6.18世紀 啓蒙思想と社会科学の萌芽 ~『百科全書』時代の学問区分~
前回は科学と技術を結びつける考え方が広まった17世紀を扱いました。「技術のための科学」の有用性が公的に認められた時代でしたね。社会制度や思想の面では「人は権利を持つ」という現代に通ずる価値観が広まりました。
18世紀にはいよいよ現代に近い学問区分が生まれてくるのですが、まずはその前提になった18世紀の基本思想から見ていきます。
1.啓蒙思想 進歩史観と科学の大衆化
18世紀は啓蒙思想(英:enlightenment 仏:lumières)が流行します。啓蒙思想とは「理性によって無知から人々を開放する」という考え方です。無知という闇に光を当て、偏見を取り除き人間本来の自立性を取り戻すという意味で「光」(lumen)が語源になります。人文主義からの積み重ねという感じがしますね。
科学こそ理性の産物であり、科学による正しい認識で無知な民衆を啓蒙するという姿勢です。偏見にまみれた旧来の権力から人々を解放するんだ、という体制批判・社会変革の運動の原動力となり、アメリカ独立宣言(1776)やフランス革命(1789)に繋がっていきます。
一方で、後に啓蒙思想は一方的に相手を劣っていると決めつける傲慢さに繋がったとして批判されています。
自分:啓蒙された(éclairé)・文明化した(policé)
相手:未開(sauvage)・野蛮(barbare)
啓蒙思想は、人類は徐々によりよい方向に進歩(progress)するという進歩史観を広めました。ルネサンス以前は人に世界を変える力があるとは考えませんでした。人の力を信じ始めたルネサンスも、基本的には古代文明に追い付こうという古典復興でした。17世紀後半には文芸で古代と現代の優劣を競う新旧論争が盛んになります。そして18世紀、いよいよ人は過去を乗り越えるという価値観に至ったのです。
そして、科学という存在が「技術としての科学」として一般にも知られるようになり、大衆化(population)が起こります。17世紀には新聞、18世紀には雑誌(magazine)が生まれており、科学の地位上昇に貢献しました。また、科学実験が見世物として流行りました。1760年代イギリス産業革命以降、新たな中産階層の文化運動として公開講座を開くなど、科学熱はさらに高まります。
「科学の力ってすげー」となったわけですが、既存の宗教権力が弱まった時代、多くの人々にとって実験は目に見える“魔術”であり“奇跡”であったと言えます。科学と名乗れば何でも注目を集められる「科学狂」の時代だったとも称されます(古川2018 p.122)。「よくわからんけど、科学の力ってすげー」だったわけです。
注目を集めた者勝ちになってしまいそうですが、実際、公的な学術組織と対立する大衆科学(popular science)が生まれてきます。例えば、1770年代にはメスメル(Mesmer 1734-1815)が行った動物磁気(animal magnetism)理論による治療が流行し、「メスメリズム(mesmerism)」と呼ばれました。
メスメルがこの理論を反科学ではなく、この理論こそが科学だと捉えていたことがポイントです。身体の磁気を整えるという理屈で行われた患者に接触することや音楽による治療は熱狂的支持を集めます。「あなたの磁気が乱れているのが身体の悪い原因です、私が手をかざして整えましょう」と言うと、今では胡散臭く思えますが、当時の医療は瀉血が治療法として広く行われ、水銀や鉛を安易に処方するような状態だったことは注意です。当時の権威的な医療があんまりだったから流行った側面もあるということです。
科学アカデミーや医学界はメスメリズムを似非科学と否定します。メスメリズム支持者はこれに反発し、その反発は次第に既存の権力・アカデミズム批判の色彩が強くなります。科学者集団が権威として批判されることが生じてきた、という点はポイントです。
その後メスメリズムは急速に衰退、次第に心霊術(spiritualism)や急進政治思想と結びついていきます。メスメリズムで使われていたグラス楽器「アルモニカ」は悪魔の道具と糾弾され、長く封印されます。
こうしてメスメリズムは科学と袂を分かつこととなりましたが、後の1840年代頃から、メスメリズムで生じた効果はスコットランドの外科医ブレイド(James Braid 1795-1860)によって心理・生理学的現象としての催眠(hypnotism)の理論に繋がっていきます。メスメルの理論はともかく、メスメルが起こした現象は後に科学的考察の対象となったわけです。
とはいえ、今なお催眠はショーやオカルトとの結びつきの強いものとなっています。その契機は今述べてきたメスメリズムの流行と衰退にあるのです。これは科学狂の時代の象徴的な出来事であり、科学と権威や科学と大衆の関係性の難しさを示す出来事でもあるでしょう。これは決して過去だけの話ではないですね。
2.『百科全書』とフランス公教育制度の学問区分
