第3話 「恋は駆け引き」って、恋してなくてもできるんだね

 神奈川県横須賀市若松町。

 アメリカ軍第七艦隊の基地がすぐ近くにあるため、街のあちこちにアメリカ人の軍人が歩いている。右を見ても、左を見ても、視界にはたいていアメリカ人。ニューヨークのストリートでも歩いているんじゃないかと錯覚するくらい、聞こえてくる会話は英語ばかりだ。本場さながらのバーが林立しているエリアもあるし、ドルで買い物ができる店も多い。

 

 メインストリートの端には、地上と二階を繋ぐエスカレーターが伸びており、そこを上ると京急横須賀中央駅の改札の目の前に出る。

 改札の手前にはやや広めのスペースがあり、この場所を待ち合わせとして使う横須賀市民は多い。腰に手を回してキスしているアメリカ人のカップルや、カレーを持っているカモメのゆるキャラと一緒に、冬葵はスマホでパズルゲームをしながら待っていた。イラストが綺麗だという理由でコウから勧められ、そのままハマっているゲームである。


 五分ほど待って汗がTシャツに滲んできた頃、一人の少女が駆け寄ってきた。涼やかな淡いクリーム色を基調に、足元に青い紫陽花を咲かせたワンピースを着ている彼女を見て、ほんの一瞬だけ、冬葵は暑さを忘れた。


「冬葵くん! 待った?」

「……おう」


 冬葵は、大学での海乃のイメージとはかけ離れたフェミニンで可愛らしい姿に衝撃を受け、ろくな返事ができなかった。


「違うでしょ、そこは『俺も今来たところだよ』でしょ?」


 すらりと伸びた、日に焼けた腕。ノースリーブからは少しだけ真っ白いままの肌が見え、その艶やかさにドキリとする。足元は、紐でアンクル部分をホールドするタイプのアイボリーカラーのサンダルに、紫陽花と同じ色のペディキュアがアクセントを加えていた。「活発スポーツ少女」というイメージを醸し出していたポニーテールは解かれ、手を通せばすっと下にすり抜けてしまいそうなサラサラのロングヘアが波打ちながら真下に伸びている。まさに「頭からつま先まで」、まるで別人のようだ。


「ん? どしたの?」

「……お前、本当に海乃か?」

「そうだよ、何言ってるの?」


 海乃はぷくりと頬を膨らませる。しかし表情は穏やかなままで、むしろ多少得意気にも見えた。どんな仕草も似合ってしまうのは美少女の特権であり、狡いところだ。


「……だって、お前、全然違う雰囲気だし」


 冬葵の言葉を聞いて、海乃はご満悦な表情を咲かせた。 


「んふふふ。『ギャップ萌え』とやらは成功かな? ドキっとした?」

「……別に」

「そうは見えないけどな。んふふ」


 正直に言えば、冬葵はかなり緊張していた。あっさり認めてしまうのは癪だったが、どうやら無意識に目でも泳いでいたようだ。

 あまり長い間彼女の姿を正視していても彼女にからかわれるだけなので、冬葵はさっさとそっぽを向いて親指で地上に降りる階段を指した。


「分かったから、もう行くぞ」

「はーい。デートだデートだ!」


 すこぶるご機嫌そうな海乃は、冬葵の右腕を捕らえて、自分の左腕と絡めた。二人の肩が隙間なくぴったりとくっつき、冬葵の鼻をシャンプーの甘い匂いがくすぐる。

 右腕に押し付けられた、想像よりも固い二つの感触が生々しく、冬葵の理性はぐわんぐわんと揺さぶられた。その大きさについて考えを巡らす自分の経験のなさや愚かしさを必死に抑え込もうとするが、熱中症になった時に似た軽い眩暈を覚え、歩き出そうとした脚が固まってしまった。

 

「ねえ、早く行こう?」


 立ち止まったままの冬葵に、海乃が催促する。彼女の台詞が脳の中でおかしな表記に変換されてしまったが、海乃の細い腕と一緒に自分の醜念を払い除けた。


「……ひっつくな、暑苦しい」

「ええー。あっちゃんと同じこと言われた。……じゃあせめて手を繋ごう?」

 

 不満気に唇を尖らせる海乃に、今度は右手を捕らえられた。そのまま冬葵の指の間に海乃の細い指が絡められる。手の平同士がぴったりとくっつく感触は想像よりもはるかに柔らかく、冬葵の心臓は騒々しさを増した。


「ま……まあ、これなら」


 さっきの要求よりはマシだったこともあって、冬葵はついうっかりOKしてしまった。このような「難しいお願いの後で簡単なお願いを出すと受け入れてもらえる確率が上がる」という心理テクニックを、ふと冬葵は思い出す。海乃がそこまで計算しているかは分からないが、完全にしてやられた気分になった。


「んふふ」


 観念した冬葵を見て、海乃は心底嬉しそうな表情を見せながら、手に入れた力を強める。冬葵は傍迷惑さと照れくささの混ざった複雑な気持ちに襲われた。恋人でもない宙ぶらりんな関係の女性から容赦なくぶつけられる一方的な好意は、不思議と嫌ではなかった。


