後編

          4


 その日は特別に寒かった。昼間ちらついていた雪が、本格的に降り始めたのは夜中を過ぎてから。沙希さきが勤め先を出る時間にはもう道路に雪が積もっていた。

 店を出てすぐに、沙希は仲間のホステスと別れた。ひとり自分のマンションへと帰っていく。日常的な行動。何も変わらず退屈で、ただ生きることだけが目的の生活。

 それに不満を持っていたわけではない。生活に対する不満を持つほどの気概は、すでに沙希の心から抜け落ちていた。

 だから突然、沙希がいつもの通り道から外れたのは気まぐれでしかなかった。わざと遠回りをするように道を選んでゆく。ふと、自分の頭上が明るいのに気づいた。

 雪が降る夜に月明かりがあるわけでもなく、頼りない街灯とは違う光。沙希は思わず見上げた。

「!」

 沙希が見たのは、背中に翼を持った人間だった。光は翼から放たれている。顔はよく見えないが、シルエットの線の細さからまだ子供だと理解できた。

 天使が降りてくる。近づくにつれて、沙希にはその天使が少年であり、少年は降りているのではなくゆっくりとだが墜落しているのだと判った。

 音はなかった。雪を踏む足音さえ聞こえない。ただ静かに天使は沙希の目の前に墜落し――そのまま倒れた。光が薄れ、背中の翼が消える。少年はうつぶせに倒れていた。

 しばらく呆然として立ちつくしていた沙希だったが、我に返ると少年へ駆け寄った。

「ねぇ、ちょっと。大丈夫?」

 問いかけに、少年が反応する様子はない。よく見れば少年の着ている服はあちこちが裂けていた。血は流れていないが見えない部分で怪我をしているのかもしれない。

 沙希は少年を抱え起こした。彼の顔を見て彼女の動きが一瞬止まる。

「…………」

 少年を見つめる瞳に、決意の光が浮かんだ。沙希は担ぐと自分の部屋へと連れ帰った。

「ホント、そっくりよね」

 ベッドに横たわる少年を見つめ、沙希は呟く。少年の顔立ちは、彼女の記憶の中にある別人とそっくりだった。十五年前、自分の代わりに死んでしまった従兄に。

 交通事故だった。車に轢かれそうになった自分を、従兄は突き飛ばしてくれた。そして代わりに従兄が轢かれた……。

 ドラマなどではありふれた話だろう。だが、沙希にとってそれは現実の出来事だった。自分のせいで従兄は死んだと子供心に自らを責め苛み、いつしか沙希の心にはぽっかりと穴があいた。そして、希望も持たずに惰性だけで生きていく大人へと成長してしまった。

 だが今、少年を見つめる沙希の心に何かが芽生えつつあった。

「…………」

 少年が目を覚ました。自分の置かれている状況が掴めないのか、ぼんやりと沙希を見ている。

「大丈夫?」

「!」

 少年の瞳に意志の光が戻った。文字通り跳ね起きて、部屋の隅へと移動した。

「あいつらばどこだ」

 少年が言う。声変わりをしていない高く澄んだ声だが、そこに含まれる調子と表情には大人びたものがあった。

「あいつら? ……知らないけど」

 少年の行動に内心驚きながらも、沙希はつとめて明るい声を出した。表情も印象が柔らかくなるように笑顔を作る。それは仕事でいつもやっていることだ。決して難しいことではない。

