7.19世紀 大学改革 ~「教育と研究」理念の成立~
今や科学の担い手として筆頭に挙げられる大学ですが、これまでの回で扱ってきたように、18世紀までは13世紀頃成立した構図、つまり下級学部で自由七科を行って専門は神学・医学・法学の3学部という構図が続いていました。ルネサンス以後、アカデミーや学会など大学の外が科学の中心地でした。
19世紀はいよいよ大学が変化し、「教育と研究」どちらも行うという現代の大学の基本理念が広まります。それに伴い、伝統3学部以外の学部が登場します。
1.フランス 文学部と理学部の登場
前回もフランスの公教育制度には触れましたが、19世紀初めナポレオン政権下で中央集権的な教育体制が整備されます。1808年、大学は学部(ファキュルテ:faculté)ごとに独立して管区に1校ずつ設置することとします。神学(théologie)・法学(droit)・医学(médecine)に加え、旧来の下級学部を文学(lettres)と理学(sciences)に分けて同格に昇格させました。
まさに文理の2分法に見えます。その中身も(講座の開設数も種類も大学ごとにまちまちですが、)以下の例の通りおおよそ今の文系・理系区分に近いですね。
★開設講座例★
●リヨン理科(1874年):純粋数学・応用数学・物理学・化学・地質学・動物学・植物学
●リヨン文科(1874年):哲学・歴史・古代文学・フランス文学・外国文学
(出典:渡辺(1991)p.284)
ただし、別々の機関になるので総合大学(Université)の学部とは少し違う点には注意です。そして、研究機関ではなくあくまで教育機関であり、高校「リセ(lycée)」の延長線上に過ぎなかったとされます。リセの教員が文科・理科ファキュルテの教員を兼ねることも多々あったようです。
結果、後述する急速な発展を遂げたドイツに研究力で大きく溝を開けられ、1870年代からドイツ型への移行を余儀なくされます。
学問そのものの中身で成立したというより、教育システム上の区分という側面が強いと言えるでしょう。
また、同じ文科・理科でもファキュルテごとにその中身や充実度は大きく異なり、例えば先ほど挙げたリヨンと同時期のパリではこれほどの差があります。
★開設講座例★
●リヨン文科(1874年):哲学・歴史・古代文学・フランス文学・外国文学
●パリ文科(1875年):ギリシア詩・ラテン詩・フランス詩・ギリシア弁論術・ラテン弁論術・外国文学・哲学・哲学史・古代史・近代史・地理
(出典:渡辺(1991)p.284)
旧下級学部が昇格し、哲学や教養でひとくくりにされていた内容が2つに大別されました。これをもって現代の文系理系区分が形成され、あとは医学が理、法学・神学が文に位置づけられれば完成…、という単純な話ではないのが難しいところです。
例えば、上の例にも経済学や社会学は講座例に見られません。その点について、詳しくは次回扱います。
さて、同時期ドイツでも下級学部が昇格しますが、また違った展開を見せます。
2.ドイツ 研究と教育・哲学部の昇格
プロイセンの教育行政責任者フンボルト(Wilhelm von Humboldt 1767-1835)を中心に、現在の大学の理念を確立したのがドイツです。1810年開学のベルリン大学は現代大学のモデルとされます。
フランスと対照的に、既存の知識を学ぶ高校(ギムナジウムGymnasium)と大学の役割を明確に区別しました。大学は、完全に発見しつくされていない学問(wissenschaft)を追求する研究の場であり、大学教員は学生を研究へといざなう役割がある。学生は、受動的に教えを請うのではなく自ら研究に取り組む。研究と教育を統一して、若い学生と教員が共に学問を追求する機関が大学である、という理念を打ち立てます。まさに現代言われる大学そして学生の姿勢ですね。
そのために「教える自由(Lehrfreiheit)」と「学ぶ自由(Lernfreiheit)」の原則を保障する、大学が国家や社会から独立する「孤独と自由(Einsamkeit und Freiheit)」を守る必要があるとしました。学問の自由も現代言われる大学の基本です。
そして、そうした理念を実質的なものとする方法も確立していきます。例えば、10人前後の学生が教員を囲んで演習・報告・討論をするゼミナール(seminar)形式が徐々に広まります。(現在の大学でもある「ゼミ」というやつです)
また、リービッヒ(Liebig 1803-73)は化学分析の方法を学生教育用に確立し、デザインされた実験教育が1830年代から広まりました。化学を中心に急速に増えた科学の担い手を示す語として“scientist”という造語が英国ケンブリッジ大のヒューエル(Whewell 1794 -1866)によって作られました。今もサイエンスそしてサイエンティストと言えば化学が筆頭に浮かびますが、そのイメージはこの時代に形成されました。
ドイツは、フランスと異なり1つの総合大学の中で学部(Fakultäten)として、神(Theologie)・法(Recht)・医(Medizin)の3学部と同等に下級学部を昇格させた哲学(Philosophie)の4学部体制となりました。
特定の職業に奉仕する伝統3学部に対し、あらゆる統制から自由で理性的な判断を下せるとして「哲学」を諸学の頂点とする考え方も背景にありました。旧自由七科ほか、自然科学含めあらゆる学問を内包するのが哲学部となります。学問をスパッと二分する考え方とはかなり違います。
実用性を求める「パンのための学問(Brot Wissenschaft)」ではなく、学問の純粋な追求により人間を「最も調和のとれた一つの全体へと陶冶する(Bildung)」という全人的教育観がフンボルトにはあったとされます。古代ギリシャの教養の考えと近い所がありますね。