「……嬉しいなあ」


 ぼそりと海乃が呟いた言葉に、冬葵は改めて「大好き」と伝えられたように錯覚してしまう。何の変哲もないただの男子大学生を、どうしてここまで好いてくれるのだろう。

 ドギマギしながらも、とりあえず冬葵は何も聞こえていない体を装って、横須賀の街の中に歩みを進めた。



     ☆     ☆     ☆



 文字通り海乃に引っ張られて十分ほど歩くと、大きい交差点に着いた。日曜日ということもあってか、車通りが多い。

 途中、あまりにも恥ずかしくなり、何度か海乃の手を離そうと思った。だがギュッと握られているうえ、無理に解こうとすれば至極悲しそうな表情で「ダメ?」と訴えられてしまう。解くに解けず、恥ずかしさを飲み込むしなかった。


「あれだよ!」

 

 海乃が指さしたのは、交差点の向かいにある「レストラン ラウマ」という店だった。サーフボードのような看板に店名が大きく書かれており、四車線ほど離れたここからでも比較的はっきりと視認できる。


 信号が青に変わった瞬間、海乃はぐいと冬葵の右手を引っ張り、広い横断歩道を一気に渡り切ってしまった。店舗の目の前に着くなり、海乃は左腕を嬉しそうにバタバタさせて、店の前に立っているのぼりのうちの一つを指さした。茶色の地に金色の文字で「よこすか海軍カレー」と書かれている、かなり目を引くのぼりだ。


「横須賀に来たら『よこすか海軍カレー』と『ヨコスカネイビーバーガー』は絶対食べなきゃ! ここのお店は両方扱ってるだけじゃなくて、他の横須賀名物も網羅しているから、とってもお得なんだよ!」

「……そういえば、この旗、あちこちで見かけるな」


 海乃のハイテンショントークを軽くいなして、冬葵は横須賀を歩いている中で浮かんできた疑問をぶつける。


「そりゃ、よこすか海軍カレーは、横須賀の大きな観光資源の一つだからね。ここに来るまでにも、駅の近くに一つ、三笠ビル商店街の横に一つ、あったでしょ?」


 三笠ビル商店街は、駅の近くに伸びているアーケード街だ。チェーンの古本屋、八百屋、金物屋、おみやげ店などが軒を連ね、活気に溢れている商店街である。定期的に某有名ソーシャルゲームとのコラボを行っているらしく、思えばキャラクターをあしらったTシャツを着た男性と商店街の近くで何度かすれ違った。海乃によれば、どうやらその近くにもカレー屋があったらしい。


「いや、そこまでは覚えてないけど……」

「もう、ちゃんと見ておきなよ。テストに出るんだからね!」

「はいはい」


 海乃の食への探求心は留まるところを知らない。彼女についての大切な情報を心の中のメモ帳に書き留めながら、冬葵はレストランのドアを引いた。



     ☆     ☆     ☆



「あっ! いらっしゃいませ!」


 店内に入るなり、別の客と話していた男性店員がぐるりとこちらを見て、溢れんばかりの元気を持った声で話しかけてきた。

 ぐるりと見渡すと、アニメのグッズや有名人の色紙などが所狭しと壁に掛けられている。決して広い店舗ではないが、それだけスタッフと客の距離は近いようだ。

 既にラウマにいた人の中に、タブレットに向かってペンで何かを描いているラフな格好をした眼鏡の男性がいる。その向かいにいるスーツ姿の小柄な女性は、男性の様子をじっと見つめている。仕事仲間か何かだろうか。


「お好きな席にどうぞ!」

「ありがとうございます!」


 海乃は返事をして、一番入り口に近い席の壁側に座る。店員の男性はそれを見届けて、店舗の奥の厨房へと戻って行った。

 海乃は椅子をじっと見つめ、お尻の下に敷かれている普通の家庭にありそうなクッションに向かってニコニコとしている。

 冬葵もそれに倣い、彼女の向かいにある椅子に座った。店内のグッズだけでなくテーブルクロスからも手作り感が溢れていて居心地が良く、心から寛いでしまう。腰をひねると、店員の全身が写された巨大なパネルが目に入る。晴れやかな笑顔でこちらを見つめてくるその男は、どうやらこの「レストラン ラウマ」の店長のようだ。


「お腹空いたねえ」

「おう」


 ふと店内の時計を見ると、時刻は既に十三時を回っていた。二人が空腹なのも無理はない。


「……軽く食べてきた方が良かったんじゃないか?」

「ちっちっちっ」


 海乃はわざとらしく舌打ちをして、テーブルに置かれていた手作り感のあるメニューを手渡した。きちんと製本されているわけではなく、紙のメニューをラミネート加工して、そのままリングで留めてあるだけの簡素なものだ。あちこちから感じるアットホームな雰囲気に触れ、冬葵は食事をする前から「お気に入りの店」としてラウマを認識し始めていた。


「実は私、ここに来るのは二回目なんだ。その時頼んだのが、これだよ」


 何気なく冬葵が開いたページを、楽しそうに海乃が指さした。


「元祖YOKOSUKA NAVY BURGER……?」

「そう! あちこちにネイビーバーガーがあるけど、私はラウマのバーガーが一番好き。高さが抑えられていて食べやすいし、何より見た目のインパクトがすごいの」

「でかいのか?」

「うん!」


 わくわくが抑えられないのか、注文する前から高いテンションで海乃は話し続ける。


「チェーンのハンバーガーの軽く三倍、いやそれ以上あるんじゃないかな。私みたいに手がちっちゃいと、フォークとナイフを使わないと食べにくいかも。というか、手で持って食べてる人、私はまだ見たことないな」