「……お前は誰だ?」

 警戒は崩していないが、それでも少年の体から緊張が抜けていくのが判った。

「あたし? あたしは沙希。あなたは?」

「……僕は」そこで少年は言いよどんだ。

「あ、言いたくなければ別にいいの。天使の名前って興味あるけど」

「!」少年の顔に緊張が走る。「知っているのか」

「だって、キミが目の前に降りてきたんだもの」

 そう言って、沙希は部屋につれてくるまでの一部始終を話した。

「…………怖くないのか? 僕のような存在を」

 平然と、時には楽しそうに話す沙希を見て、少年は不思議そうな表情を浮かべる。

「なんで? だって天使でしょ? 怖がるコトなんてないじゃない。

 まぁ普通は、存在そのものを信じないだろうけね。目の前にいるのを無視できるほど、あたしって思いこみ激しくないし」

 そう言って、沙希はくすりと笑った。つられて少年の顔に微かなえみが浮かんだが、すぐに消える。

「……何かお礼をするべき何だろうけど、時間もないんだ。助けてくれてありがとう」

 少年はそのまま窓へと手をかけた。そこから出ていこうというのだろう。ここはマンションの三階だ。普通ならば笑い話でしかないが、この少年は普通ではない。

「! 待って!」

 思いのほか強い調子で引き止められ、少年が驚いた表情を浮かべる。そして何より驚いているのは沙希自身だった。

 少年がいなくなると思った瞬間、沙希は叫んでいたのだ。

「あ、と。えっとね。キミ、どこか行く場所あるの?」

 取り繕うように言う。

「ない……けど」

「じゃあさ、キミここにいなよ?」

「え!?」

「何があったのか知らないけど、逃げてるんでしょ? なら、あたしが匿ってあげる。ここなら見つからないよ。そうよ、それがいい」

「でも、迷惑はかけられない」戸惑ったような少年の声。

「迷惑なんて、とんでもない! 天使と一緒に住めるなんて願ってもないことじゃない。

 それとも、あたしと住むのは嫌なの?」

 始めは勢いだけで話していた沙希だったが、最後の方は憑かれたような調子だった。少年を見つめる瞳はどこか必死で、会ったばかりの少年を失うのを恐れているようだ。事実、沙希はこの少年が去っていくことを恐れていた。

「嫌じゃないけど」

「ならいいでしょ、ね?」

 沙希の瞳が少年の目を捕らえた。瞳に浮かぶ真剣さに気圧されるように頷く。

「決まりね!」

 沙希が笑った。それは天使が思わず息をのむほどの眩しさを感じさせる笑みだった。純粋でひたむきな笑顔。

「改めて自己紹介。あたしは沙希さき。キミは?」

「……名前はないんだ。下級の天使だから」

「なら、あたしが考えてあげる」

 沙希は口元に手を当てて考えるふりをした。本当は名前なら思いついている。死んでしまった従兄と同じ姿をした少年。彼はきっと自分のもとへ戻ってきてくれたのだ。天使になって戻ってきたのだ。

「そうね。キミの名前は昂人たかとよ。よろしくね、昂人」



 すぐそばに誰かの気配を感じ沙希は目を覚ました。シャワーを浴びた後、昂人を待つ間に眠ってしまったらしい。背中にはパーカーがかけられていた。

 夢を見ていた。昂人と自分が最初に会ったときの夢だ。一ヶ月半しか経っていないのに、ずいぶんと昔のことのように思える。昂人に出会ってから、自分の人生は変わってしまった。逃亡生活を送るなど考えつきもしなかった。

 仕事も無断で辞めてしまった。自分をスカウトしたマネージャーには、申し訳ないと思っている。ほかのホステスからも人望のある、面倒見のいい人だった。

 数日は担当やマネージャー、仲間のホステスからLINEに連絡が来ていた。

 最初はスルーしていたが、さすがに良心が痛んだ。我慢できずにマネージャーにだけは「突然ですみません。辞めます」と送ったら、それ以来誰からも連絡は来なくなった。

 恐らくマネージャーもこういった事には慣れているのだろう。意外にも最後の給料はちゃんと振り込まれていた。

 不義理なことをしたと思っている。でも、後悔はしていない。

「ごめん、起こした?」

 沙希は首を横に振った。そして大きく伸びをする。

「昂人を待ってようと思ったのに、寝ちゃった」

 片目をつぶって、舌を軽く出す。照れ隠しをする時の沙希の癖だ。

「いいよ、寝てて」

 優しい昂人の声。だが、その表情に翳りが見えた。それは一瞬のことだったが、沙希は見逃さなかった。

「何かあったの? 昂人、様子が変」

「え!?」

 鋭い指摘に言葉を失う。沙希の真剣な眼差しが昂人に向けられる。この瞳に見つめられると、昂人はは嘘をつけない。

「あいつらが現れた」

 淡々した口調。それだけに、昂人の胸の内に秘めた苦さが伝わってくる。

「大丈夫だったの!?」

「何とか逃げてきた。バッグは取り戻せなかったけど」

「莫迦! いいのよ、バッグなんて。昂人が無事ならそれでいい」

 最初は、沙希にとって昂人とは死んだ従兄の代わりだった。彼女が自らを許す為の免罪符だった。だか今の沙希にとって、昂人は大切な存在へと変わっていた。昂人と出会うまでの自分は、惰性だけで生きていた。だがこの少年に出会って、沙希は自分の意志で生きていこうと思った。昂人といっしょに、ずっと……