啓蒙思想の広がりによって、科学の成果をまとめ、知識を広く一般の共有財産にしようという試みが盛んになります。ブリタニカ百科事典(1771年初版)のような現代も続く辞典もこの時代生まれています。(ブリタニカは辞典サイト「コトバンク」の収録辞典の1つになっとるから、いつの間にか利用している人も多いのではないでしょうか。)
その試みの中でも学術史で特に重要とされるのが、1751年から72年にディドロ(Diderot 1713-1784)とダランベール(d’Alembert 1717-1783)によって編纂された『百科全書』(Encyclopédie)です。この序文がその意図を端的に示しています。
「技術と学問のあらゆる領域にわたって参照されうるような、そしてただ自分自身のためにのみ自学する人々を啓蒙すると同時に、他人の教育のために働く勇気を感じている人々を手引きするのにも役立つ」(桑原訳1974)
人間の知の集大成を目指したというわけです。各項目合わせて184人の執筆者、全28巻+補巻という大規模なものでした。学問領域が拡大し細分化しつつあった時代、個人の博学で知識を網羅することはもはや不可能になっていました。そこで、各分野の専門家それぞれが担当箇所を執筆したのです。(万能人の時代ではなくなったのですね。)
『百科全書』で用いられた学問分類は、まず人間の知性の機能3つに基づき「歴史」「哲学」「詩学」に大きく分類し、その下位項目、さらにその下位項目と分類されていきます。
●記憶(memoire)→ ○歴史(historie)
●理性(raison)→ ○哲学(phirosophie):自然の学(science de la nature)、人間の学(science de la l’homme)○神の学(science de dieu)○一般形而上学(métaphysique generale)
●想像力(imagination)→ ○詩学(poesie)
(Diderot & d’Alembert 1751、訳:隠岐2019 p.47より)
文系理系に近いのは哲学の下位項目にある「人間の学」と「自然の学」というところでしょうか。しかし、最初の分類になっていない地点で随分と違う捉え方と言えます。
また、文系理系区分では主に文系の範疇と捉えられる「歴史」や「詩学」が上位項目として独立しています。
知性に基づいて分類するという考え方は、前回扱ったフランシス・ベーコンが『学問の進歩』(Advancement of learning 1605)で記したものに基づくとされます。『百科全書』で記されたこの知の捉え方は人々に広く影響します。ところが、この分類は実際の学術組織の分類にはなっていきませんでした。
その理由は、フランス公教育制度の成立過程によく表れています。公教育の基本原理を築いたとされるコンドルセ(Condorcet 1743-94)は議会報告において、百科全書のような学問分類を「このように分類された同一の学問は同一の職業に結び付けられない」など実際の運用が困難だとしています。
そして、「おのずとできあがった分類を選ばざるを得なかった」として、アカデミー等で実際に生じた専門家集団の別れ方に準ずる分類に基づき、初等・中等・学院(Institut)・リセ(Lycee)という4つの教育段階での科目と国立科学技芸協会(Institut national des sciences et des arts)での学問分類を提起します。教育制度として運用可能かどうかが大事だったのです。
コンドルセ案が大きな影響を与え、1795年に採択された公教育制度を定めた法律「ドヌー法」(Loi Daunou)では、国立科学技芸協会の学問分類はこのようになりました。
●自然科学および数学(sciences physiques et mathématiques)
数学、工芸、天文学、実験自然学、化学、自然史・鉱物学、植物学・植物自然学、解剖学・動物学、内科学・外科学、農業経済学
●道徳および政治科学(sciences morales et politiques)
感覚と観念の分析、道徳、社会科学・立法、政治経済学、歴史学、地理学
●文芸および美術(littérature et beaux-arts)
文法、古代語、詩学、考古学、画法、彫像、造形、音楽・朗読法
(Duvergier 1835 p.359、訳:平井2015 p.165より)
「自然科学および数学」「道徳および政治科学」「文芸および美術」の3つを上位項目として分類しています。さっきの百科全書よりは文系理系に近い区分ですが、2分法ではありません。
「自然科学および数学」は理系と読み替えてもそこまで違和感ありませんが、残り2つは現代の社会科学・人文科学ともまた異なる分け方です。
17世紀から築かれた科学技術の組織の枠組みをベースにして教育制度を組織するのがやりやすかった、ということが言えます。まあこのドヌー法自体はすぐにナポレオン体制へと変わり1802年には新しい教育法にとって代られるのですが、今後も学問区分は公教育の整備や高等教育制度など教育政策も大きく関わってくることになります。
