2.教養「自由七科」の成立 ~古代ギリシャ・古代ローマ・中世前期の学問の歴史~

 さて、文系理系とは何か、人文社会科学・自然科学という区分がどのように成立していったかを考えるには「大学」というものの歴史を見ることが不可欠です。

 しかし、今回はその前段階、12世紀頃から登場した大学で基礎とされた教養「自由七科」がどのように成立したかを、古代から見ていきます。

 「教養」の捉えがどう変わり現代に至るか、についてはまた別に扱いますが、その議論においてもやはり今回扱う古代からの流れは土台になってきます。


1.古代ギリシャ 自由市民の知の模索


 前8世紀に都市国家(ポリス)が誕生した古代ギリシャでは、早くから私立学校での音楽や体操の教育が盛んでしたが、後にギリシャ哲学と言われる様々な思想が前5世紀頃から発展します。以下の哲学者が代表的です。(哲学者といっても様々な学問が混ざり合っており専門分化してはいません。)


ソクラテス(Sokrates:前470-389)

プラトン(Platon:前427-347)

アリストテレス(Aristoteles:前384-322)


 ポリスでの身分は大きく自由市民と奴隷に分かれていましたが、自由市民に必要な教育をパイデイア(paideia:教養)、職人的な技術をテクネー(techne:技術)としていました  

 生存に不可欠なことは奴隷が担い、自由市民は徳を積む・よく生きることを求めました。もっとも、現代的な感覚からすると、人間性を問うなら使役から見直すべきでは、と思ってしまいますね…。

 技術ではないものを知の上位に位置づけたことがポイントです。


 パイデイアの起源はムーシケー(mousike:音楽)とされます。musicの語源です。神々や英雄を称えるものであり、初期は音楽・詩・舞踊と幅広い概念を含んでいたようです。

 パイデイアを方向づけたのが、ソフィスト(sophist:弁論家)の登場です。ソフィストは、弁論術や政治・法律などを教えて報酬を得た者です。

 前5世紀、アテネでは民会(ecclesia)という市民総会制度が設けられ、多数決での議論に勝てる弁論術を欲する人が現れました。そうした需要に応えたのがソフィストです。


 その後のデマゴーグ(Demagog:民衆先導家)によるアテネの衰退やソクラテスの批判から、ソフィストは詭弁家とも訳されるように否定的な評価が強いです。しかし、古典的な詩など文学を解釈するための「文法(grammatike)」、弁論や記述の作法や効果的表現を扱う「修辞学(rhetorike)」、演説などの論理的構成を扱う「弁証学(dialektike)」が築かれました。(ただし、個人個人の活動であり、学問としての統一性はあまりなかったようです。)

 教養のベースは、実用的理由から競い合い、学問の芽が育っていったのです。


 そして、高度な教育機関を設立する者も現れます。

 前392年にはイソクラテス(前436-338)が修辞学校、前387年にはプラトンがアカデメイア(Akademia)を設立します。

 修辞学校は修辞学中心に対し、アカデメイアは算術(arithmos)・幾何学(geometria)・音楽・天文学(astronomia)で構成される数学(mathemata)を基礎とし、弁証学を真の哲学(philosophia)として上位に位置づけました。

 この数学という体系にはピタゴラス(前582-496)などの影響があったようです。

「理系」という括りのもとが生まれたといえるでしょう。


 その後、都市国家ポリスは衰退し、前3世紀からのヘレニズム時代とよばれる時期はプトレマイオス朝エジプトが学問の中心地となります。

 その特徴は、観測の重視と権力による学問奨励です。プトレマイオス1世(前367-282)はムセイオン(museion:博物館)という王立研究所を作りました。公費で研究と教育を行い、天文台などが設置されていました。そして、プトレマイオス2世(前308-246)はビブリオテーケー(bibliotheke:図書館)をつくり文献学(philologia)が発展しました。