 従兄としての昂人ではなく、また天使としての昂人でもない。ただの昂人という人間として、沙希は彼を愛おしいと思う。

「すぐ、逃げましょ」

「でも、沙希はまだ無理はできないよ」

 心配そうな顔をした昂人を、沙希は抱きしめる。

「ありがとう。でも、大丈夫よ」

 そう。大丈夫。昂人はどこへもいかせない。沙希は心の中で呟いた。


          5


 終着駅の一つ手前で昂人と沙希は電車を降りた。終電間際のホームには、ほんど人の姿はない。あれからすぐにビジネスホテルを出た二人は、JRに乗って別の街へと移動していた。できるだけ遠くへ。その思いだけで二人は動いていた。

 ここで降りようと言い出したのは昂人たかとだった。沙希の手を引き、改札口から外へと出る。地方都市の駅の深夜は、人影もまばらで静かだ。

 駅から数百メートル歩いたところで、昂人は立ち止まった。右手にある貨物ヤードを思い詰めた表情でじっと見ていた。

「どうしたの?」

 沙希さきも視線を向ける。だが、フェンス越しに見えるのは、貨物列車と大きな車庫のみだ。

「先にホテルに行ってて。すぐ追いつくから」

 二人は、スマートフォンを使って宿泊施設の情報を得ていた。駅の広域地図で場所も確認済みだ。別行動をとっても迷いはしないだろう。だが——

「なんで? いっしょに行けばいいじゃない」

 沙希は何かを恐れるように言った。浮かべた笑みがぎこちない。昂人が立ち止まった意味に気づき、そして理解することを拒んでいるのだろう。彼女の瞳には不安の色さえ浮かんでいる。

 そんな彼女を見て昂人は一瞬だけ視線を逸らした。

「沙希、行くんだ」

「嫌よ」子供がいやいやをするように首を振る。「絶対に嫌。昂人変だよ」

「行くんだ」

 優しい口調だった。だが、彼女を見つめる目には〝力〟が込められていた。普通の人間には抗うことのできない〝力〟が。昂人の瞳が金色へと変化してゆく。

「行ってくれるよね?」

「…………うん」

 僅かな間をおいて沙希は頷いた。彼女の顔に表情はなく、瞳に意志の光は見あたらない。

「ごめん。本当はこんなことしたくはないんだ」

 沙希が反応する様子はない。それでも昂人は言葉を続ける。

「でも、沙希って強情だから。さぁ、行って。僕も後で必ず行くから」

 背を向けて沙希は歩いてゆく。昂人は姿が見えなくなるまで見送った。

 視線を再びフェンスの先へと向ける。そしておもむろに、昂人はフェンスを飛び越えた。そのまま無人の貨物ヤードに足を踏み入れる。

「ここで終わりにしよう」

 闇に向かって昂人は喋った。

「尾行してたの、気づいてたんだ」

 貨物列車のかげから深千みゆきが現れる。

「ああ。でも、どうしてこんなにに早く見つかったかが判らない」

「これよ」そう言って懐から一枚の羽根を出す。純白の光を帯びた羽根だ。「昼間に会ったとき、落としてったでしょ? これを手がかりにね」

「……共鳴反応か。でも、落としたとは心外だな。そっちが斬ったんだろ」

「偶然だけどね。で、アナタの方はどういう心境の変化?」

「逃げるのはやめた」

「覚悟を決めたわけだ」

「覚悟? ああ、決めたよ。お前を倒して、僕は沙希のもとへ帰る」

 挑戦的な笑みを昂人は浮かべた。光が彼を包み、純白の光に包まれた翼を展開する。

「そう。まぁ、こそこそ逃げ回るよりは上等ね」

 空気の質が変わった。風が止まりが音が消え、原子の一粒までもが動かなくなったような印象を受ける。

「この場所を含む、半径五百メートルを完全封結させていただきました。今度は上空からでも逃げられません」

 若い男の声。深千の後ろに背の高い人影が現れた。地面に落ちた闇の中から、文字通り浮かび上がってくる。男は映画にでも出てきそうな執事の格好をしていた。黒髪の、整った顔立ちをした青年。丸眼鏡の奥の瞳は深紅に輝いている。

