4.ルネサンス・人文主義からガリレオへ ~信仰と理性の分離~
前回は大学の登場と学問の中心になったスコラ学を扱いました。講読と討論という現代の大学にも通ずる学習法であり、哲学などの諸学問は神学を頂点とした体系に位置づけられました。
今回はその体系が少しずつ崩れていく、スコラ学の変化から述べていきます。
1.唯名論 ~信仰と理性の分離~
これまで神学は世界全てを説明できるものとして、各学問を取り込んで発展しました。
ところが、14世紀頃から、神学と哲学、信仰(fidem)と理性(ratio)を分けて考えるべきではという考え方が教会内で台頭してきます。イギリスのウィリアム・オッカム(William of Ockham:1285-1347)はその代表とされます。
従来のスコラ学では、どれだけ論理を展開しても結局最後に聖書の引用に頼りがちでしたが、オッカムは信仰と理性(筋道を立てて物事を考える)を区別したのです。これまでのスコラ学の議論の多くを、前提から否定する考え方となります。
それゆえに、オッカムの論は既存の権力と相容れないものであり、教皇から破門されています。(まあ、その後は教皇と対立していた神聖ローマ帝国皇帝に保護されるのですが。)
オッカムの論は信仰の否定ではなく、むしろ信仰の純化でした。神は従来の証明の領域を超えるものであり信仰や啓示によってのみでしか神学的真理には到達できない、という考えです。信仰の独立・純化はこの後宗教改革に繋がっていきます。信仰の正当性を論理的に説明しようとする試みは、オッカムからすると無駄だということですね。
オッカムは唯名論(nominalism)の立場を取りました。従来支配的だった実在論(realism)は、「人」や「犬」という言葉は、イデアに存在する普遍的概念「人」「犬」を投影したもので、概念それ自体も存在するという世界観です。
対して唯名論は、「人一般」「犬一般」などというものは存在せず、個々の生き物が存在するだけで、「人」「犬」というのは人間が考えて区分しているに過ぎない。概念とは知性による認識である、普遍とは人間の頭の中だけにあり、個々の物を把握する1つの方法に過ぎない、という論です。現代に通ずる考え方ですね。
唯名論は近代的な合理的思考、また人間を中心とした世界観への礎となっていきます。
オッカムの考え方は現代の論理学の基礎ともされ、「物事の説明に必要以上の仮定を用いるべきではない」ということを、無駄を削ぎ落すイメージで後に「オッカムの剃刀(Occam's razor)」と呼ぶようになりました。
『論理学大全』などオッカムの論全体がすぐに広まったわけではありませんが、唯名論の台頭は近代科学の認識に繋がっていきます。
2.ルネサンス 人文主義と文献学
14世紀にはイタリアでルネサンスが起こります。ルネサンスはこの時期の文化興隆を幅広く指す語としても使われますが、語の意味は「re 再び + naissance 誕生」(フランス語:ミシュレ1855)で古代ギリシャ・ローマの古典復興運動を指します。
1から読まれてきた方は、また古代ギリシャ・ローマかと思われるかもしれません。過去の復興運動との大きな違いは人文主義者(humanist)の登場です。腐敗した権力支配からの人間の解放、理想の人間像を追求する「人間性の研究」(studia humanitatis)が行われました。腐敗した今にないものを、古典に求めたのですね。
文化運動は教会や大学など既存権力の外が中心となり栄えました。芽生えつつあった合理的思考、人間中心の価値観を広げていくこととなり、古典への回帰に留まらず発展を遂げていきます。
この時代は、古い文献も時代を考慮して正確に読むという文献学(philologia)が発展しました。写本による間違いも考慮しながら書かれた時代を考証してなるべく原典によること、1000年以上の歴史を持つラテン語は時代で変容していることを考慮して「当時の」言葉を理解すること等、歴史や言語研究の基礎が築かれました。現代に通ずる文献の見方となり、人文社会科学の礎になっていきます。
