5.17世紀 近代的科学観への歩み ~理性主義、科学技術、権利を持つ人間~
前回はルネサンスを通じて、人間性の追求や、人間が神の作った世界を理解していくという自然科学観が生まれたことを述べました。ガリレオの「聖書と科学の間に矛盾がある時は、聖書の真の意味が知られていないことを意味する」という考え方は、スコラ学とは大きく異なる近代的な世界観でした。
今回は、そのガリレオ裁判の直後に出された『方法序説』(Discours de la méthode 1637)に代表されるデカルトから扱います。
1.機械論的自然観の確立 ~近代哲学の萌芽~
デカルト(仏:René Descartes 1596-1650)は近代哲学(philosophie)の祖とされるのですが、2つの点でルネサンス期を通して形成された世界観・学問観の結実と言えます。
まずは機械論的自然観の確立です。自然は必然的法則(lois)によって機械と同様に動いているという考え方です。デカルトは人間の肉体を含め存在する全ての物は厳密に法則に従うとして、全ての学問を統合する普遍数学(Mathesis Universalis)を想定しました。つまり、全ての事柄は数学で説明可能と考えました。
ただし、デカルトは物質と精神を全く別の実体と分ける二元論(dualisme)の立場であり、あくまで物質の範疇においてです。
デカルト含め17・18世紀頃の科学者はまだ学問の説明において世界の土台として宗教観を記していますが、科学理論自体は信仰を必要としない論理となってくるので、各個人の意志はともかく“科学”として信仰と分離する流れが決定的となります。
そして、もう1つは人々の理性の力を信じた世界理解です。「良識(bon sens)はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである」と、人間は誰もが考える力を持つとされました。
また「我思う、故に我あり」(Je pense, donc je suis)というフレーズは有名ですね。全てを疑ってもそれを考えている自分の存在は否定できない、これが哲学の第一原理である、という考えを記しました。後にこの言葉は証明には成り得ていないと指摘されるのですが、“人間”そして“自己”から始まるという考え方を象徴的に示しており、人文主義の一つの帰結と言えるでしょう。現代でも広く使われるフレーズなのは、自己存在を力強く示すからかもしれませんね。
ちなみに「我思う、故に我あり」のラテン語訳「コギト・エルゴ・スム」(Cogito, ergo sum)は、現代で一番カタカナ表記されているラテン語かもしれないほどの著名なフレーズですが、デカルト自身はこのような表記をしたことはないそうです。(そもそも『方法序説』はフランス語表記ですが、デカルトのラテン語著書にもこの表記はないようです。)
デカルトの考えは、人間は生得的に理性を与えられ概念やそれを獲得する能力を持つ、つまり人間には生まれつき考える力があるという理性主義(rationalism、合理主義とも)に繋がります。
また、デカルトは一般的原理から個別の結論を導く演繹法(deduction)を築いたとされますが、これは理性を用いた内省で原理を捉えてそこから個別の結論を得ることができるという、理性を前提とした考えになります。誰もが力を持っているんだというのは、まさしく現代にも通ずる考え方ですね。
機械論的自然観と人々の理性の力を信じたこと、これらはスコラ学的な人文学や歴史学を否定した新しい学問の基礎的考えとして徐々に広まっていきます。
2.“科学技術”という科学観 フランシス・ベーコン
同時期にもう1つ現代に繋がる科学観を築いたのがフランシス・ベーコン(英:Francis Bacon 1561-1626)です。『ノヴム・オルガヌム(新機関)』(Novum Organum 1620)などを記したベーコンは、科学技術(science and technology)という科学観、「技術としての科学」「技術のための科学」という考え方を示しました。
世界を解明する科学と、何かを作る・実行する技術、今や当たり前に科学技術と並列されますが、科学と技術を結びつける考えが世に広まったのは19世紀以降とされます。ベーコンはその礎を築きました。
古代ギリシャでも職人的な技術は下位に位置づけられていたように、それまでの科学というか学問は、職業や実生活に役立つということをあまり考えていませんでした。
ベーコンは自然を支配し変革して人間生活の改善を目指すことが科学の目的と考えました。その宗教的背景は、自然の知は本来神が与えたものであり、それを取り戻そうと自然を探求することが神への賛美であり、神から与えられた仕事であるという考えでした。