 メニューに載っている写真だけでは、大きさが実感として伝わってこない。しかし海乃の言葉を信じるならば「完食できるかどうか」という次元の大きさなのかもしれない。

 

「確かに、このボリュームだと、腹を空かせておくべきかもな」

「でしょ」


 ここまで言い終えると、海乃の怒濤の饒舌が一旦ストップした。落ち着いてメニューを検討できそうなこのタイミングを逃さず、冬葵はページをめくる。


「よし、それじゃ選ぶか。ちょっと待っててくれ」

 

 ところが、海乃がメニューをバタンと閉じてしまった。冬葵の右手は逃げきれずに取り残され、美味しそうなバーガーの写真に挟まれてしまった。


「痛って」

「というわけで。すいませーん!」

「あっ! お決まりでしょうか?」

 

 海乃の声を聞いた店長がメモを片手に厨房から出て来た。

 改めて間近で見ると彼の肌は海乃よりも日焼けしていて、まさしく「海の男」という風貌だった。ぎょろりと見開いた目をしているが、さわやかな笑顔で応対している姿は、見ていて気持ち良い。

 ……だが、そんなことを観察している暇はない。注文を決めるために急いでメニューをもう一度開き、慌てふためきながらバーガーやカレーなどの写真を見比べ始めるが、海乃が再びメニューを強制的に閉じてしまった。


「ネイビーバーガーを二つ、両方ともポテト付きで!」


 すらりと伸ばした手で作ったピースサインを店長に見せて、海乃がさっさと二人分の注文を伝えてしまった。ただの一言も相談せずに。 


「かしこまりました!」

「えっ、ちょっと」

「大丈夫だよ、冬葵くん」


 注文を受けた店長は踵を返し、すたすたと厨房に戻って行った。何が大丈夫なのかさっぱり分からなかったが、わざわざ訂正するために厨房に向かうのは面倒くさい。冬葵は、海乃の独裁的な振る舞いを甘んじて受け入れることにした。

 しばらくすると、肉が焼ける「ジュウウウ」という音が聞こえてきた。食欲が十二分に掻き立てられ、冬葵の腹の虫がぐうと鳴き始めた。勝手に注文されてしまったバーガーだったが、もしかすると今の彼にとってはベストチョイスだったのかもしれない。

 不満と称賛の入り混じったモヤモヤした気持ちを、冬葵は婉曲的に伝える。


「あのさ、海乃」

「なあに?」

「やっぱり、海乃は海乃なんだな」

「……?」


 冬葵の言葉の意味を理解しかねてか、海乃は首を左に傾げる。黙っていれば清楚で大人しい正統派美少女だったろうにと冬葵は痛感した。



     ☆     ☆     ☆



 ポテト付きのヨコスカネイビーバーガーを完食した頃には、既に時刻は十四時半になっていた。まさか一時間以上もずっと咀嚼し続けることになるとは思っていなかったため、冬葵は若干疲れを感じていた。それでも最後まで美味しく味わうことができるのだから、横須賀の名物になるのもうなずける。

 次は「三笠公園」という場所に行くらしい。冬葵は案内されるままに海乃の横を歩いていた。よこすか海岸通りという車道から一つ奥に入った小道を、真新しく綺麗な高校を左手に見ながら進んでいく。


「ふう! 今日も美味しかった!」

「ほんとだな」

「気に入った?」

「おう」


 冬葵が素直に首肯したのを見て、海乃も満足気だった。


「実はね、あのお店のネイビーバーガーはね、あっちゃんが教えてくれたんだ」

「へえ?」


 冬葵から見た哲は、ニヒリストというか、厭世主義者というか、そういう類の無気力な人間である。そんな哲がアメリカンでジャンキーなハンバーガーを好いているというのは意外だった。


「というか、あいつ、どこ住んでるんだっけ?」

「うんと、浦賀って言ってたかな。お店とかが全然ないから、買い物の時には横須賀に来るんだって。それでラウマを発見したみたい」


 浦賀駅は、京急横須賀中央駅からさらに南東に行った時の終着駅である。冬葵にとっては「路線図で一応見たことがある」というレベルの駅であり、どんな場所なのかは全くピンと来なかった。


「それでね、五月の中頃にあっちゃんの家に行った時、外に食べに行こうっていう話になって、ラウマでネイビーバーガーを食べたの」

 

 五月……?

