もう逢えないとなればなおさら羨ましいかな。大事にしてあげてね。多喜ちゃんとの思い出を」
惠美ちゃんの心は、多喜ちゃんがいないという酷薄な現実から生み出された凍り付いた鎖によって完全に絡め取られてしまっている。過去の想い出に喜びではなく苦悶を覚えている。それを思うだけで自分まで胸が痛くなる。
でも、それは私も同じか…… 槇子は心の中でそう独り言ちた。
惠美に嫉妬をおぼえつつも、槇子には惠美が不憫でならない。槇子も苦悩してはいるが、あらゆる救いの届かぬ深淵で倒れ伏したままの惠美に手を伸ばせてやれないものか。同じ女性を愛した人として。それに、惠美はきっと多喜のようにお日様のみたいな声で笑うだろうに。
沈黙が続く静かなハイブリッドカーの中で惠美の言葉が響く。
「でも、それでも、やっぱり一度でいいから、も一度多喜に逢えるなら私何でもするのに……」
わかっている。自分でもわかっている。わかっているのにどうしても消えない、消せない願望。言っても絶対に誰も叶えてくれない。こんな思いを不意にぽつりとつぶやく惠実。
自分の苦しみをちゃんとわかっていて優しくしてくれそうな人に甘えて慰められたかった。惠美はもういい加減疲れきっていた。
槇子の硬質な言葉が車内に響く。
「……それは絶対に叶わないから」
一瞬にして全身に怒りが走る惠美。
「無駄な考えだから、その考えは捨てなくちゃ駄目」
続けて放られた槇子の言葉に、惠美は槇子に向って何かを、恐らく間違いなく暴言を吐いてしまうに違いなかった。
が、惠美は何も言い出せなかった。惠美がきっと睨み付けた槇子はこれまでと全く違って瞳を潤ませていた。すーっと惠美から怒りが消えさる。さっきまでの自分も、その量はともかくこんな風に涙を流していたのだから。
一方の槇子は自分でも一番苦しくなる考えを不意に耳にし動揺した。これまでうまく抑制していた感情のタガが突然外れてしまったのだ。
硬く凍り付いた表情のまま言葉が勝手に溢れ出す。これは惠実を諭しているのか、自分に言い聞かせているのか、槇子自身でも良く分からなかった。
「どんなに、好き、でも、愛していても、大切に想っていても…… その気持ち、が、あるからって人を蘇らすなんて事はできない、の。ぐすっ…… そのまま出てこれない闇の底に落ちて行ってしまうから…… 這い上がってこれなくなっちゃう…… だから、ぐじゅ…… も、う、そういう風に考えないで、ね…… ぐずぐず……」
惠美もまた涙が止まらなくなってしまった。心も爆発寸前だ。
「じゃ、あ、あどうすれば、どう考えればいいんですか…… 叶わなくてもその気持ちが止まらないんです…… そう考えたいじゃないですか…… 私はもう多喜のいない世界でなんか生きていたくないです…… わからない……わかんないよ…… 私はこれからどうやって生きて行けばいいんですかっ! ……教えて下さい!」
槇子は惠実に言い訳をするような声を絞り出す。
「ごめんなさい、ちょっとだけごめんね……」
槇子は車を路側帯に止め、そのままハンドルに突っ伏すようにして泣き出した。嗚咽が止まらない。涙がチャコールグレイのパンツにぱたぱたと滴る。その涙の量は多喜の墓前で流した惠美のそれに匹敵するものだった。
「ごめん、ごめんなさいね。私の方がずっと大人なのに…… ぐすっ でも、ぐすっ、やっぱり、私も、同じ事考えているの…… ずっと、ずっと…… いつも…… 多喜ちゃんが、多喜ちゃんが、いつもの様にいてくれて、いつもの笑顔で話しかけてくれるんじゃないかって。
もしホントにそうなるなら、私だって私だって、私の命だって… 何を犠牲にしても構っわないっ、から…… でも…… きっと…… ぐすぐす…… 貴女も同じことを考えているでしょうけど……」
槇子はハンドルにしがみ付くような姿勢のまま大きく息を吸い込んだ。
「でももう何をしても多喜ちゃんは還ってこないのっ! 貴女も分かって!
還ってこないっ! 還ってこない! 絶対に還ってこないのよっ! 絶対にっ!
うううっうああ… うあぁあぁあぁあーぁぁー」
まるで駄々をこねる子供の様にして泣き出してしまう槇子。
「私も、私もっ! わからない、わからない、わからないの……ぐじゅぐじゅ…… どうやって生きて行くかなんて! 貴女とおんなじで、多喜ちゃんのいないこんなところで生きていたくなんかないですものっ! うあっうっ ぐずっ うっうっひっく…… いや…… いやだ…… うっく、いやなのっ…… ひっくひっく…… うああああ…… 多喜ちゃんが、多喜ちゃんのいないなん、て…… いない…… いな、い…… ひくっ…… うっ……」
きつく握ったハンドルに突っ伏し、細い肩をしきりに揺らしながら嗚咽する槇子。いつまで経っても泣き止む様子がない。
あの優しく穏やかで明るそうに見えた彼女がこれほどの苦悶を抱えていたとは。惠美は絶句して槇子を凝視し、甘えようとした事を後悔した。悲しさと情けなさ哀れみが惠実の中で生まれ、嫌悪にとって代わる。
先ほどまで同じように泣いていた自分と槇子が重なる。
彼女もまた多喜を失った事でこんなにも深く苦しむほど強く愛していたのだ。全く同じ苦悩を抱える者を見て惠美は今までと違う感情を覚えた。それが哀れみなのか優越感なのか同情なのかはわからない。それでも、ここで苦しんでいる彼女を不憫に思い放ってはいられない気持ちは確かに生まれていた。
そんな惠美も改めて多喜を失った悲しみの涙を流しながら、槇子を慰めた方がいいのか、何か声を掛けたいが、自分に槇子を慰められるようなうまい言葉がかけられるのか……
槇子と同じく涙が止まらない惠美は、逡巡しながらも右手をそっと槇子に向って伸ばした。
【次回】
第8話 2月14日-8 愛する人を信じる
4月27日 21:00 公開予定
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