A piece of Angel

宮杜 有天

前編

          1


 静かな夜だった。静かで寂しい夜。月は細く、その明かりは心細く、街灯すらも頼りない。春先とは言え夜はまだ寒かった。それが余計に寂しさをもたらす。

 雑居ビルが並ぶこの路地は、夜半近くになると誰も通らなくなる。繁華街から通り二つしか離れていないのに人の姿はない。いるのは夜行性の野良猫ぐらいだ。

 そこへ、二人の人間が踏み込んできた。

 一人はまだ十三歳ぐらいの少年だった。ほっそりとした体つきに人形のように整った顔。幼さを残しながらもその瞳と浮かべる表情には、どこか大人びた雰囲気があった。

 もう一人は女だった。歳は二十代半ば。くたびれたパーカーにジーンズ。化粧もほとんどなく疲れた表情を浮かべているが、それでもどこか色気があった。見る人間が見れば、それは夜の世界に生きる女の持つ独特の色気だと気づくだろう。

 女の方は大きめのバックを持っていた。

「疲れた?」

 少年が言う。まだ声変わりをしていないのか、その声は高く澄んでいる。

「大丈夫。もう少し歩けるから」

 少年が女の手を引いていた。その手は女を支えるかのように強く握られている。

「できるだけ遠くへ行こう。あいつらの来ない場所へ」

「うん」

 答えた女の声は、少年よりもより幼く聞こえる。親子といった雰囲気ではなかった。姉弟に近いか。だが、二人には似たところが全くない。

 どさり、と音がした。女が持っていたバッグを落としたのだ。二人の足が止まる。

 女はバッグを拾おうとして――そのまま路上に倒れた。

沙希さき!」

 少年は女――沙希につられるようにしてその傍らに座り込んだ。肩を抱えて上半身を起こす。沙希の息づかいが荒い。その顔もやつれているようだ。

昂人たかと……ごめんね」

 少年――昂人は頭を横に振った。そっと彼女の額に手を当てる。熱かった。

「昂人の手、冷たくて気持ちいい」

 そう言って沙希は目を閉じる。前の場所から逃げ出して一ヶ月が過ぎる。北から出発して南へ。宛もなくただ逃げるだけの日々。その間まともに休むことすらしなかった。

「どこかで休もう」

 喋ることさえ苦しいのか、沙希は弱々しく、だがそれでも首を横に振った。「自分は大丈夫」そう伝えたいのだろうが、今の彼女の状態では説得力のかけらもない。

 限界かもしれない。昂人は沙希を抱きかかえながら、そう思った。このままでは、彼女の命まで関わる。今まで見つかるのを恐れて〝力〟を使うのを避けてきたが、そうも言っていられないだろう。

 昂人は沙希を抱きしめた。彼女の額に自分の額を押し当てて目を閉じる。光が路地に満ちた。それは昂人の背中から溢れた光だった。光は収束し、やがて一つの形を作る。大きな一対の翼を。白い純白の光をたたえた翼は二人を包むように広がった。

 苦しそうな沙希の表情が軟らかくなる。これでしばらくは大丈夫だろう。昂人はホッとした表情を浮かべる。彼女を見つめる瞳は、金色へと変化していた。

 突如、怒鳴るような大声が聞こえた。昂人が声の方を見る。酔っぱらいが歌を歌いながら歩いているのが見えた。この路地に入ってきたばかりらしく、こちらにはまだ気づいていないようだ。

 一瞬の輝きと共に昂人と沙希の姿が消えた。酔っぱらいは突然の光に驚いたようだが、何もないのを見ると気を取り直して歌い始めた。

 誰もいなくなった路地にはバッグが一つ残っていた。


          2


 太陽が中天近くに座していた。夏ほど高くなく、冬ほど低い位置を通るわけでもない。

 よく晴れた空に主のごとく浮かぶ太陽からの陽光はひどく暖かかった。今日は夜と昼との気温差が激しいだろう。

 そんな陽光の恩恵を、この街で最も享受できる場所に少女は立っていた。高層ビルの屋上だ。ここからなら街が一望の下に見渡せる。

 少女は強く吹き付ける風をものともせずに、ビルの端に立っている。スパッツにTシャツ。その上から羽織ったジャケットは酷くはためいている。ショートの髪も乱れて整った顔立ちを隠そうとしているが、それを気にした様子もない。