 確か海乃と哲が知り合ったのは、今年の四月のはずだ。わずか一か月しか付き合っていない人を家に上げたというのか。


「……家に来い、って言われたのか?」

「え? ううん。私がゴネたの。『連れてってよー!』って」


 その時を再現するかのように、海乃は両腕を振り回した。言葉だけではなく、一挙手一投足まで彼女はやかましい。


「ああ、簡単に想像できるな。それで、あきらはどう答えたんだ?」

「『別に構わない』って」


 海乃は少しだけ眉間にしわを寄せ、言葉を続けた。


「でも、ちょっと不思議だったんだよね。あっちゃん、そういうタイプには見えないっていうか」

「確かにな」

「それで、訊いてみたんだ。『嫌じゃないの?』って。そうしたら『まあ、家だし』って言われたの」


 その答えを聞いて、冬葵は理由を察した。哲にとっての「家」は、決して特別なスペースではない。きっと「屋外とそう変わらない、温かくも何ともない場所」としか考えていないだろう。その理由を、冬葵はずっと前に本人から聞かされていた。


「ねえ冬葵くん。家とか家族とかって、かなりプライベートな部分なんじゃないの?」

「……まあ、普通はそうかもな」

「……というと?」


 哲が抱えているのは極めてプライベートな問題だ。冬葵の口から安易に第三者に言ってはいけない気がした。


「あきらにもいろいろあるんだよ、きっと。……それで、次はどこ行くんだ?」


 無理矢理、冬葵は話題を変えた。

 海乃は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに二本の眉とテンションをぐいっと上げた。


「無人島です!」

「……は?」



     ☆     ☆     ☆



 海乃に連れて行かれた場所は、確かに無人島だった。

 記念艦三笠のある「三笠公園」のすくそばにある桟橋から出ている、全長十メートルもない白青二色の小さなフェリーに揺られること、約十分。二人の目の前には、海水浴を楽しむ人でごった返している人気の観光スポット「猿島」が広がっていた。

 海乃いわく、猿島の面積は五万五千平方メートルくらい、一周は二キロメートルもないくらいらしい。いまいちピンと来なかったが、フェリーが横浜駅近くを走っている電車並みに混雑しているのを見て、この小島には観光客が入りきらないのではないかという懸念が浮かんだ。


「ね、無人島でしょ」


 動きを止めたフェリーの中を、船尾付近にある出口に向かって歩きながら、海乃は言った。一面ガラス張りの船室からは溢れんばかりの人で賑わう「無人島」が見える。


「定住者がいない島を『無人島』って呼ぶの、俺は納得できない」

「言われてみれば確かに! 人がたくさんいるのに無人島! んふふふ」


 フェリーに乗る時から終始ハイテンションな海乃が、猿島側の桟橋にぴょんと降り立ち、一つ「うーん」と背伸びをした。ノースリーブから伸びる海乃の両腕が、真っ直ぐ燦々と輝く太陽に向かって掲げられる。冬葵の目に映るこの光景は、夏という季節を象徴しているようで、若々しく健やかで、誰もが憧憬を覚えてしまうに違いないものだった。


「よし、行こうか!」

 

 数歩先にいる海乃が、スカートをひるがえして冬葵の方を向き、手を伸ばす。

 海面がゆらりと動き、反射した太陽光がギラギラと騒ぐ。海風が猿島の木々を揺すり、ザワザワという音を冬葵の耳に届ける。


「……」


 冬葵は息を呑んだ。数秒間、時間が止まったような感じがした。目の前の「絵」があまりに綺麗だから、網膜に焼き付けられるよう、脳が気を利かせてくれたのかもしれない。


「……どうかした?」

 

 冬葵にとっては数分後、現実世界では数秒後。

 フリーズした青年の顔を不思議そうに覗き込む海乃の声が、冬葵の脳の歯車を無理矢理動かし、「時間」が進み始める。


「……ああ」

「大丈夫?」

「うん。ごめん、ちょっとな」

「んー、体調が悪いようには見えないね。良かった良かった」


 少しだけ眉を下げたままだが、安堵したような表情で、そして自然な流れで、海乃は冬葵の右手を握った。さっきと同じくらい、彼女の手の平は優しく柔らかい。


「行こっか!」

「おう、行こう」


 猿島の船着き場付近には、横須賀の街中にいた時と違い、太陽を遮る高い建物が一切ない。それどころか、ゆらめく鏡のような海面が日光を反射しているため、下からも日光が襲ってくる。眩しさに冬葵は目を細めた。

 そんな気候の下、誰かと手を繋ぐなんて、ちょっとした自傷行為だ。無駄にお互いの体温を高め合うだけの、意味のない行為。それでも少しだけ「このままでいよう」と思っている冬葵がいた。「海乃の押しの強さに手を離すのを諦めているだけ」と、誰に向けてでもなく滔々と言い訳をする。


「おや、冬葵くん。とうとう私のことを受け入れてくれるのかな?」


 冬葵の心の動きを敏く読み取ったのか、握った左手にきゅっと力を入れ、海乃はからかうように言った。


「……いや、別に」


 冬葵の素っ気ない返事を聞き、海乃は残念そうに唇を尖らす。


「うーん、まだ陥落しないかー」

「そんな簡単には気持ちは変わらないから」

「ちぇ、冬葵くんのケチ」


 冬葵は一度、海乃の好意を突っぱねている。しかもまだ知り合って一週間も経っておらず、彼女のことは何も知らないに等しい。この状態で付き合うのは、海乃に対して失礼だ、受け入れちゃダメなんだ。

