10.東アジアの学問の土壌 ―漢代の「道」、儒学、科挙制度―

 前回まで西洋中心の学問史を巡り、文系理系に近い二分法が生じていく過程を見ていきました。今回から日本編となります。近しい考えはあっても「文系」「理系」に直接対応する英語圏の語はないこと第1回に、文系理系区分は明治の教育制度・官僚制度から定着していったと前回の最後に述べました。

 というわけで明治時代の話を、…とその前に、西洋の学問が流入してどんな変化があったのか理解するため、それ以前の日本の学問史を見ておきましょう。…と、それを知る上で、近代以前の日本の学問に大きな影響を与えてきた古代中国の学問を今回は見ていきます。


1.「道」と「学」・「術」

 古来中国の知的文化において重視されたのは、生きるための思想・原理である「道」です 。儒教や道教など「道」の追求のために必要な規範や知識が「学」、数学や医学、兵法など特定の専門家が学ぶのが「術」でした。(※)中世ヨーロッパでは頂点が神学、次が自由七科でした。実用的な技術が下位なのは同じですね。

 「道」は戦国時代(前403~前221)の老荘思想に端を発します 。派遣を争う各国が思想家に俸給を与え自由に活動させたことで、世界と人間を包括する体系=「道」の思索が進みます 。諸子百家って言われる人たちです。

 その後、漢代には巨大な領域を統一した帝国の統治に応じて、儒教のみが国家統治の理念として位置づけられます が、「道」の思想は儒教世界にも大きく影響します。

 例えば、後漢(25~220)に作られた、前漢(前206~後8)の歴史を記した歴史書『漢書』(かんじょ)では、以下のように「道」が天界・自然界の法則であり、「経」つまり儒教の基本的文献は「道」を見て作られたものである、ということが記されています 。


天地位を設け、日月を懸け、星辰を布き、陰陽を分かち、四時を定め、五行を列し、以て聖人に視し、之を名づけて道と曰う。聖人道を見、然る後に王治の象を知れば、故に州土を画し、君臣を建て、律暦を立て、成敗を陳べ、以て賢者に視し、之を名づけて経と曰う。

(出典:『漢書』巻75翼奉伝、書き下し文 保科(2000)p.777)


 (神のあり方には違いがあっても)経典が真理に通ずるという点は、キリスト教世界とも共通しますね。こうした考えにおいて自然と人間は混然一体であり、文理というような区別はありませんでした 。


 そして、このような学問観、「道」「学」「術」の捉え方は基本的には続いていったようです。例えば、清(1644-1912)末期の思想家厳復(1854-1921)は、「学とは事物の理を究めることであり、術とは状況に応じる処方箋や良策を求めることである」とし、「学」という前提を抜きにして西洋の「術」ばかりを求め、「学」を探ろうとしていないと清の状況を批判しています 。

 また、以下のように、旧態依然とした狭い学問「俗儒」は「道」ではないと主張していますが、不変の「道」があるという考えを記しています。


「天も変わり地も変わる。変わらないのは道のみである。しかし道で不変のものは、決して『俗儒』のいわゆる道ではない」

「必ず吾が自由(個人の自由)を為してはじめて、厚生と進化が発展し、必ず兼愛克己を為してはじめて、社会を平和にし平安に利する。これは生物と人間があって以来、不変のことである。これこそ不変の道である」

(出典:厳復(1895)「救亡決論」、訳文 區(2004)p.90)


 「道」の中身は問題にしても、「道」という捉え方自体は続いていたのです。清末期には学問世界のあり方に上述したような批判も展開されますが、長らく「道」や「学」の中身自体もあまり変わりませんでした。学問体系の維持、そして停滞は清末まで続いた科挙(598-1905)に大きな要因があります。



2.科挙制度と学問の形骸化

 儒学の中心は「経学」であり、経学では経典である経書のみが学問の対象で、他の歴史書や文学書は対象になりませんでした 。前漢期、儒学が正式な官学とされると、国家事業「校書」が行われ、経書の構成・内容が確立します。以後はその解釈である「伝」(でん)、「伝」も含めた解釈である「注」、さらに時代が下るとそれらを解説する「疏」(そ)が生まれます 。