ベーコンはスコラ学での自然哲学を批判し、印刷術・大砲・羅針盤などの機械的技芸(mechanical arts)や占星術・自然魔術・錬金術といった学問を評価しました。そして、それらの生産性・有用性を目指す方向はよいが、哲学と理論が不足しているとします。
そこで、錬金術のような秘密主義・個人主義的な傾向を排して、協同して体系的に理論を積み上げる仕組みを提案しました。そのためには国家や王による制度的保障が必要であるとし、この考えは後述する王立アカデミーの創設に繋がります。
職人個人個人が磨くものだった知識や技術を、協力して高めていくものにし、秘伝のレシピにせずに有用な情報や技は皆で共有してさらに改善していくことにしたのです。
そして、有用性に資する学問の考え方として、多くの実験や観察によって個々の事象を積み重ねて法則・原理に至るという帰納法(induction)を重視しました。
もちろん科学の理論が全て帰納法によって整然と導き出されるわけではありませんが、実験や事象の積み重ねによって理論に至るというのは科学の基礎的思考と言えるでしょう。
また、人物事を見る上で偏見があることに注意しなければならないとし、4つのイドラ(idola:虚像・幻影)を述べたことは広く知られています。
人間の感覚には錯覚があるという「種族のイドラ(idola tribus)」、個人の経験による先入観「洞窟のイドラ(idola specus)」、過去の学説や権威「劇場のイドラ(idola theatri)」、言語を媒介することによる歪み「市場のイドラ(idola fori)」、これら4つを克服することが真理の探究に必要であると述べました。
3.公的なアカデミー ~学会と国家事業~
17世紀後半には、ルネサンス期のパトロンに依存するアカデミーとは異なり、技術のための科学を担う公的な基盤を持った組織が登場します。
1660年に設立し、62年チャールズ2世に認められたロンドン王立協会(the Royal Society of London)は、現在の学会制度の祖といえる学問共同体です。会員の会費で運営費を賄う共同出資制、『哲学紀要』(Philosophical Transactions)という学会による科学誌の発行など、現在の学会に通じる制度を築きました。
各個人はそれぞれ所属組織を基盤に持ちつつ、学会という共同体にも参加していくという形です。
しかし、自分らでお金やりくりするのだったら、王立である意味は一見なさそうに思えます。ですが、国のお墨付きを得ることは、当時国の管理下にあった出版活動ができることと社会的威信という2つの意味で重要でした。また、科学者以外にも貴族・政治家という名目的な会員も多く、会の威信を高めるのに貢献しました。「王立」であることで活動の幅がぐっと広がったということです。
63年に出された以下の規約案は、ベーコンの考えを大きく反映したこの会の特色をよく表しています。
「王立協会の事業は、自然の事物の知識および一切の有用な工芸、製造業、器械の実地、原動機、実験による発明を改良することである。(神学・形而上学・道徳・政治・文法・修辞・論理学には介入しない)」
(訳:木本(2007) p.84)
「技術のための科学」という感じ、今までの権威的な学問との違いが意識されているのが見えます。
ちなみに、科学誌に研究を発表するという形式が明確になったこともあり、「誰が見つけたのか」という発見の先取権が研究者の証となっていきます。それに伴い利己的な争いも起こるようになります。例えば、ニュートンは1703年から20年以上協会会長を務めるなど権力を持ちましたが、フックやライプニッツらと先取権を巡る争いなど様々な揉め事を起こしたとされています。
同じく科学技術を担う組織でありながら、これとは対照的な組織が同時期フランスで生まれます。1666年設立のパリ王立科学アカデミー(Académie royale des sciences de Paris)は、フランス王国の国家直営研究所でした。政府の財政援助で研究を行い、研究員には(それ単体だけで生計を建てられるほどではなかったようですが)給与も支払われました。同好会的だった今までのアカデミーとは随分違います。
会員は序列ごとに定員も定められていました。また、国家プロジェクトを担うことも求められるなど、国家の科学技術を担うためのエリート組織でした。科学技術が国益に資することが認識され始めていたのです。
とはいえ、ねらいとは裏腹に17~18世紀の科学は各産業が発展させていた職人技術とうまく結びつくにはまだ至らず、社会の技術を引っ張る存在ではありませんでした。
ただ、自然科学は有用な技術を生み出しうるという考えは少しずつ広がり、18世紀にはヨーロッパ各国で王立アカデミーが設立されます。