 冬葵の理性はこんなことを考えていたが、彼の心は海乃の手を振りほどくことを選ばなかった。



     ☆     ☆     ☆



 猿島に上陸して五分ほど。

 冬葵と海乃は、左右には古びた島の管理施設、頭上には鬱蒼と茂る木々が迫っている坂道を、ずんずん奥へと上っていた。

いくらか直射日光を避けられるので、暑さにめっぽう弱い冬葵としては多少助かっていた。とはいえ、道の勾配はいささか急だ。日頃ほとんど運動をしない冬葵の背中に汗が滲み始める。自分の身体が生み出す熱によって、結局不快指数は上がっていた。


 一旦上り坂が落ち着いたと思ったら、右側に木製の階段が見つかった。横須賀の街並みを猿島側から一望できる、開放感溢れる広場に行くためには、海乃いわくここを上らなければいけないらしい。


「なあ、海乃」

「うん?」


 息を切らせながら冬葵は尋ねた。

 冬葵とは対照的に、海乃はひらりひらりと階段を上っていく。京都の五条大橋で弁慶と戦う義経のようというべきか、海の上を歩く精霊のようというべきか。ともかく、重力の存在が疑わしくなるくらい軽やかな身のこなしで広場に向かって進んでいく彼女を見て、劣等感と疑問が湧いたのだ。


「ずいぶんと体力あるんだな。運動系のサークルにでも入ってるのか?」

「サークル?」


 最後の一段を上り切った海乃は、階段の途中にいる冬葵を見下ろしながら、不思議そうに尋ね返した。木々の間から吹いてくる風が丈の長いワンピースにぶつかり、スカート部分に描かれた紫色の紫陽花たちがはためく。


「おう。割と日焼けしてるし、見たところ体力抜群みたいだし。何もしてないってことはなさそうだと思って」

「……んー」


 質問を受けて、海乃は数秒、考え込んでいる様子だった。冬葵としては軽い気持ちで尋ねたのだが、思いのほかプライベートに踏み込みすぎたのだろうか。冬葵は少し焦った。

 冬葵がやっとのことで階段を踏破した瞬間、海乃ははにかみながら答えた。


「まあ、いろいろあってね、自然と身体が鍛えられたというか、それだけだよ。冬葵くんは? サークル入ってるの?」

 

 誤魔化すかのように、海乃は冬葵に話を振り返した。いまいち釈然としない回答だったが、罪悪感から追及することもできず、冬葵は訊かれるままに答えた。


「創作サークル。人によってやることは違うけど、俺はイラストを描いてる」

「イラスト!」


 海乃は目をひときわキラキラ輝かせた。

 イラストという趣味に対する食いつきの良さに、冬葵は不思議と自分の存在がまるごと認められた気分になった。彼の趣味は他の人から「地味」だの「根暗」だの言われがちなものだったが、海乃は温かく受け入れてくれる。心臓がじんわり温かくなり、さっきまでの罪悪感はいとも簡単に拭い去られた。

 

「もしかして、イラスト好きなのか?」

「うん! 芸術は、うまく言い表せないけど、トクベツだよね。人間だけじゃなく、神様や精霊の心も動かす力があるんじゃないか、って思うよ」

「分かる気がする。日本文学にも、そういうのあったよな。『鬼神にもあはれと思わせる』みたいなやつ」

「あ、それ私知ってるよ。『古今和歌集』だよね」

「そうそう」


 冬葵はスマホを取り出し、海乃に与えられたヒントを頼りに目当ての文を探し出した。


 古代日本の有名な和歌集、古今和歌集。

 かなで書かれた序文に「ちからをもいれずしてあめつちをうごかし、めに見えぬおにかみをもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきものゝふのこゝろをもなぐさむるはうたなり」という一節がある。

 ごく簡単に訳せば「力を入れずに天地を動かし、目に見えない精霊や神をも興じさせ、男女の仲を取り持ち、勇猛な武士の心の気分も晴らすものは、和歌である」となる。


「和歌じゃないけど、イラストとか音楽にもすごい力がある、って俺は思うな」

「んふふ、そうだね」


 海乃は楽しそうに、古今和歌集についての解説を読み上げている冬葵を見つめていた。

 

「私も好きだな、イラスト。冬葵くんはどんなイラストを描くの?」

 

 海乃は冬葵に向けて両手を差し出す。「イラストを渡せ」と言わんばかりの行動に、冬葵は灰色のショルダーバッグを手で押さえた。バッグの中には、自分がイラストを描くのに使っているタブレット端末がある。

 そのちょっとした動作を、海乃は見逃してくれなかった。


「ふうん」


 人の弱みを期せずして握ったりとでも言わんばかりに、海乃はニンマリと笑う。どこかで見たような凄みのある光が海乃の眼球の奥に宿っている気がして、冬葵は思わず後ずさった。すぐ後ろは階段になっていて、逃亡するには少々都合が悪い。


「ど、どうしたんだよ」

「いや、別に。何でもないよ」

「ハンターみたいな目でそんなこと言われても、全然信用できないから」

 

 その言葉を受けてか、海乃は両手をライオンのような形にして、冬葵に一歩近付く。海乃の眼差しからは、いつの間にか狩人のごとき迫力は抜け、代わりに悪童のそれが宿っていた。