とはいえ、当時全ての者が冷静に文献を比較していたかと言われるとそうではなく、特定の古典に心酔して、その形式を再現することに囚われる者も珍しくなかったようです。共和制ローマ末期の政治家キケロはラテン語文体の典範とされましたが、キケロに近づけることばかりこだわり、後に紹介するエラスムスに「キケロの猿真似」と批判を受ける人々も生まれます。
ルネサンス初期の代表であり、後に『カンツォニエーレ』(Canzoniere)と題される叙情(自分の感情を示した)詩集で知られるペトラルカ(Petrarca:1304-1374)は、こうした文献学を発展させた人物でもあります。
一方でペトラルカは、道徳哲学(moralis philosophia)と修辞学を重視し、オッカムの流れを汲む信仰から分離した自然哲学(naturalis philosophia)を批判しています。以下の文章は象徴的です。
「どれだけたくさんのことを知り、天地の大きさ、海の広さ、天体の運行、草木のはたらき、自然の秘密などを知ったとしても、きみたち自身について無知だとすれば、それが何になろう」
(ペトラルカ1370『無知について』(近藤訳2010 p.33-34)より)
そして、自由学芸に詩学(poetica)が含まれるべきだと主張しています。理性と信仰の分離による神の全能性は支持しており完全な回帰ではありませんが、古代の全人的な教養観に近いと言えます。
人間性の追求に資する学問(道徳哲学・修辞学・詩など)と、そうでない学問(自然科学)という捉え方が生まれてきたのですね。
ルネサンスというと、もっと「何でも屋」なイメージがあるかもしれません。もちろん、そういった側面もあります。
こうした文献学の発展は自然科学の文献の発見ももたらし、美術・数学・工学などが連動しながら発展しました。それらで幅広く功績を残し、後に万能人(uomo universal)の代表と称されたダヴィンチ(Leonardo da Vinci:1452-1519)は、最も深く人間世界を捉えた人物と言えるかもしれません。万能人は理想ではありましたが、ダヴィンチはやはり傑出した存在であり、決してルネサンス期の学者が万能人ばかりなどということはありませんでした。
技術の発展が目立つ時代ではありますが、人文主義者を中心に見るとまた違った意味を持つ時代といえるでしょう。
実証的に自然を捉える科学観の発展とともに、それと距離を置く「人文主義者」が現れていたのは、現在の文理に近い感覚が生まれつつあったと言えるかもしれません。
15世紀にはルネサンスはヨーロッパ各地に広まります。
『愚神礼讃』で腐敗した聖職者を批判したことで知られるオランダのエラスムス(Desiderius Erasmus:1466- 1536)は、代表的な人文主義者・文献学者であり、ギリシャ語を訳した『校訂版新約聖書』を記します。そしてルターの宗教改革、聖書が信仰の唯一の権威であり、神の前では皆が等しく特別な聖職者などいない(万人祭司)とするプロテスタントへと繋がっていきます(「95ヶ条の論題」が1517年)。まあ、エラスムス自身は急進的な変革を支持はしなかったようですが。
宗教が学問を包摂するのではなく、宗教と科学を分離して純化する流れが社会全体に広がっていくこととなります。
なお、ルネサンスは教会や大学など既存権力の外が中心と述べましたが、その中心が私的な学問共同体「アカデミー」(Accademica)です。名は古代ギリシャのプラトンに由来し、1438年に設立されたアカデミア・プラトニカはその代表です。
人文主義者の集まりに始まり、幅広く芸術・科学の組織を指す語となりました。権力者や裕福な商人がパトロン(支援者)として研究・交流を支えましたが、各団体はパトロン個人ごとに依存し、パトロンが亡くなると消滅するという個別的なもので、基盤ある組織としては17世紀の王立アカデミーの登場を待つこととなります。
一方で大学は、前回紹介したスコラ学に基づき、自由七科を教養として神学・法学・医学を専門とするという体系は基本的に変化していませんでした。大学に所属する学者もそれぞれ別にアカデミーで活動するなど、学問活動の中心はアカデミーであったと言えます。