ちなみに大学はというと、スコラ学的な学習方法で、神学・法学・医学の3学部という基本構造は変わっていませんでした。宗教改革以後、カトリックとプロテスタント双方が勢力拡大を狙ったこともあり大学数は増加しますが、基本構造の大きな変化は19世紀まで待つこととなります。科学者の場というより官僚養成の場でした。
4.政治原理の追求 ~人は権利を持つという観念~
自然科学は教会組織から離れて体系的に行われるようになっていきましたが、歴史や社会制度、生き方を対象とする学問の変化は鈍いものでした。それらは教会や国家の権威を揺るがしかねないものであり、統制がかかりやすい分野といえます。
しかし、ルネサンス期を通した根本的な世界観・人間観の変質は、新たな「社会」の捉え方も生みだします。
ホッブズ(英:Thomas Hobbes 1588-1679)は近代的な政治哲学への第一歩とされる人物です。神が定めた秩序から人間誰もが有する自然権(natural rights)から導き出される秩序へ、人が社会をつくるという考え方の萌芽と言えます。
ホッブズによると、法も統治もない自然状態には善悪も罪も存在せず、人間は自己保存のため生きるから「万人の万人に対する闘争(羅:bellum omnium contra omnes 英:the war of all against all)」状態となる。個人は国家と契約し自然権を全面的に委譲、国家(commonwealth)を現世の神(Mortal Gods)とすることが互いに傷つけ合うことから人々を守る唯一の道としました。秩序ある機構が勝手に与えられているのではなく、人がそういった社会を作らねばならない、そのための手段として国家権力が必要と考えたのです。主著『リヴァイアサン』(Leviathan 1651)では、この国家権力を海の怪物「リヴァイアサン」に例えています。
なお、ホッブズもこの時代の人物の例にもれず、神の存在そのものは述べています。こうした国家との契約は自然状態を築いた神の下の必然であり、自由意志は認められず契約するかしないかは選べないとしました。
結論は絶対王政を擁護するものでしたが、国家の正当性は宗教的権威ではなく個々の人間たちであるという点はそれまでと大きく異なり、教会権力からは激しく批判を受けました。
そして、人が社会をつくるという考えを発展させたのが『統治二論』(Two Treatises of Government 1690)や『人間知性論』(An Essay Concerning Human Understanding 1689)を記したロック(英:John Locke 1632-1704)です。
個人が国家と契約する点はホッブズと通じますが、ロックは国家に委譲する個人の自然権は一部だとし、主権は人民にあり、国家が人民の自然権を侵害するなら抵抗できるとしました。市民社会の原点と言えますね。
この時期、イギリスでは名誉革命(1688)が起こり旧来の王が追放され、議会政治の基礎が築かれました。また、英国国教会を国教とし、カトリック勢力は権力を失うこととなりました。
宗教的にも大きな転換があった中、ロックは信仰の捉え方もとても近代的といえます。ロックは、教会は自発的な集まり(voluntary society)であると政教分離を主張しました。神とは個々人が契約する・義務を負うもので、魂の救済は自己責任である、個人は信仰の自由があり権力に奪われてはならないとしました。
また、ロックはホッブズとは対象的に、自然状態において人々は自由と平等と慈愛という原理を内包しており、相互的な愛情(mutual love)の義務があるという性善説的な立場でした。そして、同じ神のもと宗派の違いで異端など断罪することはできないと寛容を述べます。一方で、「神の存在を否定する人々」は神が人間の性質を与えたというそもそもの社会の絆の大前提を否定することになり寛容の対象にはならないとしました。(信仰しない自由はないということです。)
現代の市民社会原理と同様ではありませんが、個人の権利や政教分離、公共の福祉(the public good)などの考え方を築いた人物と言えるでしょう。
また、人間は白紙(タブラ・ラサtabula rasa)で生まれると述べ、知識や観念(ideas)は経験で得るという経験主義(empiricism)の代表的人物とされます。まあ、ロックの主張は無から始まるからこそ本来人間が持つ自然法を獲得していかなければならない、というものなので「人は何者にもなれる」ではない点は注意です。
現代の思想に近くても、前提となる世界観を踏まえないと大きく取り違えることもあるから厄介ですが、時代の変化を順に追っていくことで、思想は突拍子もなく現れるわけではなく時代の変化の中で生まれることが見えてきます。