「んふふ、大丈夫、大丈夫。今すぐ絵を見せてくれれば、命だけは助けてやるぞ」

「やっぱりハンターじゃねえか!」

「ひひひ。喉元食い千切っちゃうぞー」

「……ほら、もう行くぞ」


 ショルダーバッグを手で押さえながら、冬葵はもといた道へと、木々の中の階段を降り始めた。



    ☆     ☆     ☆



 猿島の観光ルートは多少のアップダウンこそあれ、足元が観光客のために整備されており歩きやすい。左右には「切通し」と呼ばれる壁が五メートル以上も聳え立ち、その表面を苔やシダ植物が覆っている。頭上の木々の密度も相まって、昼間であっても島内は仄暗い。

 

「ねえ冬葵くん、この建物見てみて」

 

 海乃は不揃いな茶色のレンガで建てられた建造物を指さし、冬葵を呼び留めた。

 

「ん? これは何だ?」

「これはね、兵舎の跡だよ。もう少し奥の方にある弾薬庫と見た目は似てるんだけど、ほら、窓とか入り口の上にアーチ状に積まれたレンガがあるでしょ。ここの真ん中にある縦長の石は『要石』っていって、人が住んでいた証拠なの。それで……」

 

 足元にある解説ボードも見ずスラスラと説明した後、含みのある笑顔で冬葵の顔を見つめた。

 

「……何だよ?」

「んふふ、窓の中を覗いてみれば分かるよ」

 

 言われるがままに兵舎の窓を、無機質な鉄格子ごしに覗き込む。しかし冬葵には特に何かを発見することはできなかった。

 

「何も見えないぞ?」

「そっか。それはラッキーだったね。実は『猿島の兵舎の中をじっと見ていると、何かと目が合う』っていう都市伝説があったりなかったりするんだ」

「ひいっ」

 

 冬葵は思い切り後ずさり、そのまま足を滑らせて腰を強かにぶつけてしまった。その様子を見た海乃はいらずらっぽくケラケラと笑っている。女性の笑顔は武器だという言葉があるが、彼女のこの笑顔には、冬葵はただただ腹を立てるばかりだった。

 

 そこからさらに五分ほど歩き、二人はトンネルに辿り着いた。レンガが繋ぎ目麗しく積み上げられ、三メートルほどの高さをなしている。

 

「このトンネルは『愛のトンネル』って呼ばれてて、真ん中から向こうが下り坂になってるでしょ。そのせいで出口が見えなくて、すごく薄暗いんだ」

「どうしてそんな構造になってるんだ?」

「そりゃ、猿島は要塞として開発された島だからね。見通しを悪くすることで敵から自分の姿を隠すっていう、巧妙な工夫なんだよ」

「なるほどな」

 

 実際にトンネルの内部に突入すると、昼間だとは到底思えない暗さに足がすくんだ。灯りが設置されているため、足元が見えないということはない。加えて、先に進むにつれて出口からの光も増して明るくなってくる。だが、海乃が兵舎跡で話していた「何かと目が合う」という都市伝説が、冬葵の脳内にチラついていた。しかも猿島は元要塞である。当然ながら戦死者もいただろう。

 ホラーが苦手な冬葵にとって、このトンネルを黙って歩くという選択肢はなかった。何か話題を見付けなければと、海乃に一つ質問した。

 

「ところで、どうして『愛のトンネル』なんて名前が付いてるんだ?」

「……うーん、調べたんだけど、よく分からなくて。悪いんだけど、冬葵くんのスマホで調べてみてくれる?」

「おう」

 

 ポケットからスマホを取り出し『愛のトンネル 猿島』と入力する。まさに検索ボタンをタップしようとした瞬間、海乃が冬葵の肩に触れながら低い声で言った。

 

「そうそう、トンネルで画面や鏡を見ると『何か』の姿が反射して見えちゃうらしいよ?」

「ちょっ、おい、この野郎!」

「しかも、ほら、壁のところに打ち付けられている板はね、二階にある兵舎とか司令部と繋がってるんだよ。今は見ての通り立ち入り禁止だから、死体を隠すのに絶好の場所だと思わない?」

「海乃、俺マジで怒るぞ」

「あははは!」



     ☆     ☆     ☆



 海乃のからかいは、兵舎や愛のトンネルだけでなく、その先の日蓮洞窟や砲台跡など、あらゆる暗がりで行われた。「反応したら負けだ」と思いながらも、生粋の怖がりである冬葵はついリアクションをしてしまい、そのたび彼女に呵々大笑された。

 

 あちこち往復しながら、猿島をたっぷり一時間半ほど歩いた。軍事要塞の雰囲気が醸し出している独特の魅力を、身体が芯から冷えてしまうような恐怖心と一緒に満喫していたが、運動不足で鈍っていた冬葵の脚は流石に棒のようになっていた。


「次の船は何時発なんだ?」


 冬葵は左腕に付けたスマートウォッチを持ち上げた。画面が自動で点灯し、時刻を知らせる。ちょうど十六時三十分だ。

 まだ七月の半ば。小さな雲がいくつか浮かんでいるだけの広い空には、夕焼けの兆しすら見られない。寄せる波だけが、夕凪に備えて、徐々に引いていた。


「十七時。それが最終便だよ」

「あと三十分……」


 冬葵は足元の桟橋に敷かれている木目を見ながら呟いた。船が出るまでにかなりの時間があるからか、桟橋にはまだほとんど人がいない。多くの観光客は、海水浴場か、もしくは島の林の中にいるらしかった。