「あたしね。ホント言うと、ああいうのに弱いんだ」

「?」

「お互いを思う気持ち。アナタたちの場合なんか破滅的だけど、嫌いじゃない」

 そう言って深千は沙希の去っていった方向を見る。その眼差しは優しかった。

「でも、見逃すわけにはいなかない。あたしはこの世界の人間だから。八城やぎさん!」

 昼間の老人と同じ名前で呼ばれた青年が、左手を差し出した。深千は指を絡ませると一気に引っ張る。八城の左腕が肩から抜けた。

 深千はそのまま左腕で空中を薙ぐ。動作を終えた彼女の手には野太刀が握られていた。黒く長い刀身と長い柄、大きな鍔を持った彼女の身長ほどもある野太刀を。

 昂人が右の手のひらを深千に向ける。二人の距離は十メートル。天使の手に光球が生まれた。

 深千が疾った。野太刀を肩にのせ、前屈みの姿勢でスピードを上げていく。

 光球が放たれた。一直線に深千へと向かう。対する深千は、避ける気配すらみせずに突っ込んでくる。光球が深千を飲み込もうとした瞬間、夜よりもなお暗い闇の軌跡が光球を断った。二つに割れた光球が光の粉となって霧散してゆく。光の残滓をまといながら深千が現れる。スピードが落ちた気配はない。むしろさらにその勢いを増している。数秒で昂人の元へどり着くと、流れるようなひと動作で野太刀を薙いだ。

 昂人はそれを後ろに跳んで避ける。そして着地と同時に今度は上へ向かって地面を蹴った。重力など感じさせない動きで、天使は上空へと浮き上がる。

 立ち止まって見上げる深千の横を、黒い影がすり抜けた。影は、驚異的な跳躍力とスピードで昂人へと向かう。影の正体は八城だった。

 昂人へと迫ると、八城は残った右腕を外へと薙いだ。闇色の軌跡が五つ生まれる。だが腕を振り抜くことは叶わなかった。昂人の手が、八城の手首を掴む。そのまま八城を振り回し、地面に叩きつけた。その後を大きな光球が追った。光が弾け地面が抉れる。

 その場所に、八城の姿はなかった。

「深千様、前よりも手強いですぞ」

 深千の横で声がした。闇が凝縮し人型を作る。それはすぐに八城の姿になった。

「それだけ必死なんでしょ。八城さん、足場のサポート」

「御意」

 八城が右腕を上げた。それに応じるように、貨物列車のコンテナがいくつも浮かび上がる。コンテナは高低差をつけて、昂人を囲むように移動する。そしてそのまま空中に停止した。

「これで私は動けません」八城は右腕を上げた姿勢のまま言った。「お気をつけて」

「感謝!」

 深千が地面を蹴った。手近なコンテナに飛び乗り、それを経由して更に上にあるコンテナに飛び移る。昂人と同じ高さまで登ると、野太刀を正眼に構えた。

 昂人が動いた。コンテナに飛び乗っても届かない、更なる高みへと上がろうとする。大太刀を背後に引きながら深千が跳んだ。二人が空中で対峙する。

 深千が野太刀を薙ぐ。昂人は高度を落としてそれを避ける。再び二人に高低差が生まれた。深千の下に、昂人の姿がある。薙いだ勢いを利用して回転し、右の踵で蹴りを放った。

 昂人は腕を上げて防御する。そしてすぐに足首を掴むと、横に向かって深千を放り投げた。

 深千は空中で器用に回転しコンテナの側面へ着地する。そして重力が彼女を捕らえるより先に、コンテナを蹴って横方向へと飛び出した。矢のような勢いで天使へと向かう。

 昂人が両手で光球を撃ち出した。微妙にタイミングをずらして放たれた光球が深千を襲う。これならば、一つを斬り払ってもすぐに後ろの光球が追撃する。

 ――リィィィィィン

 突如、野太刀が鳴った。それは風鈴のような涼しい音色だった。深千は迫り来る光球に向かって野太刀を突き立てた。その瞬間、光球が消える。先ほどのように斬られて霧散するのとは明らかに違った、それは消滅と言えた。光の残滓も何も残ってはいない。

