3.大学の登場 ~12世紀ルネサンスとスコラ学~

 前回、古代ギリシャから中世前期までの学問と教養の変遷を述べてきました。今回は11~12世紀、西ヨーロッパでの大学の登場を中心に見ていきます。


1.12世紀ルネサンス アラビアからの学問流入


 前回、中世前期に教会を中心とした社会制度と学問体系が成立したことを述べました。教養である自由七科の地位が教会で確立し、固定化されたことで学問は停滞しました。

 その停滞を変えていくのが、11世紀頃から盛んとなったアラビアからの学問流入です。

 アラビア世界では、アッバース朝(750-1258)が830年バグダードに設立した「知恵の館」(バイト・アル=ヒクマBayt al-Ḥikma)という図書館・研究所を中心に、ギリシャ語文献のアラビア語翻訳が盛んに行われました。(古典シリア語経由での翻訳も多数ありました。)

 9世紀から11世紀頃はイスラム圏が科学の中心地となり、数学やイブン・シーナー(980-1037)の『医学典範』を代表とする医学のほか、アリストテレスを中心とした(自然現象に関する理論を含めた)ギリシャ哲学が盛んに研究され、西ヨーロッパに大きな影響を与えることとなります。アラビア数字(Arabic numerals)は現在でも主流の数表記ですね。

 新しい科学の成果だけやなくて、古代ギリシャの知もアラビアからやってくることになるのは重要です。


 アラビア世界からの学問流入は直接的な契機があったわけではなく、諸要因が重なり徐々に起こります。

 単純に温暖な気候への変化や農業技術改良による人口増、都市の発達による交易増加は大きいです。

 また、この頃のスペインは後ウマイヤ朝(756-1031)などイスラム国家が多く、キリスト教勢力とせめぎ合う土地であり、両文化が混ざる土壌があったと言えます。

 ほか、教会秩序を正そうとしたグレゴリウス改革による学識奨励、1096年からの十字軍(Crusades)遠征、など様々な要因がありました。

※レコンキスタ(Reconquista再征服運動):キリスト教国によるイベリア半島の国土回復運動

※教皇グレゴリウス7世(在位:1073-1085) 「カノッサの屈辱」(Umiliazione di Canossa:1077) でローマ王を屈服させた人。


 人と人との交流が増えれば、学問の交流も自ずと起こってきますね。

 こうした背景を受けての12世紀の文化興隆は、古代ギリシャ哲学など古典復興運動が起こったこともあり、後にルネサンスになぞらえて「12世紀ルネサンス」と呼ばれます。


 前回のカロリング・ルネサンスも今回の12世紀ルネサンスも、なんか取ってつけたような呼び方ですが、これには20世紀の歴史学の流れが関係しています。

 かつては中世ヨーロッパ全体を暗黒時代(Dark Ages)として文化停滞期と捉える見方が主流でした。それに対して、中世における文化の変化を正しく捉えるべきだとする見方が、歴史家ハスキンズの『12世紀ルネサンス』(1927)などで広がり、こうした「○○ルネサンス」の名称で文化運動が捉えられるようになりました。14世紀からのルネサンス以前を軽視する見方への抵抗としての意味が込められた名称なのですね。



2.スコラ学 「学校」の学問(神学と哲学の融合) 


 この時代の「学校(schola)」は、中世前期から続く司教座聖堂学校や修道院学校(Scholae monasticae)が中心でしたが、都市には後に大学となる自発的な教師と生徒の集団などが徐々に現れていました。

 アラビア世界からの学問流入は、こうした学校での学びを大きく変えることとなります。

 中世に確立した学校での教授方法とそのキリスト教的思考は、後にスコラ学(scholasticism)と呼ばれます。


 まずスコラ学を平たく言えば「キリスト教の教義を論理的に捉え、その真実を証明する」ための方法です。全ての事物事象を神との連関において捉えます。次第にアリストテレスなどの哲学を包摂して、世俗の学と神学が矛盾しないことを体系的に示そうとするものとなり、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas:1225-1274)の『神学大全』に結実します。

 「哲学は神学の婢(はしため=召使い)」(Philosophia ancilla theologiae)という言葉に象徴されますが、哲学だけでなく全ての学問は頂点である神学に従属するものとされました。

 宗教体系に取り込むという意味では、自由七科を教義に取り込んでいった中世前期とあまり変わらない気がしますが、正しさを論理的に示すという考え方が、この時代生まれる「大学」での学習の基本になる点が重要です。


 スコラ学における「教える(docere)」方法は、主に講読(lectio)と討論(disputatio)です。

 講読では、権威(auctoritas)あるテキスト(原典やその注釈書)を読みます。そして、討論では問題(quaestio)が提示されて(あるいは提示して)弁証論的に(dialectice)議論します。最終的に教師の見解と異論への解答が示されて終わりです。