「なあ、海乃」

「うん?」

「ちょっとの間、別行動にしないか? ちょっと一人でやりたいことができた」


 若干遠慮がちに提案する。わがままな彼女のことなので「どうして?」や「嫌だよ」といった言葉が返ってくると思っていたが、海乃は意外な反応を示した。


「うん、良いよ」


 海乃は、柔らかい微笑みを冬葵に向けながら答えた。


「えっ、マジで」

「だって、かなり真面目な声だったから。冬葵くんのやりたいこと、私は邪魔しないよ」

「お……おう。ありがと」


 拍子抜けするほどあっさりと快諾され、冬葵は少し戸惑った。声だけで自分の気持ちを見抜いてくるなんて、海乃はかなり鋭い観察眼を持っているのではないだろうか。昼からずっと彼女の隣にいた冬葵だが、相変わらず海乃の人となりはまるで理解できていない。


「その用事、何分くらいかかりそう?」

「うーん、十五分もあれば大丈夫かな」

「分かった。それまで向こうのオーシャンダイニングにいるね」


 海乃は、林の入り口あたりにある木造の屋台を指さした。カウンターのこちら側に屋根があり、水着の男女が何人か集まって日避けをしていた。ここにも「よこすか海軍カレー」ののぼりが立ち、海風に合わせて揺れている。


「ちょっと小腹が減っちゃってね」

「さっきあれだけ食べたのに?」

「そういうことは女の子に言っちゃダメだからね! それじゃまた後でね」


 海乃が変わらぬ足取りの軽さでオーシャンダイニングへと歩いていくのを確認すると、冬葵は桟橋の柵に寄りかかり、タブレット用のタッチペンを握った。数タップしてイラストアプリを起動すると、白いワンピースを揺らしながら歩く海乃の後ろ姿をじっと見つめ、タッチペンを走らせ始めた。



     ☆     ☆     ☆



  無事最終便のフェリーに乗って陸に戻った二人は、基地の検問所らしき場所のすぐ手前にある「ウッドベース」というカレー店に入った。白塗りの外観が目を引くそのレストランは、かなり早い時期から「よこすか海軍カレー」を売っているという由緒ある店らしい。

 細い道路の向かいには「ゴールカ・ハウス」という別の店があり、「よこすか海軍カレー」ののぼりを立てて存在を主張していた。しかし海乃は既にゴールカ・ハウスに行ったことがあるらしい。「開拓してないところにも行っておきたい」という海乃の要望に従い、二人はウッドベースに入店することになった。海乃が熱心に語っていたゴールカ・ハウスの「旨味の塊みたいな絶品スープ」も気になるところだが、それはまた次回案内してもらうことにしよう。


 ウッドベースの店内はまさしく「うなぎの寝床」という構造をしていた。奥にある食卓に行くためには、人がすれ違えないほどの狭いスペースを通り抜けなければいけない。しかし、そのスペースのすぐそばにも、横須賀のグッズらしきものが所狭しと並べられている。昼過ぎに入ったラウマの店内と同じシリーズのグッズだと思ったが、海乃いわく全然違うものらしい。冬葵には「女の子が武器を装備しているか、そうでないか」の違いしか見付けられなかったため、海乃は少し呆れ顔だった。


「よし、食べるぞ!」


 店の一番奥、大きなテレビやスタッフエリアのすぐ近くのテーブルに二人は座った。海乃は張り切った様子で、腕まくりのような動きをした。当然、ノースリーブのワンピースには、まくるための袖は存在しない。彼女の意気込みだけは伝わってくるが、その手は滑稽にも空を切るだけだ。冬葵は彼女のそんな無邪気な姿を、穏やかな気持ちで眺めていた。


「さっき猿島でも食べてなかったか?」

「ああ、オーシャンダイニング? 人が多すぎて、待ってたらフェリーに遅れちゃいそうだから、諦めたの。だからお腹ぺこぺこ」

「それにしたって、昼過ぎにあれだけハンバーガー食べたんだから、そんなには食べられないだろうに」

「いやいや、そんなことないよ! あれは別腹! これ世界の真理!」

「そんな奇怪な世界があってたまるか」


 冬葵がツッコミを入れると、海乃が楽しそうに「んふふ」と笑った。

 

「とにかく、海軍カレーはどこも絶品だから、安心して注文しよう!」

「まあ、海乃がそう言うなら、一応信じるけどさ……」


 正直なところ、昼過ぎに食べたハンバーガーは、もう冬葵の胃袋にも残っていないように思えた。普通のハンバーガーの五倍くらいのボリュームがあったはずだが、実はそこまで大きくなかったのか、あるいは猿島の散歩で全部エネルギーとして使ってしまったのか。狐につままれたような気分だったが、冬葵はとりあえずテーブルの上のメニューを見た。


「すいませーん! よこすか海軍カレー、二つお願いします!」

「はーい! 少々お待ちください!」


 だが、海乃と店員は少しも待ってくれなかった。


「……おい」

「へえー明日も晴れるのかー」


 海乃は、そっぽを向いて、頬杖をつきながらテレビを見ていた。他人の意見など露ほども考慮しようとしない彼女の振る舞いに、冬葵は呆れるしかなかった。



     ☆     ☆     ☆



 五分ほど経った頃、サラダ、紙パックの牛乳、カレー、食器入れが二つずつ運ばれてきた。スプーンを一つ取り出してみると、アシンメトリーで奇妙な形をしていた。先端の丸い部分が、いくらか左に寄っている。怪しんでもう一本のスプーンを見ても、やはり同じ形をしていた。


