12.明治の啓蒙思想と学問 ~「科学」という考え方の導入~
第12回 明治の啓蒙思想と学問 ~「科学」という考え方の導入~
前回、江戸時代までの日本の学問の展開を見ていきました。仏教隆盛の時代もありましたが、基本的に儒学が中心でした。江戸幕府の学問であった朱子学から、万物を貫く「理」を見極めるため一つ一つの理を突き詰めていく「窮理」という考えが広まりました。それに対抗する形で、人間を考える学問を純化する動きが起こり、次第に「蘭学」を「窮理」として捉える人も出てきました。
今回は幕末、いよいよ幕府でも「窮理」への関心が高まっていくところからです。
1.幕末 洋学機関の設置
江戸幕府の学問はあくまで儒学でしたが、幕末になるとそうも言ってられなくなります。開国後の1856年には幕府直轄の洋学研究教育機関である蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を開設します。徐々に拡張され、60年には化学実験を担う精錬方(せいれんかた)が設置されます。
ここでの「蕃」は南蛮の「蛮」と同じで西洋、特にオランダを指す語でしたが、欧米各国の学問を扱う実態に合わなくなり、62年に「洋書調所」に改称します。蘭学より洋学の語を主に用いるようになったのもこの時期です。なお、63年に「開成所」と改称、68年明治新政府のもとで「開成学校」となり、77年東京大学となります。名称変更の具合からも激動の時代と感じます。実際、翻訳官・通訳官の養成も担っており、かなり切実でした。
なお、調所には前身となった幕府の機関があります。暦を研究する天文方に1811年設置された蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)です。しかし、あくまで暦研究のサブ機関ですし、調所と異なり教育は行いません。幕末、西洋学問の公的位置づけは急速に高まったと言えます。それだけ技術獲得と人材育成は急務でした。
他にも、1855年に設置された長崎海軍伝習所(~59年)は、オランダ海軍士官を教官に、軍事技術のみならず医学においても近代化の礎となります。
2.明治初頭の窮理熱 啓蒙書としての窮理書
明治になると、文明開化を代表する学問として「窮理」が注目を浴び、「窮理熱」といわれる流行が起こります。明治元年(1868年)は福澤諭吉(1835-1901)の『訓蒙窮理図解』をはじめとする「窮理書」が多数出版されました。
ちなみに本文章では旧字の「澤」表記で統一します。澤と沢は旧字体と新字体の関係で、「學」→「学」のように複雑な字を簡略化したもので多くの字は新字体への切替が上手くいったのですが、澤・沢は龍・竜と同じで上手くいかなかったパターンです。茨城県「龍ケ崎市」表記バラバラ問題が象徴的ですね。「福沢」表記も見られますが、本動画では慶応大HPでも採用されている「福澤」表記にします。(というか、私自身が澤を沢と表記されているのを見るとすごい違和感あるので)
ヨーロッパでは18世紀後半に科学実験が見世物として流行しましたが、この日本の「窮理熱」も(街で実験という形ではありませんが)民衆にも広めようとしたのは確かです。『訓蒙窮理図解』は全ての漢字にルビがふっており、図も豊富で、子どもを対象にした科学読み物だったと考えられています 。
なお、この頃の「窮理」という語が示す範囲は狭まっており、自然科学の中でも物理学を中心としたものです。著者により揺れはありますが、以下の『訓蒙窮理図解』の章立ては、この頃の窮理が何を指していたかわかりやすいですね。
【巻一】温気の事・空気の事
【巻二】水の事・風の事・雲雨の事・雹雪露霜氷の事
【巻三】引力の事・昼夜の事・四季の事・日蝕月蝕の事
気象ばかりですね。子ども向けなので身近な題材ということもあったと思われます。(題材については後にも触れます)scienceの語も範囲が狭まったように、窮理の語も狭まっていったということです。
ただ、「窮理」という語は日常の言葉として定着しませんでした。以下のように、明治初期の教育制度でもしばらくは表記が揺れていたのですが、結局、小学校教科書として『物理階梯(かいてい)』(1872年)という本が広く使われたこともあり、「物理」という名称に落ち着きます。物理も「理」由来なのは変わりませんね。
1870年(明治3)大学規則 格致学
72年(明治5)学制 理学
中学教則 窮理学
小学教則 理学
73年(明治6)改正中学教則 物理学
改正小学教則 物理学
(出典:日本物理学会編『日本の物理学史』上p.80)
ただ、窮理熱は後の物理学を世に広めました、という側面だけではありません。ヨーロッパ18世紀の科学熱と同様、啓蒙という側面がありました。啓蒙思想は「理性によって無知から人々を開放する」という考え方でしたね。明治初期の「啓蒙」は、18世紀ヨーロッパの人間理性の強調とは異なりますが 、「無知から人々を開放する」という意味では共通します。