 解釈が多義的や曖昧になる部分は明確に区別する(distinguere)ことなど、厳密に考えることが求められました。テキストを参照して、問いを立てる。そしてその問いを議論する。現代の学習とそう変わらないですね。

 こうした考えに基づき、各専門領域において重要で解決されるべき問題と、それに対する肯定的/否定的見解が様々な権威や典拠から整理され、その解答が記された大全(summa)が作られました。

 無批判に聖書を受け入れなさいではなくて、理詰めで納得させるようになりました。こうした教授・学習方法論は、キリスト教世界だけでなく学問全体に影響していくこととなります。



3.学習共同体「大学」の登場 ~神学・法学・医学~

 12世紀ルネサンスで述べた時代背景により、都市の人々の学問への探求心や需要が高まり、多くの生徒を集める講師も登場します。

 大学の起源は、こうした教師が集まり学習共同体を形成するパターンが1つ。もう1つ、講師に学生が集まるのではなく、学生が自律的な組織を結成して講師と契約するという形を取るパターンがあったようです。universitasは職業ごとの組合を指す語でしたが、この学生団体(universitas scholarium)が後にuniversityとなります。各地から集まった学生はその街の市民権を持っていなかったので、出身地毎に同郷組合を作り、都市当局や教師らと交渉して身分確保に努めました。また、教師側も団体(collegium)をつくり、学位の認定を組織で行いました。


 大学は都市当局とは激しく対立しますが、国王そして教皇の認可・保護を受けて自治を獲得します。教皇が与えた万国教授資格(ius ubique docendi)や神聖ローマ帝国による普遍的な学校(studium generale)への承認といった政策は大きく影響します。権力側としても、公的なお墨付きを与える代わりに支配下に置くという意図がありました。

 こうして、ボローニャ・パリ・オックスフォード・ケンブリッジなど現在も続く大学が出来ていきます。

 ちなみに、最古はボローニャ大学で1088年設立と自称していますが、これは1888年に地域博覧会に合わせて800周年記念行事を行うために定めたもので、断定する根拠はないようです。(ただ11世紀末から12世紀頃ではあるようです。)せっかく歴史あるのに、曖昧だからお祝いできないではもどかしいですからね…。


 主に13世紀からこうした大学が各地にできていきます。

 徐々に基本的な組織構造ができ、教養にあたる下級学部では自由七科、専門にあたる上級学部に神学部・法学部・医学部がありました。(なお、下級学部は4~6年、上級学部はさらに6~8年かけて合格する必要があり、実際には上級学部で学位(doctor)を獲得する者はごく少数でした。)

 ここで初めて法学と医学が上位に位置づけられます。

 ローマで自由七科に入れなかった医学もありますが、どうして、法学と医学の地位が高まったのでしょうか。


 法学(iuris)は社会的需要が高まりました。都市の発展に伴い契約などが増え、契約を取り仕切る公証人(notarius)や法律顧問(syndicus)、弁護士(advocatus)など、教会や都市での法的な仕事の需要が高まりました。また、教皇・皇帝も法秩序の形成と実務にあたる人材の需要を抱え、法学は立身出世の道にもなりました。

 教会も都市も法整備の必要性を感じ、6世紀東ローマ帝国が整理した『ローマ法大全』という再発見された法典群に基づき、後に『市民法大全』(Corpus iuris civilis)に結実する市民法を整備しました。また、12世紀から教皇による法令集が次々作られて、後に『教会法大全』(Corpus iuris canonici)にまとめられる教会法の整備などが進められました。

 社会全体で法律の整備がすすめられ、法律の制度設計を担う人材も、運用する人材も必要だったのです。


 医学(medicina)は修道院でも細々と展開されていましたが、主に徒弟制で教育される職人的な技術でした。大学の登場により、医師は医学学位を得た内科医(physicus)と徒弟制で育成された外科医(chirurgus)に分化されることとなります。(外科医へも資格が要請されるのは15世紀頃になってから)

 まあ、医療を行う職業には、さらに低い位置づけの理髪外科医(barbitonsor)などがいたり、魔術師や占星術師、錬金術師なんかが医師組合に加入していたりと実に多様だったようです。

 従来の医療も残りつつ、少しずつエリート層の医師が現れ出したと言えます。

 医学が修道院で営まれている間は、聖職者が勝手に医業を営んで秩序を乱さないように禁じる措置なども取られました。しかし、大学という別組織で学問として勝手に発展すると、教義を脅かしかねません。医学の教育権そして医業認可権を管轄に置くことで、教会への取り込みを図ったのです。

 また、アリストテレスの自然学(physica)は、自然哲学(philosophia naturali)として医学の基礎に位置づけられました。アリストテレスを媒介として、医学は単なる経験という扱いから脱却し、合理的な学問という立場を確立していきます。