ちなみに、下位項目の社会科学・立法(Science sociale et legislation)において「社会科学」という語が登場していますが、コンドルセが使い出した語とされています。しかし、現在のように自然科学と対応する広い範囲を示す語として用いられるのは後になります。
3.社会科学の萌芽
さて、先ほどから政治科学(Sciences morales)や社会科学(Sciences sociales)という語が出ているように、自然だけでなく社会についても科学(science)を築こうという流れがこの時代に出てきます。
『法の精神』(De l'Esprit des lois 1748)で国家権力の分有を主張し、後に三権分立の祖として評価されるモンテスキュー(仏:Montesquieu 1689-1755)は、その主張自体が法学・政治学の基礎にもなるのですが、それを導く方法論でも社会科学の萌芽とされます。
三権:立法権(puissance législative)、執行権(puissance judiciaire≒行政権)、司法権(puissance judiciaire)
従来の「社会」の捉え方は人間全てに適用される普遍的な理想社会というものがあり、実在する社会はそこに至る過程の不完全なものという捉え方でした。対してモンテスキューは、社会が個人を超えて独立した存在であると捉えました。そして、社会を客観的な事象として扱い、多様性を前提として分類し、その法則の発見を試みます。社会を科学の対象として捉えました。
例えば、モンテスキューは国家には人民に(一部でも)主権がある共和制・君主が法に則して統治する君主制・法がなく独裁者の意志のみで支配する専制があるという三政体論を記しました。そして、政体は社会規模と人口に依存するとして、小国でなければ共和制は維持し得ないとしました。
説の妥当性は置いておきますが、様々な国家・民族における法律という事実を集積・比較し、法則(仮説)を導いた点が特徴です。政治体制や法律Yに影響する変数Xとして人口・宗教・地理などを検討したということです。こうした方法を「社会」に対して用いたことが、後に社会学の祖とされるデュルケーム(Durkheim 1858-1917)などに大きな影響を与えます。
人間の意志が社会の全事象を決めるのではなく、社会として個人の力が及ばない(神の意志以外の)何らかの因果関係で動いていることがある、という認識が出てきたのです。(誰も望んでいない方向に進むことはよくありますね。)
まあ実際の社会事象は関わる変数が多すぎるので、完璧な式はできないというのは現在の社会科学も変わりません。ただ、社会が良い方向に転ぶも悪い方向に転ぶも何らかの要因がある、それは人間の意志だけではない(神の御業で済まされるものでもない)と捉えるようになったことは、悪い状況に対する対策や修正を客観的に考える第一歩といえるでしょう。
また、経済の発展とともに経済に関する社会思想も発達した時代でした。『国富論』(The Wealth of Nations:1776)で知られるアダム・スミス(英Adam Smith 1723-1790)が代表的な人物です。
「神の見えざる手」があまりにも有名なフレーズですが、『国富論』で「見えざる手」(an invisible hand)という語は一回出てくるだけです。各個人が自己の利益を追求すれば自然と社会全体の利益に繋がる、という意味で使われましたが、しばしば「需要と供給の関係で価格は勝手に決まる」の部分を示す語として使われます。思わぬ部分がばかうけフレーズ化してしまったパターンです。
原著名は『諸国民の富の本質と原因に関する研究』(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)です。資本主義の構造、社会の富の生産と分配という課題の分析を行い、植民地支配を中心とした独占的な保護貿易を国益にならないと批判しました。
タイトルの“本質”と“原因”という所に、社会科学的な考え方の現れが見えますね。
ただし、現在のような経済学という分野がすぐに確立したわけではありません。グラスゴー大学で道徳哲学(moral philosophy)の教授などを務めたスミスは、道徳哲学を倫理学と法学に大別し、『国富論』は法学の一部として捉えていたようです。(他の祖とされる人も結構そうですが、「私が経済学を作りました」ではないのですね。)
このように経済や社会を科学的に捉えるという考えが啓蒙思想の時代に生まれました。専門分化していくのは大学が刷新され多様な学部が生まれる19世紀となります。
(第7章へつづく)
【6章の参考文献】
◆ツヴェタン・トドロフ、石川光一(訳)『啓蒙の精神 ―明日への遺産』法政大学出版局、2008年(原著:Tzvetan Todorov“L'esprit des lumieres”Robert Laffont, 2006)