「!?」

 昂人は慌てて飛び上がった。下を深千が通り過ぎてゆく。彼女はすぐにコンテナの一つに着地した。太刀は鳴りやんでいた。黒いはずの刀身が、昂人の翼と同じ純白の光に包まれている。

「んじゃ、お返し!」

 間合いの外にもかかわらず深千は野太刀を三度ほど薙いだ。薙ぐたびに光の軌跡が生まれる。それは刃となって天使へと向かった。予想外の出来事に昂人の反応が遅れる。

「っ!」

 軌跡の刃は翼を切り裂いた。そのまま墜落する。だが、地面に到達する前になんとか立て直した。着地して頭上を見上げるが深千の姿はすでにない。

 昂人の後ろに気配が生まれた。振り向きざまに左手を向ける。そこには深千の姿があった。腰だめに構えられた刃の色は黒だ。

 野太刀が鳴る。光球が生まれる。深千が突く。昂人が撃つ。そのタイミングは同時――

 刃に触れた途端、光球は忽然とその姿を消した。黒い刃はは光に包まれる。そして、昂人の腕をすり抜けるように彼の胸へと吸い込まれた。水面に突き立てられた棒のように昂人の胸へと消へ、背中へと切っ先を覗かせる。

「がぁ、っは」

 野太刀から発せられる音が、更に大きくなった。昂人は自分の中から何かが抜けて行くのを感じた。そしてその抜けていく何かは刃へと流れ込んでいる。

 切り裂かれた翼から羽根が抜け落ちる。羽根は地面に落ちる前に、光の屑となって霧散する。

 翼が、消えてゆく――。

 ゆっくりと刃が引き抜かれた。黒いはずの刃はまばゆいばかりの光に覆われていた。血は流れなかった。貫いた刃も昂人の体にも血の類は見られない。だが、昂人から流れ出たものは確かに存在した。天使として存在するための決定的なものが……。

「沙……希」

 昂人は両膝をつき、地面へと倒れた。



 名前を呼ばれた気がして、沙希はふと我に返った。

(自分はなぜ一人で歩いているのだろう)それは先に行って欲しいと頼まれたから。(頼まれた? 誰に?)決まってるじゃない。大切な人によ。

(大切な人?)あっきれた。もしかして忘れたの? 昂人よ。

(……昂人。昂人!)

 沙希の瞳に強い意志の光が戻った。慌てて辺りを見回す。だが、昂人の姿はどこにもない。不安が、沙希を襲った。

 そして憑かれたように走り出した。今まで自分が歩いてきた道を。駅へと向かって。

 ほんの数十メートル走っただけで、沙希は苦しくなった。それでも足は止まらない。衝動が彼女を突き動かしていた。

 昂人と別れた場所へ戻ってくる。時間にして十分足らずしか経っていないが、彼女には何年も前のことのように思えた。その場所に沙希の探す姿はなかった。

 焦る気持ちの中で、昂人がフェンスの向こうを見ていたのを思い出す。そちらを見る。

 フェンスの向こうには貨物ヤードがあった。ここまでは沙希も見ている。だが、先程とは明らかに異なる部分があった。貨物のコンテナが、無秩序に地面に並んでいるのだ。

 逡巡し、沙希はフェンスを登り始めた。何度も足を滑らせ、そのまま地面に落ちることも少なくなかった。それでもなんとか沙希はフェンスを乗り越える。

 コンテナの一つに走り着いた沙希は、地面に倒れている人影を見つけた。

「昂人!」

 初めて出会った時と同じように、昂人は俯せに倒れていた。沙希は駆け寄った。座り込み、震える手で昂人を抱き起こす。服の胸の部分が破れていた。血は出ていない。だが、そこから覗く昂人の肌には傷跡に見える皮膚の引きつりがあった。