窮理書は啓蒙書の側面が強いです。先ほどの『訓蒙窮理図解』の題材についても、窮理学の優位性を民衆に納得させるのにふさわしい内容として、伝わりやすいものを選んだとされています。「無知なあなた方にも伝わるように」ということです。
多くの啓蒙書・啓蒙思想家は旧来の学問をいわば未開と位置づけ否定し、脱却すべきものとして捉えています。啓蒙学術団体「明六社」の雑誌に津田真道(まみち)が書いた論が典型的で、仏教・儒学は「高遠ノ空理」を論ずる「虚学」であり、格物(物理)・化学・医学・経済・希哲学(哲学)を「実学」としています。(津田真道「開化ヲ進ル方法ヲ論ズ」『明六雑誌』3、1874年)
旧来のものをバッサリ切り捨てる姿勢でした。まあ、福澤諭吉は何もかも西洋が上だという風潮を「開化先生」と揶揄しているのですが、逆にその時代そうした風潮が強かったことを示しているとも言えます(なかなかきつい蔑称ですね…)。
なお、まだ経済も哲学も実学扱いです。この頃の大きな学問区分は西洋か否かであり、西洋学問の中で技術or理論、自然or人間などの区別は意識されませんでした。
3.新しい人間観 ~自由・権利~
さて、先ほど経済や哲学と出てきました。窮理熱で西洋の自然科学体系が一般民衆含め一気に広まったことは確かですが、社会科学についても取り入れようとする動きが生じます。18世紀ヨーロッパでの啓蒙思想の時代には「社会科学」や「政治科学」という考え方が生じましたね。
江戸時代の儒学的な封建社会に変わる社会のあり方を考える上で、自由主義的な社会経済思想が参照されます。freedomとlibertyの訳として「自主」「自在」などの表記が見られましたが、1870年代に「自由」が定着していきます。福澤諭吉は西洋諸国の政治・風俗・経済を紹介した『西洋事情』(初編1866、外編67、二編73)において自由という語についてかなり論じている ことから、自由という語を広めた人物と言われます。学問を薦めただけやなくて、学ぶべき内容も沢山出版していたのです。
「学問のすすめ」(初編1872~十七編76)の冒頭は有名ですが、自由や生まれながらの身分の平等を説いています。そこでの学問を薦める理由が重要です。続く文の通り、全ての人が学問によって競争し、結果として生まれる貧富の差は肯定するという自由主義的な価値観です。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、(中略)自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。(中略)ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。
「人に上下はない」ではなく、「天は人に上下をつくってねえ、俺達人間でつくるんだ」ってことなんですね。
そして、福澤は「学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず」と旧来の学問を批判します。そして、学ぶべき学問を挙げていきますが、究理学(窮理学)の他に、地理学・歴史・経済学・修身学と現在でいえば文系に入る学問を挙げています。(地理や歴史は今だとあんまり実学とは見られませんね。)
されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。
ここでの権利は主に競争を阻害しないためのものと言えますが、もう少し現在の人権という感覚に近い主張もありました。東洋のルソーとも言われる中江兆民(1847-1901)は自由民権運動の中心人物ですが、生活の権利を第一の権利として、生存権から種々の自由の権利への発展の必然性を説きました。
生活は人間最第一の権利にして自余諸権利の由て生ずる淵源なり。天下何れの強有力者と堆ども、敢て此最大権を達せんとする者を沮碍するを得んや。(中略)
人に生活の権ありと錐も、其身の自由を得ざれば、何を以て此最第一の権利を達するを得んや。
(出典:中江兆民「権利之源」自由党『自由新聞』5号1882年)
個人個人が生活する権利を持つ、そのために自由がある、現代でも通ずる価値観ですね。
まあ、中江も「考えることの嫌いな国民」を教化して、主権者の自覚をもった国民を育てることを目指していました ので、「啓蒙」という点では当時主流の価値観に近かったかもしれません。
我邦人は利害に明にして理義に暗らし、事に従ふことを好みて考ふることを好まず、夫れ唯考ふることを好まず、
故に天下の最明白なる道理にして、之を放過して曽て怪まず
(出典:中江兆民『一年有半』1901年)
ただ確かなのは、この時代「自由」や「権利」といった新しい人間観、新しい社会のあり方を模索する学問の必要性が説かれたということです。