技術と結びつき神学と離れた自然科学に対し、社会制度や生き方については個人中心の近代的な発想が広がりつつも宗教的背景を前提として記述していました。「社会科学」という考えの登場は18世紀以降となります。
(第6章へつづく)
【5章の参考文献】
◆山田弘明訳『方法序説』筑摩書房、2010年(原著Rune Descartes“Discours de la methode”1637)
◆石神豊「デカルトにおけるヒューマニズムの位相」『通信教育部論集』17、p.51-72、2014年
◆山田弘明「神と精神 ―デカルトの形而上学と世界観―」『名古屋大学文学部研究論集(哲学)』54、p.7-41、2008年
◆吉田健太郎「第一原理としての「私はある」―カント,ウィトゲンシュタイン,ハイデガー,アンリとの対照―」『愛知教育大学研究報告 人文・社会科学編』64、p.47-60、2015年
◆菅野礼司「IV. 機械論的自然観 (連載 自然観)」『物理教育』45(2)、p.101-104、1997年
◆立花希一「デカルトの物心二元論再考」『秋田大学教育文化学部研究紀要 人文科学・社会科学』63、p.1-12、2008年
◆下野葉月「フランシス・ベイコンにおける自然の知と人間性」『東京大学宗教学年報』32、p.75-95、2015年
◆柴田和宏「学問はいかにあるべきか? フランシス・ベーコンの宗教的学問観」『哲学・科学史論叢』12、p.173-196、東京大学教養学部哲学・科学史部会、2010年
◆Klein Jurgen“Francis Bacon’s Scientia Operativa”Philosophies of Technology:Francis Bacon and His Contemporaries,p.21-50,Brill Academic Pub,2008
◆北村浩一郎「F.ベーコンの劇場のイドラ」『川村学園女子大学研究紀要』5(1)、p.1-14、1994年
◆木本忠昭「Royal Societyof Londonの設立」『学術の動向』12(4)、p.78-85、2007年
◆京藤倫久「科学技術(Science and Technology)と科学・技術(Science and Technology)について」『情報管理』53(7)、p.401-405、2010年
◆池内了「科学・技術と社会(4)」『科学と社会2010』p.533-540、総合研究大学院大学、2011年
◆下野葉月「『宗教と科学』に関する歴史的考察」『現代宗教2019』p.155-175、国際宗教研究所、2019年
◆吉田晃「パリ王立科学アカデミーの歴史」『学術の動向』12(6)、p.90-95、2007年
◆小風綾乃「摂政期のフランス王権とパリ王立科学アカデミー ―1716 年の会員制度改定を中心に―」『人間文化創成科学論叢』21、p.53-62、2019年
◆下條慎一「ホッブズにおける自然権と絶対的権力」『武蔵野法学』8、p.1-28、2017年
◆影浦亮平「ホッブズの自然権論の神学的要素」『研究論叢』88、p.35-46、京都外国語大学、2016年
◆川添美央子「ホッブズ研究の現在 ―精神史, 哲学史」『イギリス哲学研究』35、p.150-158、2012年
◆松田央「ジョン・ロックの自由の概念(その1)キリスト教思想に基づく自由の概念」『神戸女学院大学論集』58(1)、p.85-100、2011年
◆下川潔「ロック寛容論における危害の不在と寛容の射程」『人文』17、p.7-28、学習院大学人文科学研究所、2018年
◆上憲治「ロックのタブラ・ラサ観について」『帝京短期大学紀要』13、p.41-49、2004年
◆増田美寿々「ジョン・ロックの寛容論と宗教観」『歴史研究』64、p.103-136、愛知教育大学歴史学会、2018年
◆久保信本「ジョン・ロックの宗教的寛容論 ―その生成と展開」『宗教法』21、p.219-230、2002年
◆隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社、2018年
◆Christophe Charle・Jacques Verger ”Histoire des universités” ,Presses Universitaires de France, 1994(訳書:岡山茂・谷口清彦訳『大学の歴史』白水社、2009年)
◆古川安『科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで』筑摩書房、2018年
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