権力と枠組みに支配された場では、なかなか自由に学問とはいかなかったようです。
3.コペルニクスとガリレオ・ガリレイ 近代科学へ
ルネサンス後期、コペルニクス(Nicolaus Copernicus 1473-1543)が地動説を唱えたことは、科学革命の起こりとも言われます。発想が180度転換したことをコペルニクス的転回(Kopernikanische Wendung:ドイツ語、18世紀末のカントの思想を指す語として用いられた)とも言いますね。
しかし、コペルニクスが旧来の世界観・自然観を完全に覆した、というわけではありません。
まず前提として、スコラ学によって教会では天動説の宇宙観が確立していました。しかし、大航海時代の到来などによって疑問が広がり始めていました。(1492年コロンブスカリブ諸島上陸、1522年マゼラン隊世界一周)とはいっても、教会は宇宙観という根本的な世界観を簡単に変えるわけにはいきません。
コペルニクスはポーランドの司祭で、天文学のほか医学や法学など幅広く学んでいました。地動説は、前3世紀のアリスタルコスなど過去に地動説を記した古典にも学んでいたとされます。(精度はそこまで高くなかったようですが)観測を支援してもらいながら、没する1543年に『天球の回転について』が完成します。最初は友人に見せていたものでしたが、評判が広まり、強く勧められ出版に至ったそうです。
これといった教会との対立は見られません。カトリック教会に対する反逆になると自覚していたから発表に慎重だったという説もありますが、一方で枢機卿(教皇補佐)も褒め、当時コペルニクスの論は激しい批判は浴びなかったという話もあり、このあたりの見解は分かれているようです。
ただ、発表した瞬間に人々の世界観が、それこそ天地がひっくり返るほど劇的に変化したわけではないのは確かです。
しかし、他の天文学者たちへ影響を与え、次第に観測の精度も上がっていきます。『天球の回転について』が教会の禁書となったのはガリレイの裁判が行われた1616年のことです。
一方のガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei 1564-1642)は宗教裁判で地動説の撤回を求められました。ガリレイもカトリック信者であり、キリスト教を否定する気はありませんでした。
ガリレイは天文学のみならず、数学を基盤とする自然科学観、機器を用いた実験・観測による実証という近代科学の基礎を築いた人物とされます。(他、ラテン語以外での学術書記述、世俗のイタリア語を用いたことも先進的でした。)
また、「自然は神に従った第二の聖書であり、神が自然界を統べる数学的な法則の発見は真理への道である」「聖書と科学の間の矛盾があるように見える時は、聖書の真の意味が知られていないことを意味する」という科学観と信仰のあり方も、とても近代的なものだと言えます。
こういった考えも当時の権力には受け入れがたいものだったでしょう。
信仰がある社会の中で徐々に科学が受け入れられていく上でも、こうした価値観の広まりがあったと考えられます。
ルネサンスを通して、人間は自然界を理解していくことができるという自信が多くの人についていったと言えるでしょう。
(第5章につづく)
【4章の参考文献】
◆小林公「オッカムにおける神と自然法 : ウィリアム・オッカム研究(二)」『立教法学』21、p.46-129、1983年
◆西藤洋「ジョージ・バークリーにみる『オッカムの剃刀』」『科学基礎論研究』26(2)、p.77-84、1999年
◆齊藤芳浩「ウィリアム・オッカムの所有権論:「権利」概念の創設」『西南学院大学法学論集』48(3・4)、p.37-98、 2016年
◆須藤英幸「信仰義認の精髄 ―マルティン・ルターの『ガラテヤ大講解』」『キリスト教学研究室紀要』6、p.15-32、2018年
◆安酸敏眞「アウグスト・ベーク『文献学的な諸学問のエンチクロペディーならびに方法論』翻訳・註解(その1)」 『北海学園大学人文論集』40、p.1-58、2008年