 学問が国益に資すると認められたわけですね。今後の歴史においても、国家が何を奨励するかが学問区分にも大きく影響してきます。

 研究機関かつ教育機関、資料・成果の保存を担う所は今日の大学に通ずるところがあります。

 ただし、これらヘレニズム時代の制度が直接的に中世の大学に繋がる訳ではありません。



2.古代ローマ リベラルアーツ、自由七科の確立


 次にヨーロッパの中心となる古代ローマは、前272年にイタリア半島を統一する頃にはルードゥス(ludus:学校・遊び)という初等教育の場がありました。(もっとも、依然として限られた人が通う場でした。)

 前2世紀には中等教育にあたる文法学校、前1世紀には高等教育にあたる修辞学校が登場します。

 帝政期(前27-後476)になると、皇帝が学術を保護し、図書館の建設や修辞学校教師への国庫給与などの政策が取られました。


 肝心の教養はどうなったかですが、共和制後期から帝政期にかけて自由市民の知であるリベラルアーツ(artes liberales)が形づくられていきます。

 古代ローマにおいても大きく自由市民(liber)と奴隷(servus)の身分があり、自由市民に相応しい学問という意味合いはギリシャとそう違わないようです。

 論者により3~9種くらいの学問が提唱されましたが、おおよそ後に自由七科となる文法・修辞学・弁証学・算術・幾何学・音楽・天文学は共通していました。ギリシャで発展した学問が引き継がれている感じですね。

 他に提唱された代表的なものとして、共和制期の学者ヴァロ(Marcus Terentius Varro前116-27)は教養として先ほどの七科の他、医学(medicina)と建築学(architectura)も挙げていました。特に医学を挙げる識者は少なくありませんでしたが、ローマ帝国が傾き替わってキリスト教文化が浸透するにあわせて、実用的な医学や建築は再び職人の世界に退きます。

 高度な知識が要るとわかっていてもあくまで労働である、ということだと思われます。


 リベラルアーツは帝国分裂後、ボエティウス(Boethius 480-524?)が算術・音楽・幾何学・天文学を「四科」(クアドリウィウム:quadrivium)と呼びます。この呼称は中世に継がれ、中世には残る文法・修辞学・弁証学を「三学」(トリウィウム:trivium)と呼ぶようになります。

(「科」と「学」という和訳の差は、今回文献から情報が得られなかったのですが、『論語』の四科(しか)、仏教用語の三学という日本にあった語に合わせたからではないかと思います。なお、「三科」の訳が使われることもあります。)

 文系理系のような括り方は、理系から生まれたのです。



3.キリスト教における自由七科の内包 ~権力と学問~


 帝国の分裂、そして西ローマ帝国の滅亡後、フランク王国などキリスト教を受容する国々の時代となります。

 教区制度が発達し、司祭とその上位の司教という職階が生まれ、司教がいる協会に設立された司教座聖堂学校(cathedral school)が上位の学校となります。聖職者養成が目的です。


 宗教を中心とした社会制度が成立するなか、自由市民の知であった教養はどうなっていったのでしょうか。

 当初、自由を標榜する教養は修道士たちに異端として批難されたようです。しかし、修道院教育の体系化を先駆したカッシオドルス(Cassiocorus 485-585頃)などが、教会にリベラルアーツを取り込んでいきます。

 リベラルアーツを追い払ってしまうと、教会教義とは別の場で学芸が営まれてしまい制御不能に広められる恐れもある。むしろ、取り入れて聖書理解のための基礎としてはっきり構造化する方が得策と考え、聖書を頂点として諸学を基礎に位置づける学問体系を築きました。学問を激しく弾圧するのではなく、見事に傘下に収めたのです。


 その後相次ぐ戦乱で西ヨーロッパは荒廃しますが、フランク王国ではシャルルマーニュ(Charlemagne 742-814)(ドイツ語Karl der Grose:カール大帝)により、後に14世紀のルネサンスになぞらえ「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる文化興隆運動が起こります。

 典礼習慣の統一、そのための標準本の作成、バラバラだった文字表記を統一した「カロリング小文字体」の導入、それによる多くの写本作成などが行われ、教会の社会・教育制度を確立しました。自由七科(septem artes liberales)はシャルルマーニュがイギリスから招いたアルクィヌス(Alcuinus 732-804)などにより学問の基盤として地位を固めます。