※陶冶(とうや):陶器を作り上げる。転じて、人間を育て上げる。
とはいえ、産業がますます発展、サイエンティストの社会的地位は徐々に高まり、学会も専門分化が進みます。科学は職業化(professionalization)し、大学に対しては科学のプロを養成する場としての期待が高まることとなります。(大学の理念と社会の要請の違いも、現在まで通ずるものです…。)
理念が完全に受け入れられたかはともかく、成功を収めたドイツの大学教育モデルは、その理念と方法ともに世界へ広がることとなります。
3.新興国における学部の専門分化
伝統3学部の独占体制は崩れましたが、すぐに様々な学部の登場とは行きませんでした。新しい学問は次々と哲学部や文科・理科の中で講座としては開設されますが、色々な学部が出てくるのは主に20世紀になってからです。
その要因の1つに、工学などの技術は大学の範疇ではないという固定観念がありました。そういった専門職の養成は別系統の学校で行われていました。例えば、ドイツでは1870年代に高等技術学校(テーハー TH:Technische Hachschule)とまとめられる各種専門学校が技術者養成の中心を担いました。(工学系は、建築学が自由七科に入り損なったローマの頃から、19世紀になってもまだ認められなかったということになります。)
実学的な分野はそういった固定観念の少ない新興国で学部となっていきます。アメリカでは1862年、国有地を払い下げ農学・工学の大学を作らせるモリル法が出され、「土地交付大学」が各州に作られました。ほとんど私立大だったアメリカで州立大学がどんどん設立されていきます。(モリル法は1890年にも出され、合計で70もの大学が設立されました。)農業や工業の大学でスタートしたものが後に総合大学化して、現在まで残るものも多いです。アメリカといえば国家は関与しないイメージですが、この件については国主導のパワープレーだったのです。
もっとも、ピューリタンが渡ってすぐにエリート私大ができたアメリカですので、それなりに実学蔑視の傾向はあったようです。私立ですがモリル法の援助を受けた1865年開学のマサチューセッツ工科大学(MIT:Massachusetts Institute of Technology)も、今では名門校として知られますが低い扱いからスタートしました。
より抵抗がなかったのは、そもそも大学制度自体が新設だった日本です。日本初の大学である1877年開学の東京大学を86年に帝国大学とする際、工学の分科(1919年以前の「学部」)を追加して、法・医・工・文・理の五分科体制となりました。なお、順番は1886年帝国大学令に準じます。3番目に書かれていますので、取ってつけたように最後に置かれているわけではないと考えられます。
総合大学に工学部があって当然という認識は、(学部の序列について)中世大学の伝統の影響を受けなかったからこそ作られたと言えるでしょう。今では大学の学部=専門分野を表すという認識ですが、大学の歴史を見るとそうでない時代が結構長かったのです。
文系理系という考えに至る変遷を追ってきた学問史もいよいよ現代に近づいてきました。次回は19世紀から20世紀の人文科学と社会科学という括りの登場を見ていきます。
【7章の参考文献】
◆上垣豊「一九世紀フランスの学部 (ファキュルテ) における職業教育と学生:学位, 資格, 学生の管理」『社会学雑誌』31、p.3-21、2016年
◆渡辺和行「一九世紀フランスのファキュルテ」『香川法学』10(3)、p.275-306、1991年
◆曽我雅比児「19世紀フランス中等教育における科学教育の処遇に関する考察 ―人文教育ヴァーサス科学教育―」 『岡山理科大学紀要 B人文・社会科学』34、p.151-169、1998年
◆金子勉「大学論の原点 ―フンボルト理念の再検討―」『教育学研究』76 (2)、p. 208-219、2009年
◆河野眞「ドイツにおける近代的大学の成立:ベルリン大学をめぐって」『愛知大学史研究』2、p.47-52、2008年
◆別府昭郎「ヴィルヘルム・フォン・フンボルトとベルリン大学創設の理念」『教育学研究』70(2)、p. 185-196、2003年
◆林久史「教育をやめたら研究はもっと進むか?―化学史から学ぶ―」『日本女子大学紀要 理学部』20、p.49-54、2012年
◆田中文憲「ドイツ的教養」『奈良大学紀要』41、p.13-38、2013年
◆宮田由紀夫「大学の地域にとっての有用性:モリル法の制定とランドグラント大学としてのパデュー大学に関する考察」『経済研究』54(2)、p.1-37、2008年
◆馬渕浩一「工学部の誕生:産学連携の一視点として」『技術と文明:日本産業技術史学会会誌』21(2)、p.89-97、2017年
◆隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社、2018年
◆Christophe Charle・Jacques Verger ”Histoire des universités” ,Presses Universitaires de France, 1994(訳書:岡山茂・谷口清彦訳『大学の歴史』白水社、2009年)
◆古川安『科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで』筑摩書房、2018年
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