13.明治~大正 立身出世官僚ルートの確立 ―中等教育の文理区分―

13.明治~大正 立身出世官僚ルートの確立 ―中等教育の文理区分―


 前回は幕末から明治初期にかけて、「科学」という考え方を急速に導入する様を見ていきました。今回はついに現在の文理区分の直接的なルーツになる教育制度の整備、そして教育制度の影響力を大きくした官僚登用制度を見てきます。


1.学校制度成立期 「学制」の教科


 日本の学校制度は1872年(明治5)の「学制」で定められ、まずは小学校を普及させる所からのスタートとなります。ここでの「教科」は小学校、中学校で以下のようになります。小学8年間、中学6年間がそれぞれ3年ずつ下等と上等に分かれ、上下で若干の教科の差異がありますが、ここではそれぞれ下等を記しています。

 

◆下等小学

字綴・習字・単語・会話・読本・修身・書牘・文法・算術・養生法・地学・理学・体術・唱歌

◆下等中学

 国語学・数学・習字・地学・史学・外国語学・理学・画学・古言学・幾何学・記簿法・博物学・化学・修身学・測量学・奏楽

※書牘(しょとく):手紙


 今の「教科」のイメージより細かいですね。複数の「科目」を包括する「教科」という枠組みの登場は1941年になります(次回紹介します)。

 新しい社会を作るぞって気合が入っているように思えます。しかし、これほど多くの教科を教える体制が整ってはいませんでした。実態としては「中学」の整備は遅れました。統計上は77年に10校だった中学が78年に389校、79年に784校と激増しているのですが、以下のように全ての科目を教えない学校も「変則中学」と認める暫定的措置により、1科目のみ行う中学も多数存在しました。


学制 第三十章 当今中学ノ書器未タ備ラス此際在来ノ書ニヨリテ之ヲ教ルモノ或ハ学業ノ順序ヲ蹈マスシテ洋語ヲ教ヘ又ハ医術ヲ教ルモノ通シテ変則中学ト称スヘシ 但私宅ニ於テ教ルモノハ之ヲ家塾トス


 77年設置の東京大学を筆頭に高等教育機関も整備されていきますが、中等教育とうまく接続されていませんでした。この時期の高等教育機関は専ら外国人教師が担い手であり、入学者には英語など外国語能力が必須でした。しかし、地方の「中学」では受験に必要な力をつけられず、大学進学を目指すものは地方の中学を中退し、東京に「遊学」して塾で英語を学ぶのが通例となりました。大学受験準備のための私立教育機関の台頭は、後の日本独自の予備校・学習塾文化に繋がっていきます。大学受験における予備校・学習塾の影響力は、明治からすでに始まっていたのです。



2.進路文理分けの萌芽 代替措置としての普通文科・普通理科 ~1881年中学校教則大綱~


 後回しだった中学の整備も、明治10年代になると進んでいきます。1881年(明治14)の「中学校教則大綱」で、曖昧だった「中学」の位置づけを高度な職業の人材育成と進学準備教育だと明確にします。


第一条 中学校ハ高等ノ普通学科ヲ授クル所ニシテ中人以上ノ業務ニ就クカ為メ又ハ高等ノ学校ニ入ルカ為メニ必須ノ学科ヲ授クルモノト


 この中学校は初等4年・高等2年に分かれます。しかし、高等中学校を用意できない地域は、「普通文科」「普通理科」あるいは農工商など専門分野の科を置くことができるとされました。

 

第五条 中学校ニ於テハ土地ノ情況ニ因リ高等中学科ノ外若クハ高等中学科ヲ置カス普通文科、普通理科ヲ置キ又農業、工業、商業等ノ専修科ヲ置クコトヲ得


 ついに文理区分が法律の文言に登場です。

 文理の学習内容の差を見てみましょう。高等中学校の教科(本法では「学科」)は12あるのですが、以下のような変更が可能とされました。普通文科では現在の国英社にあたるものを増やし理数を削減、普通理科では理数を増やし国英社を削減、と言えるでしょう。