◆榎本武文「15世紀イタリアの修辞学思想」『一橋大学社会科学古典資料センター Study Series』55、p.1-27、2006年
◆榎本武文「ルネサンスにおけるキケロ主義論争」『一橋大学研究年報 人文科学研究』36、p.269-333、1999年
◆宇羽野明子「モンテーニュとレトリックの伝統 ― 人文主義の「寛容」への一視座 ―」『政治思想研究』1 、p.77-94、2001年
◆近藤恒一『新版 ペトラルカ研究』知泉書館、2010年
◆近藤恒一訳『ペトラルカ 無知について』岩波書店、2010年(原文:F.Petrarca“De sui ipsius et multorum ignorantia”1368)
◆大貫義久「ルネサンスにおける「人間の尊厳」について」『言語と文化』6、p.198-178、2009年
◆瀧本佳容子「インディアスの発見とルネサンス (1)」『慶応義塾大学日吉紀要 人文科学』20、p.97-119、2005年
◆柳沼正広「エラスムスの聖職者批判 (2) ―アルキビアデスのシレノスから―」『東洋哲学研究所紀要』24、p.185-210、2008年
◆坂本博「コペルニクスの太陽中心説の動機」『信州大学教養部紀要』 28、p.67-101、1994年
◆標宣男「ルネサンスと科学革命」『キリスト教と諸学:論集』11、p.47-72、女子聖学院短期大学宗教センター、1996年
◆大貫義久「ルネサンスにおける学問観 ―ペトラルカからガリレオへ―」『中世思想研究』57、p.127-142、2015年
◆澤井繁男「真理の探究:ルネサンス期の科学の進歩」『關西大學文學論集』57(1)、p.A27-A52、2007年
◆薩摩秀登「学芸で結ばれた人たち ―初期近世の人文主義者たちと東欧諸国―」『東欧史研究』38、p.60-66、2016年
◆平賀明彦「現代ヒューマニズムの淵源を探る ―15 世紀イタリア・ルネサンス絵画を素材として―」『白梅学園大学・短期大学 教育・福祉研究センター研究年報』19、p.30-42、2014年
◆Bulent Atalay“Math and the Mona Lisa: The Art and Science of Leonardo da Vinci Smithsonian Books,2004(訳:佐柳信男・高木隆司『モナ・リザと数学 ―ダ・ヴィンチの芸術と科学』化学同人、2006年)
◆木本忠昭、シルヴァーナ・デ・マイオ「科学アカデミーの発祥」『学術の動向』12(3)、p.78-84、日本学術協力財団、2007年
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上智大学中世思想研究所『中世思想原典集成 精選5 大学の世紀1』平凡社、2019年
◆坂本博「コペルニクスの太陽中心説の動機」『信州大学教養部紀要』28、p.67-101、1994年
◆株本訓久「ガリレオ・ガリレイの生涯 ~ガリレオ裁判は科学と宗教の対立だったのか?~」『天文教育』21(2)、 p.8-42、2009年
◆隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社、2018年
◆Christophe Charle・Jacques Verger ”Histoire des universités” ,Presses Universitaires de France, 1994(訳書:岡山茂・谷口清彦訳『大学の歴史』白水社、2009年)
◆勝山吉章編著・江頭智宏・中村勝美・乙須翼著『西洋の教育の歴史を知る 子どもと教師と学校をみつめて』あいり出版、2011年
◆橋本毅彦『図説 科学史入門』筑摩書房、2016年
◆竹田青嗣監修『哲学書で読む 最強の哲学入門』学研プラス、2013年
◆哲学思想研究会編『図解 哲学人物&用語事典』日本文芸社、2015年
◆古川安『科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで』筑摩書房、2018年
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