 こうなると解釈が広がりすぎる、元から乖離し過ぎる恐れがあります。規範たる儒学の解釈が散らばりすぎると困るので、唐(618-907)では、孔穎達(くようだつ・くえいたつ)らが諸説を整理・統合し『五経正義』が編纂されます(653年) 。しかし、国家による統一解釈の決定は学問の硬直化を招きます。五経とは、易経(えききょう)・詩経・書経・春秋・礼記(らいき)の五冊で、これらのみが経典と認められました。

 『五経正義』は、隋(581-618)の時代に始まっていた試験による官僚登用制度「科挙」での基準となります 。科挙の影響力は宋(960-1279)になると増し、士大夫(したいふ)という官僚兼学者の支配階級を生み出します 。士大夫は全人的教養が求められ、政治家かつ思想家・詩人・音楽家・画家などとして文化の担い手でもありました 。学問は専門分化せず、官僚が文化と知の中心だったのです。

 その中で、字句の解釈に拘泥せず、経そのものから儒学の精神・本質を明らかにしようとする動きが生まれます 。動きとしては西洋のルネサンスとも重なりますね。

朱子とも称される南宋の儒学者朱熹(しゅき)は、書の区分を改めて『礼記』から『大学』『中庸』を独立、五経に選ばれなかった『論語』『孟子』を合わせて四書とした『四書集注』(ししょしっちゅう、集註)を記しました(1177年) 。これ以降、儒学の中心は四書となります。よく聞く『論語』は後から注目されたのですね。

 元(1271-1368)で科挙における四書の解釈は『四書集注』によると定められると、受験生向けに『四書集注』の「疏」が大量に出回ります 。そして、明(1368-1644)になり、1415年永楽帝の命により『四書大全』『五経大全』が編纂され、四書と五経の公式解釈が定められます 。解釈が公式化し固定化する状況は『五経正義』の時代に戻った感じですね。

 また、科挙の回答形式が八股文(はっこぶん)という文体に固定され、思想が形骸化・形式化、これが清の末まで続きます 。科挙は1905年に廃止されました。ヨーロッパの中世も何度か古典復興の流れもありつつ停滞していましたが、同じような流れであり、期間としてはそれ以上に長く続いたということです。


 というわけで儒学の思想体系の大元は漢のもので、唐で解釈が確立しました。儒学の思想・学問観は日本にも大きな影響をもたらします。以上を踏まえ、次回は日本の学問史を西洋学問が入る以前から見ていきます。


(第11章につづく)



(※)現代日本の学術上で確立した読み方があるのかわかりませんでしたので、便宜上「道」をドウ、「学」をガク、「術」をジュツと全て音読み(呉音)としています。老荘思想・道教における「道」は「タオ(Tao)」として読みが定着していますが 、今回の「道」は道教に限らず幅広く学問全体を捉える価値観としての「道」を扱っています。


【10章の参考文献】

◆保科季子「漢代における『道術』の展開:経学・讖緯・術数」『史林』83(5)、p.759-791、京都大学文学部史学研究会、2000年

◆伊藤隆寿「道・理の哲学と本覚思想」『駒沢大学仏教学部研究紀要』63、p.286-273、2005年

◆區建英「学問の近代的変革に関する厳復の思考」『新潟国際情報大学情報文化学部紀要』3、p.67-100、2000年

◆區建英「厳復の初期における伝統批判と改革思想」『新潟国際情報大学情報文化学部紀要』7、p.77-103、2004年

◆小川剛生『中世の書物と学問』山川出版社、2009年

◆連清吉「環シナ海地域の文化形態 ―中国と日本の思想・文化を中心にして―」『長崎大学総合環境研究』2(1)、p.39-50、1999年

◆河住玄「明代の教育制度 (一)」『人間と環境』7、p.113-129、人間環境大学、2016年

◆金子昭.「シュヴァイツアーの中国思想史研究の視座とその展開」『天理大学おやさと研究所年報』13、p.15-39、2006年

◆戸川芳郎監修・佐藤進・濱口富士雄編『全訳漢辞海 第三版』三省堂、2011年

◆隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社、2018年

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