◆鈴木正昭「書評『啓蒙主義の精神』:ツヴェタン・トドロフ箸ロベール・ラフォン社刊2006年」『中央学院大学人間・自然論叢』27、p.63-98、2008年
◆鈴木球子「啓蒙思想時代の異国のイメージ」『言語と文化:愛知大学語学教育研究室紀要』36、p.73-89、2017年
◆安川哲夫「近代教育思想における『文明』と『野蛮』」『近代教育フォーラム』12、p.109-118、教育思想史学会、2003年
◆江口豊「ドイツ語圏活字メディアの歴史について:新聞を中心に」『国際広報メディア・観光学ジャーナル』17、p.3-12、2013年
◆西川克之「余暇と祝祭性:近代イギリスにおける大衆の余暇活動と社会統制」『観光創造研究』6、p.1-13、2009年
◆田村治美「18世紀における『生命科学』と音楽の関わり──アルモニカの流行と凋落、B. フランクリンとF. A. メスメルをめぐって──」『人文科学研究(キリスト教と文化)』49、p.77-121、国際基督教大学キリスト教と文化研究所、2017年
◆奥村大介「メスメリスムの文化史」『東京大学大学院教育学研究科紀要』54、p.1-13、2014年
◆實川幹朗「プレ+ポスト・トランスパーソナルとしてのメスメル」『トランスパーソナル心理学/精神医学』11(2)、 p.36-68、2012年
◆平井正人「フランス革命期における学問分野の再編 ―タレーラン案からコンドルセ案への移行―」『哲学・科学史論叢』17、p.145-172、東京大学教養学部哲学・科学史部会、2015年
上里正男「教育思想史におけるテクノロジーとテクノロジー教育」『教育実践学研究』24、p.65-77、2019年
◆三浦太郎「ディドロ・ダランベール『百科全書』パリ版」『図書の譜:明治大学図書館紀要』17、p.111-114、2013年
◆桑原武夫(訳)『百科全書―序論および代表項目』岩波書店、1974年
◆名古屋大学附属図書館『「百科全書」とその時代展』1999年
◆小山勉「レジームの近代化過程における学校・教会・国家 ―フランス革命期から第一帝政期まで―」『日本政治學會年報政治學』41、p.111-129、1990年
◆Diderot & d’Alembert “Encyclopedie, ou, Dictionnaire raisonne des sciences, des arts et des métiers” tome premier,1751
◆J. B. Duvergier “Collection complète des lois, décrets, ordonnances, réglemens, avis du Conseil d'État”8, chez A. Guyot et Scribe libraires-éditeurs,1835
◆寺林脩「モンテスキューとデュルケム:社会科学的思考の系譜」『夙川学院短期大学研究紀要』19、p.51-62、1995年
◆愛甲雄一「モンテスキューにおける共和政と平和」『清泉女子大学人文科学研究所紀要』41、p.147-164、2020年
◆ジャン=ルイ・アルペラン、石井三記(訳)「モンテスキューの作品における法と正義 ―法制史と法理論の交差する読解―」『名古屋大學法政論集』247、p.187-215、2012年
◆ドシセルジュ、石井三記(訳)「モンテスキューの有名な喩え『法律の口としての裁判官』について」『名古屋大学法政論集』256、p.325-343、2014
◆大木雅生「構造改革とEUの統治機構」『聖学院大学総合研究所紀要』38、p.63-93、2007年
◆梶原愛巳「モンテスキューと権力分立の『神話』」『文芸と思想』39、p.1-15、福岡女子大学文学部、1975年
◆中江桂子『「ペルシャ人の手紙」研究:モンテスキューと社会学』法政大学博士論文32675甲第28号、1993年
◆上野大樹「アダム・スミスと政治哲学の革命:「ユートピア的資本主義」論の現代的再構成」『人文学報』107、p. 31-72、京都大學人文科學研究所、2015年
◆隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社、2018年
◆Christophe Charle・Jacques Verger ”Histoire des universités” ,Presses Universitaires de France, 1994(訳書:岡山茂・谷口清彦訳『大学の歴史』白水社、2009年)
◆古川安『科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで』筑摩書房、2018年
◆神奈川県立図書館資料部図書課『入門グレート・ブックス』神奈川県立図書館、2003年
◆石川史郎『理系の西洋哲学史;哲学は進歩したか』慶應義塾大学理工学部大学院講義ノート、2018年
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