「このスプーン、変じゃないか?」

「え? そう?」


 ニコニコしながら、フォークでシャキシャキとサラダを頬張っている海乃は、冬葵の疑問に首を傾げた。


「だってこれ、曲がってるっていうか、歪んでないか?」

「んー、ああ、そういうことね」


 海乃はサラダを飲み込み、歪んだスプーンについて説明する。


「冬葵くん、そのスプーンを使って、ルーの中のジャガイモを切ってみて」

「……? お、おう」


 言われるがままに、冬葵は湯気を立てているカレーの中からジャガイモを見付け、スプーンの膨らんだ左側で切ってみた。スプーンは、ジャガイモの抵抗や逃亡を受けることなく、すんなりと縦に真っ二つにした。シンメトリーなスプーンのように、野菜ではなく空を切り、皿に当たって音を立ててしまうことはなさそうだ。


「おお……!」

「ふふん」


 自分の立てた手柄ではないのに、海乃は得意気な表情を見せた。


「分かったかな冬葵くん。それはカレー専用のスプーンなのだよ」

「初めて見た」

 

 これを発明した人は、天才かつよほどのカレー好きに違いない。


「さあさあ。カレースプーンに感動するのもそれくらいにして。早く食べてみなよ。ウッドベースのよこすか海軍カレーも最高だよ!」


 唇の端にルーを付けた海乃に急かされるまま、さっき切ったジャガイモと、ルーとライスを一緒に口に入れる。


「……どう?」

「おおお……! これ、すげえな! これまで食べてきたカレーの中でもトップクラスにトロトロで、ちょうど俺の好みの辛さで、野菜がゴロゴロ入っていて……すごい!」

「……」


 冬葵としては細部にわたる素晴らしいレビューをしたつもりだったが、海乃のウケはすこぶる悪かった。美味しいものを食べているはずなのに、苦虫を噛み潰したような顔をしている。


「冬葵くん……残念だよ。せっかく素敵な声をしているのに、キミは食レポの才能に恵まれない星の下に生まれてきたんだね」

「うるせえ」


 けなされたうえに、いまいち理解できない「美声」という賛辞を送られた。複雑な気持ちになりながら、冬葵は黙って絶品の海軍カレーを食べるしかなかった。



     ☆     ☆     ☆



 ウッドベースでゆったり食事や会話をしていたからか、店を出る頃にはすっかり夕方になっていた。まだ西の空は茜色を残していたが、東の方にはいくつか黄色い星が煌めき始めている。よく晴れていて、雲に邪魔されることなく星々が存在を主張しているのを見て、冬葵は清々しい気持ちになった。

 

「楽しかったね」

「……まあな。一日中振り回されてた気がするけど」


 ホスピタリティというか、もてなしの心を持ってほしかったとは思うが、海乃のわがままに付き合うのも何だかんだ楽しかった。それが冬葵の正直な感想だった。


「さて! 今日の予定はこれで全て終わりました! なので横須賀中央駅まで送るね」


 そう言うと、海乃は冬葵の右腕をホールドし、ぎゅっと抱きしめる。せっかく夕方になって下がってきた気温が、急に上がった気がした。

 その少女は、甘えたような猫撫で声で、冬葵の耳元数センチのところで囁く。


「ちょーっとだけ、寒いね?」


 冬葵と海乃には、頭半分くらいの身長差がある。そのため、腕を組んで至近距離になれば、おのずと海乃は上目遣いになる。


「だから! まだ付き合ってないんだから! そうやって密着するのはダメだろ!」


 咄嗟に海乃の両腕から、冬葵は自分の腕を抜く。だが、海乃は悲しい顔ではなく、むしろニンマリと笑みを浮かべていた。


「冬葵くん、今、何て言った?」

「え? 『だから、ま』……いや、違うから、言い間違いだから」


 海乃に訊かれて初めて、冬葵は自分の犯したミスに気付いた。「まだ」という言葉を使ってしまうということは、すなわち「いつかその未来が現実になる」と思っていることを意味する。迂闊にも程がある自分の発言に、冬葵は自己嫌悪を覚える。


「ふうん。言い間違い、ね……」

「ああそうだよ! もちろんな!」


 ふふんと鼻を鳴らし、勝ち誇ったような表情でこちらを見つめる海乃。冬葵は捨て台詞みたいに言い訳をして、彼女の顔を見ずに黙って駅まで歩き始めた。海乃もその後ろ姿をうきうきしたステップで追いかける。


「案外すぐに陥落して食べられちゃうかもね、キミ……。ふふふ」

「食べ……? だから、そういうのは……!」


 冬葵は「付き合ってから」と反論しようとしたが、墓穴を掘るだけになりそうなので、続く言葉を飲み込んでおくことにした。

 もし恋愛やデートに勝ち負けの概念があるとすれば、誰もが「冬葵のコールド負け」という評価を下すだろう。屈辱と敗北感を彼に植え付けたまま、七月十四日は終幕を迎えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る