高等中学校 修身・和漢文・英語・記簿・図画・唱歌・体操・三角法・金石・本邦法令・物理・化学


普通文科 ◆除外or削減:金石・物理・化学・図画 

◆時間増加:修身・和漢文・英語・本邦法令 

◆追加:歴史・経済・論理・心理

普通理科 ◆除外or削減:漢文・英語・本邦法令

◆時間増加:金石・物理・化学・図画

◆追加:代数・幾何・測量・地質・重学・天文


 名前や枠組みは現在と違うものもありますが、現代の高校の「科目」と感覚はかなり近づいてきましたね。

 普通科における文理コース区分や現在の職業科にあたる農工商など専門学科の設置といった高等中学校の規定は、現在の高校制度の萌芽といえるでしょう。

 ですが、この制度が直接的に文理区分を定着させたわけではありません。5年後の1886年に成立した「中学校令」では、中学は尋常・高等に分かれ、公立の尋常中学校を各府県に1つ、高等中学校を全国に計5つ設置することとしました。「中学校教則大綱」は効力を失います。

 以下のように、中学校令においても文科理科の設置は可能とはされましたが、教則大綱は失効しましたので具体的な教科はあの通りにはなりませんでした。


第三条 高等中学校ハ法科医科工科文科理科農業商業等ノ分科ヲ設クルコトヲ得


 まだ公教育の形を模索している時期、今回の「中学校教則大綱」もすぐに消えてしまったものではありますが、それでも文理という考え方が初めて法律に現れたという点では注目すべきと言えるでしょう。



3.王道立身出世ルートの確立 ~官僚への道・「二つの文化」~


 86年(明治19)に公布された「帝国大学令」により、高等教育機関は(東京)帝国大学を頂点とした官僚養成を主目的とする機関として整備されます。最初は卒業者に無試験任用の特権を与えていましたが、すぐに人材の供給過剰になり、94年に「高等文官試験」制度が定められます。(なお、ここでの文官とは軍人である武官に対する語で、文理の意味ではありません。)

 帝国大学に進学して「高文」を通り高級官僚になることが、国家が用意したエリートコースとして明確になりました。試験競争に勝ち抜けば高い身分が保障されるようになったのです。

 この時代は入学試験だけでなく、大学内での成績(卒業時の席次)が官僚キャリアの出世にもかなり反映されるため、進級・卒業試験もかなり意味を持ちました。また「高文」の成績も出世に反映される、つまり通ればいいのではなく、より好成績で試験を通過することに意味があったのです。


 学試験競争を勝ち抜いても、またその中で勝たないとダメなんて厳しいと思うかもしれません。ただ、最上位に行けずとも、学歴自体にも大きな意味はありました。例えば、弁護士試験規則(1893年)で、帝国大学法科卒業者は無試験で弁護士となることができました。様々な資格制度が整備される中で、学歴によって無条件に資格が得られる、つまり学歴がある程度の社会的地位を保障するものとして機能します。

 学歴の信頼性が高まれば、多くの人が進学競争に参加するようになります。現在の学歴は、必要だと言われながら身分を必ずしも保障しない信頼の薄れた“貨幣”ですが、この時代は今より機能していたと言えるでしょう。


 また、高文という王道の確立以後、国家公務員間の行政官僚と技術官僚の対立、いわば「二つの文化」的な摩擦が生じます。高文の試験科目は行政科・外交科・司法科であり、技術官僚の採用は枠の外でした。官僚登用制度は明治・大正期少しずつ改定されますが、「特別ノ学術技芸ヲ要スル行政官」である技術官僚の採用は長く「選考による」くらいしか規定されませんでした。(中には技術官に対しても試験制度を設けた方が良いという声もあったようです。)

 技術官は地位が低かったと言えます。まあ帝国大学卒であれば技術官僚の中では上の地位に就けますが。ただ、「官製エリートピラミッドの頂点は高文を通っての高級官僚」であり、技術系はそこから外れた道でした。「文系」進学ルートこそ官製トップエリートへの道だったのです。