 自分は何をしていたのだ。あれほど昂人と一緒にいると誓ったのに。

「昂人。ねぇ、目を開けてよ」

 眠っているようだった。まるで、呼べばすぐに起きてくれるかのように……。そうだ。きっと昂人は眠っているだけなのだ。自分が呼べばきっと起きてくれる。

「ねぇ、昂人。起きなよ。疲れたんなら、ホテルで休めばいいから」

 昂人は答えない。

「こんなところで寝てたら風邪引くよ?」そこで何かを思いだしたかのように笑う。「って、昂人てば天使だもんね。風邪なんかひかないか」

 沙希の笑顔が消える。瞳が濡れ始める。

「天使なんでしょ! 死なないんでしょ!」

 沙希は昂人の頭を抱え込んだ。昂人が自分にしてくれたように、彼の額と自分の額を合わせる。涙が雫となって昂人の顔に落ちた。

「!?」

 沙希は慌てて顔を上げる。昂人が身じろぎしたような気がしたのだ。

「昂人?」

「……………………沙……希」

 ゆっくりと、昂人が目をあけた。

「なんで、ここに? 僕はまだこの世界にいるのか?」

「莫迦! 昂人の莫迦!」ぎゅっと、昂人を抱きしめる。「もう、許さないんだからね。絶対に許さないんだから!」

 自分の置かれた状況に最初は戸惑っていた昂人だったが、泣きじゃくる沙希の温もりを感じているうちに、現実だと認識したようだった。

「…………ごめん」

 そっと、沙希の背に自分の手を回す。なんだが妙に体が重い。昂人は今まで感じたことの無かったぎこちなさを、自分の体に感じていた。

「……ねえ沙希」

「うん?」

 沙希は体を離し、昂人と向き合った。昂人の目が逸らされる。

「〝力〟が無くなったみたいだ。もう、僕は天使じゃない。だから、一緒にいても――」

「もうっ、ホントに莫迦なんだから!」

 昂人の言葉を沙希は遮った。

「昂人が天使じゃなくたって関係ない。あたしは昂人さえ一緒にいてくれればいいの」

「…………」

「なによ、信じないの? じゃあ――」

 沙希は昂人顔をむりやり自分の方へと向ける。そして彼の唇に自分の唇を重ねた。

「!!!!」

 突然のことに驚き、昂人は大きく目を見開いた。唇を離した後も呆然としている。そんな彼の様子に、沙希はくすりと笑った。

「これがあたしの気持ちよ。思い知ったか」


          6


「あれでよろしかったのですか?」

「なにが……って、あの二人ね」

 八城の言葉に、深千は答える。二人は貨物列車の間を歩いていた。

「言ったでしょ。ああいうのに弱いんだって。いつもなら問答無用で滅殺してるとこなんだけどね。

 まあ、天使としての〝力〟は失ったわけだし、いいんじゃないの? あれじゃタダの人間と変わらないもの。色々苦労はするだろうけど、それくらいはね」

「深千様がそうおっしゃられるのなら、それで良いのでしょう」

 そう言った八城を、深千はじっと見ていた。今は両腕とも揃っている。高い背。すらりとしたモデル並みの体躯。整った顔立ち。深千はなぜかため息をついた。

「……なにか?」

 丸眼鏡の奥の深紅の瞳が見返してくる。

「なんで八城さんって、昼間もその姿じゃないのかなぁって、ちょっと思っただけ」

「それは無理でございます。もともと私は夜の住人でございますから。昼間はあの姿で少しでも消耗を押さえませんと、深千様の大事な刀をお預かりすることすらままならなくなります」

 八城は自分の左腕を押さえる。

「……気にしないで。言ってみただけだから」

「左様で」八城の口調はあくまで真面目だ。「ところでこれからすぐにお帰りになられますか? 報告もまだでございましょう?」

「冗談。今日はもう休むの。ついでにもう二、三日ね。報告も後回し」

「判りました。では、ホテルを手配してきます」

 そう言って、八城は地面に落ちた影へと沈んだ。

「手配って……なんだかなぁ。ふぁぁ」

 思わずあくびが出た。手を組んで伸びをする。その拍子に懐から何かが落ちた。思わず足を止める。

「そう言えば、これが残ってたっけ」

 深千が拾ったのは、純白の光に包まれた羽根だった。羽根の根の部分を持ちくるくると回す。水飛沫のように光の粉が散った。

「天使のかけら……なんてね」

 深千は羽根を懐にしまうと、再び歩き始めた。



        了


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A piece of Angel 宮杜 有天 @kutou10

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