 実質は神学が頂点としても、大学という制度では法学・医学が神学に並ぶ地位の学問にまでになりました。

 学問としての地位もですが、大学で学問が職業と結びつき、社会的地位上昇をもたらすようになったのは大きい出来事ですね。


 医学部・法学部の地位と職業、そして大学での学び方の基礎がこの時代に築かれた、というのを見ていきました。しかし、自然科学・人文科学という区分けにはまだまだ至りません。次回は近代科学への歩み、14世紀からの“本家”ルネサンスです。


(第4章へつづく)


【3章の参考文献】

◆山本芳久「盛期スコラ学における制度と学知 ―トマス 『神学大全』の方法論としての「引用」と「区別」(シンポジウム 制度と学知)」『中世思想研究』51、p.142-15、中世哲学会、2009年

◆桑原直己「アンセルムスと二つの神学世界」『哲学・思想論集』39、p.170-186、筑波大学哲学・思想学系、2013年

◆加藤和哉「提題「スコラ学」における学/哲学としての神学の誕生 (シンポジウム 論題 中世から近世へ ―知のあり方の変容)」『中世思想研究』49、p.164-174、2007年

◆宇田進ほか編『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991年

◆中村広治郎「イブン=シーナーの創造論」『東京大学宗教学年報』16、p.1-14、1998年

◆箕輪秀二「思想の重層 ―中世哲学とイスラム哲学―」『中央学院大学教養論叢』6(1)、p.65-81、1993年

◆高橋英海「イスラームにおけるアリストテレス受容」竹下正孝・山内志朗編『イスラーム哲学とキリスト教中世 I 理論哲学』p.13-43、岩波書店、2011年

◆河口明人「予防概念の史的展開:中世・ルネサンス期のヨーロッパ社会と黒死病」『北海道大学大学院教育学研究院紀要』102、p.15-53、2007年

◆明山曜子・高垣里衣・松本智憲・平田良行「流転する《ルネサンス》:その背後にあるものは?」『大阪大学歴史教育研究会 成果報告書シリーズ』12、pp.20-39、2016年

◆岩村等・三成賢次・三成美保『法制史入門』ナカニシヤ出版、1996年

◆貝瀬幸雄「歴史叙述としての民事訴訟(1)―ヴァン・カネヘム『ヨーロッパ民事訴訟の歴史』を中心に―」『立教法務研究』6、p.1-82、2013年

◆山辺規子「<講演録>ボローニャ:都市と大学の誕生と発展」『関学西洋史論集』43、p.39-70、2020年

◆標宣男「西欧中世のキリスト教と科学」『キリスト教と諸学:論集』10、p.75-97、女子聖学院短期大学宗教センター、1995年

◆千葉俊一「西欧中世における宗教性の醸成と芸術:宗教芸術論試論(2)」『東京大学宗教学年報』35、p.25-43、2018年

◆阿部善彦「中世キリスト教哲学という問題:その哲学的位置づけをめぐって」『国士舘哲学』22、p.51-74、2018年

◆鈴木暁「『魔女の槌』第1部第3問:スコラ学の議論の進め方」『専修人文論集』83、p.215-238、2008年

◆青木義紀「カルヴァンとスコラ主義」『基督神学』23、p.79-133、東京基督神学校、2011年

◆稲垣良典「トマス・アクィナスの存在論」『中世思想研究』54、p.1-17、2012年

◆大野岳史「神学討論と理性」『白山哲学 東洋大学文学部紀要 哲学科篇』48 、p.139-157、2014年

◆谷口貴都「大学の誕生と法律学の成立 (1)」『高岡法学』30、p.i-xxii、高岡法科大学、2012年

◆鈴木径一郎「新しい自由学芸のためのメモ (1)」『Co* Design』2、p.33-39、大阪大学COデザインセンター、2017年

◆北嶋繁雄「中世ヨーロッパにおける大学の起源」『愛知大学史研究』1、p.29-33、2007年

◆松浦正博「中世パリ大学における学位制度と教育の課程:一三・四世紀神学部の<baccalarius> 及び< magister> を中心として」『広島女学院大学論集』61、p.15-29、2011年

◆児玉善仁『イタリアの中世大学―その成立と変容―』名古屋大学出版会、2007年

◆隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社、2018年

◆Christophe Charle・Jacques Verger ”Histoire des universités” ,Presses Universitaires de France, 1994(訳書:岡山茂・谷口清彦訳『大学の歴史』白水社、2009年)

◆勝山吉章編著・江頭智宏・中村勝美・乙須翼著『西洋の教育の歴史を知る 子どもと教師と学校をみつめて』あいり出版、2011年

◆山中康資『はじめて学ぶ科学史』共立出版、2014年

◆池上正太『図解 中世の生活』新紀元社、2016年

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