4.「高等学校」の文理コース分け ~1918年第二次高等学校令~


 高文制度成立と同年、1894年の高等学校令で高等中学校は高等学校となり、いわゆる旧制高校が誕生します。ここから高校で大学進学を見据えた進路分化が起こるようになります。

 この高等学校令では81年中学校教則大綱のような区分は明記されませんでしたが、実際には文理に近い分化が見られます。例えば、旧制高校の筆頭であった「第一高等学校」は学科が三部に分かれ、一部は法科・文科、二部は工科・理科・農科、三部は医科と大学で進学する学部ごとに科が分かれていました。法文と理工農を大別して部としているのは、文理という感じがしますね。


 決定的なのは1918年(大正7)の第二次高等学校令です。「高等学校高等科ヲ分チテ文科及理科トス(第八条)」ことが明記されます。これによって、大学入試の準備段階である高校で「文理」を選択するという方式が定着します。入学時、明確に自分が「文」か「理」か選ぶことになりました。今の高校普通科は入学後1年くらいたって分けることが多いので、今より早い選択です。

 文科と理科で学ぶ内容の違いを見てみましょう。以下は、第一高校での文科と理科で学ぶ科目です。文科のみの科目は地理歴史・心理と倫理・法律と経済、理科のみの科目は数学・物理化学・博物・図画となっています。


文科:修身・国語及漢文・外国語(第一/第二)・体操・地理歴史・心理及倫理・法制及経済

理科:修身・国語及漢文・外国語(第一/第二)・体操・数学・物理及化学・博物・圖畫 ※圖畫(とが):図画

 出典『第一高等学校六十年史』p.330


 「中学校教則大綱」の頃よりスッキリしましたね。現在の文理区分が大体形成されました。しかし、まだ高校や大学進学するのはごく一部の人です。この分け方が一般に広まるには、もっとシンプルな学習内容のまとまり「教科」の成立、そして進学率の上昇という2つの要因があります。次回、戦中戦後で長かった文系理系の歴史も区切りを迎えます。


【参考文献】

◆文部省『学制百年史』帝国地方行政学会、1981年

◆人事院『平成19年度 年次報告書』2008年

◆「中学校教則大綱」(明治十四年七月二十九日文部省達第二十八号)1881年

◆第一高等学校編『第一高等学校六十年史』1939年

◆小野雅章「日本近代教育における教育目的と教授法・教科課程の関係史考察―「主体的・対話的で深い学び」 の系譜に関する考察―」『桜美林論考 教職研究』4、p.39-51、2019年

◆山田真子「我が国の学校教育制度の歴史について」『日本科学教育学会研究会研究報告』32(2)、p.37-40、2017年

◆国立教育政策研究所『我が国の学校教育制度の歴史について』2012年

◆東京学芸大学教育実践研究支援センター『教育課程の構造の歴史 小学校1886~2017年』2016年

◆吉野剛弘「明治後期における旧制高校入試」『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要:社会学心理学教育学』52、p.51-62、2001年

◆保田その「京都帝国大学卒業生の進路--東京帝国大学との比較を中心に」『京都大学大学文書館研究紀要』4、p.25-41、2006年

◆田中俊徳「自然保護官僚の研究:技術官僚論に対する新たな視座」『年報行政研究』53、p.142-162、2018年

◆武石典史「官僚の選抜・配分構造 ―二つの席次への着目―」『教育社会学研究』100、p.265-284、2017年

◆池田雅則「判任文官たりえる資格 ―1913 年改正『文官任用令までの官吏任用制度』―」『<教育と社会>研究』25、p.43-54、2015年

◆川手摂「高文官僚優遇の制度的基盤 ―その歴史的変遷と改革構想」『都市問題』105(7)、p.80-105、2014年

◆佐竹康扶「戦前期における『技術者』団体の人的構成と活動方針 ―工政会を中心に―」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』62、p.419-434、2017年

◆第一高等学校編『第一高等学校六十年史』1939年

◆天野郁夫『増補 試験の社会史』平凡社、2007年

◆隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社、2018年

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