自由七科:文法・修辞学・弁証学・算術・音楽・幾何学・天文学


 自由七科の地位固定は、形式化・固定化によって自由度を失うことでもありました。西ヨーロッパで学問は長く停滞します。

 リベラルアーツは上位階級で認められる地位を得たとも言えますが、一方であくまで聖書に通ずる道となり最上位ではなくなったとも言えます。

 こうしてキリスト教共同体たる共通の思考様式が築かれ、その後長く影響することとなります。

 以上の流れを踏まえて、次回は今日まで研究・教育機関の中心である「大学」の登場です。


(第3章へ続く)


【2章の参考文献】

◆納富信留「提題 古代ギリシア・ローマにおける『自由学芸』の教育」『中世思想研究』56、 pp.70-79、2014年

◆山田耕太「ギリシア・ローマ時代のパイデイアと修辞学の教育」『敬和学園大学研究紀要』17、pp.217-231、2008年

◆田村恭一「教養の概念とその論理」『上武大学経営情報学部紀要』32、pp.19-38、2008年

◆小林雅夫「ローマ・ヒューマニズムの成立」『地中海研究所紀要』5、pp.3-10、早稲田大学地中海研究所、2007年

◆森一郎「リベラルということ ―自由学芸の起源へ」『東京女子大学紀要論集』59(1)、pp. 1-22、2008年

◆川島清吉「イソクラテスの『修辞学校』とプラントンの『アカデメイア』」『教育学研究』38(2)、 pp.96-105、1971年

◆河底尚吾「古代ギリシアの私役奴隷:アリストパネェスの奴隷たち」『横浜経営研究』3(1)、pp.15-29、横浜国立大学経営学会、1982年

◆的射場敬一「ギリシアポリスの形成と市民」『国士舘大学政経論叢』2、pp.25-57、2008年

◆笠原正雄「“技術”対“テクノロジー”」『電子情報通信学会 基礎・境界ソサイエティ Fundamentals Review』1(4)、pp.4-16、2008年

◆金澤洋隆・下村智典「テクネーと近代性の諸起源」『政治哲学』26、pp. 69-85、2019年

◆宮村悠介『カント倫理学と理念の問題: 学と智の統一点を求めて』東京大学博士論文(甲第30025号)、2014年

◆大出晁「ヘレニズム・ローマ時代の知の系譜1:正統的知識と非正統的知識(4)」『創価大学人文論集』12、pp.81-111、2000年

◆半田智久「セブンリベラルアーツとはどこから来た何ものか」『お茶の水女子大学人文科学研究』6、pp.149-160、2010年

◆角田幸彦「ローマの博学者ウァロ(その1)」『明治大学教養論集』498、pp.1-39、2014年

◆海津淳「人文主義と教育 ―西ローマ帝国終焉とヨーロッパへの自由学芸継承―」『桜美林論考.人文研究』3、pp.19-30、2012年

◆上智大学中世思想研究所編『中世思想原典集成 精選3 ラテン中世の興隆1』平凡社、2019年

◆明山曜子・高垣里衣・松本智憲・平田良行「流転する《ルネサンス》:その背後にあるものは?」『大阪大学歴史教育研究会 成果報告書シリーズ』12、pp.20-39、2016年

◆田中克佳「アルクインのこと([英]Alcuin [羅]Alcuinus [Albinus] Flaccus)735?-804」『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要:社会学心理学教育学』36、pp.113-122、1993年

◆大阪工業大学HP「リベラルアーツとは」(2020年4月24日現在:https://www.oit.ac.jp/ge/subject/pdf/liberalarts.pdf)

◆勝山吉章編著・江頭智宏・中村勝美・乙須翼著『西洋の教育の歴史を知る 子どもと教師と学校をみつめて』あいり出版、2011年

◆谷田貝公昭・成田国英・林邦雄編『教育基礎論』、一藝社、2001年

◆廣松渉・子安宣邦・三島憲一・宮本久雄・佐々木力・野家啓一・末木文美士編『岩波 哲学・思想事典』岩波書店、1998年

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