4.西周の学問区分 ~「哲学」「科学」と訳す~
日本の学問に対する捉え方を大きく形づくったと言える人物が、開成所教授や明六社設立など幕末・明治初期に学問の中心を担った西周(1829-1897)です。philosophyを「哲学」と訳したことで知られます。
西洋学問が専門分化していることに着目し、scienceを「分科の学」=「科学」と訳します。訳に対する後世の評価は、分化していることがscienceの本質ではないとして高くありませんが、この訳が定着します。当時のscienceがそういう状況にあったというのを示す語ともいえますね。
西は西洋の百科全書に習い、学問を体系的に網羅した『百学連環』を記しています。そこで用いられた学問区分は以下の通りです 。
第1編 普通学 Common Science
第1 歴史 History
第2 地理学 Geography
第3 文章学 Literature
第4 数学 Mathematics
第2編 殊別学 Particular Science
第1 心理上学 Intellectual Science
1 神理学 Thelogy
2 哲学 Philosophy
3 政事学/法学 Politics,Science of Law
4 制産学 Political Economy
5 計誌学 Statistic
第2 物理上学 Physical Science
1 格物学 Physics
2 天文学 Astronomy
3 化学 Chemistry
4 造化史 Natural History
まず、万事に関係する普通学と、専門である殊別学に大別します。普通学は歴史・地理学・文章学(文学)・数学の4つです。殊別学は心理上学と物理上学に分かれ、心理上学は神理学(神学)・哲学・政事学/法学・制産学(政治経済)・計誌学(統計)の5つ。物理上学は格物学(物理)・天文学・化学・造化史(博物学)の4つです。心理上学は文系、物理上学は理系に近いです。教養である普通学の筆頭が歴史、次が地理っていうのが新鮮ですね。
『百学連環』は西周が行った講義録やノートで残っているものなので、当時出版物として広まったわけではありません。しかし、心理と物理というかなり文理区分に近い捉え方が「科学」という語を定着させた西周から示されていたことは、後に少なからず影響を与えたと考えられます。
以上、現在に近い学問観が急速に形成された幕末・明治初期でした。次回、いよいよ現在の文理区分を定着させる教育制度・官僚登用制度が登場します。
【参考文献】
◆茂住實男「蕃書調所における英語教育」『英学史研究』16、p.103-116、1983年
◆吉田ゆり子「前史『蛮書和解御用』から東京外国語学校へ」『東京外国語大学史』、p.1-42、1999年
◆杉本つとむ「幕末の洋学事情 ―近代の発信地、長崎と蘭医と近代教育―」『早稲田大学図書館紀要』41、p.1-31、1995年
◆福澤諭吉『訓蒙窮理図解』上、1868年:慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクションhttps://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/fukuzawa/a08/21
◆伊藤博「教育史から見た幕末期から明治初期の教育」『大手前大学論集』12、p.17-32、2012年
◆西條敏美「物理 ―その呼称の起源と成立」『サイエンスネット』10、p.12-15、数研出版、2000年
◆秋田摩紀「窮理学の流行をめぐる磁場 ―福沢諭吉と戯作者たちの啓蒙時代―」『日本思想史学』35、p.169-187、2003年
◆坂本一郎「明治期の啓蒙運動とフランスの啓蒙思想」斎藤繁雄編著『井上円了と西洋思想』p.145-162、1988年
◆日本物理学会編『日本の物理学史』上、東海大学出版会、1978年
◆鈴木貞美「明治期日本における『自由・平等』」『東アジア近代における概念と知の再編成』35、p.225-237、2010年
◆種村完司「福沢諭吉と中江兆民の自由観」『鹿児島大学教育学部研究紀要 人文社会科学編』39、p.77-96、1987年
◆王暁雨「近代日中における翻訳事業と思想受容」『関西大学東西学術研究所紀要』48、p.173-186、2015年
◆永井道雄編『日本の名著33福沢諭吉』中央公論社、1984年(原著:福沢諭吉『学問のすすめ』1872年)
◆『近代日本思想体系3中江兆民集』筑摩書房、1974年
◆高坂史朗「西周の『哲学』と東アジアの学問」『北東アジア研究』14、p.151-167、2008年
◆隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社、2018年
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