 少女は手に持った大きめの懐中時計と街を、しきりに見比べていた。

深千みゆき様、見つかりましたか?」

 深千と呼ばれた少女の背後から、年老いた男の声が聞こえる。

八城やぎさん、『様』をつけて呼ぶのはやめてって、いつも言ってるでしょ」

「そうは申されましても、私は深千様に仕えておりますから」

 深千は振り向いた。背後には、映画にでも出てきそうな執事の格好をした人物が立っていた。背の高い老人だった。髪にずいぶんと白いものが混じっているが、立ち姿は若々しさを失っていない。丸眼鏡の奥の、薄茶色の瞳が優しげに少女を見ている。その瞳は光の加減で時おり赤く見えた。

 その異様な風体の人物の登場に、深千は驚くこともなく話しかけた。

「だぁかぁらぁ、その仕えてるってのはやめてよ。こっちはそんな気ないんだから」

「そのようなことをおっしゃられては、八城は悲しゅうございます」

 真面目な口調で八城は言う。あくまで自分のペースを崩そうとしない。深千の口から思わずため息が漏れた。

「……一応ね、形跡だけは見つかったけど」

 深千は懐中時計に目を落とした。上蓋を開いた懐中時計には小さな光点が一つ浮かんでいた。青い柔らかな光点だ。懐中時計を向ける方向によって、光の強さが変わる。

「それはよろしゅうございました。これからどういたします?」

「まずはあの辺へ行ってみる」

 懐中時計の光が最も強くなった方向を、深千は指さした。指の先はこの地方都市の繁華街から、やや外れた部分を指している。

「承知しました。ではこちらへ」

 その言葉に従って深千が八城の元へとやってくる。八城は深千を抱えると、陽光に浮き彫りにされた自らの影の中へと消えていった。



 最初に沙希が見たのは天井だった。白っぽい無機質な天井。顔を横にする。次に見たのは小さなテーブルだった。ここでようやく、自分はベッドに寝ているのだと気づいた。

 起きあがって辺りを見る。簡素な部屋だった。必要最低限の家具とベッド。どこかのビジネスホテルだろう。閉められたカーテン越しに光が漏れているのが判る。

 沙希の視線は更にさまよった。いつも自分のそばにいてくれるはずの人物を求めているのだ。部屋の中にはいない。どこかに出かけているのか、それとも……。

 突如、不安が沙希を襲った。何もかもが手遅れになったときのような後悔と焦り。そして胸に重くのし掛かってくる圧迫感。それらが入り交じった大きな不安。シーツをはね除けて彼女はベッドから飛び起きた。床に立った瞬間、目眩がした。その場に崩れそうなるのをなんとか耐える。

 そんな沙希の様子を見ていたかのように、昂人が現れた。

「沙希! 大丈夫!?」

 扉を開けると同時に沙希の元へと駆け寄る。手に持った買い物袋は床に落とした。

 昂人の手が、沙希を支える。

「大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけだから」

 その言葉を無視するように、昂人は彼女をベッドへと座らせた。沙希も逆らわない。

「もう少し休んで。まだ完全に回復してないんだから」

「……ごめんね」

 弱々しい沙希の声。俯いてしまった彼女の肩を、昂人は優しくつかんだ。

「沙希が謝る必要なんかない。何も気にせずに休んで。食べ物も買ってきたんだ」

 昂人は袋からコンビニで売っているおにぎりを取り出した。ペットボトルのお茶と一緒に沙希へ手渡す。黙って沙希は受け取った。

「鮭が好きだったでしょ?」

 昂人の心遣いに沙希は笑顔を返した。それは弱々しい笑みだったが、先ほど彼女を苛んだ不安はなりを潜めていた。簡素な食事を二人は話もせずに続けた。少しは調子が戻ったのか沙希の顔色もいい。

 食事を終えた沙希が立ち上がった。昂人は何事かと見上げる。

「シャワー浴びたいの。そう言えばバックは?」

 部屋を見回したが着替えが入ったバックが見つからない。

「! …………あの場所に忘れてきた。取ってくるよ」

 慌てて立ち上がった昂人の腕を、沙希はつかんだ。

「いいのよ。あの中に入ってたのは着替えだけなんだし。お金はまだあるんだし、服はまた買えばいいわ」

 優しい調子で沙希は言う。財布やカード類、通帳といった貴重品は、別にまとめて肌身離さず持っている。蓄えも、まだ銀行の口座に残っている。

「もっと大事なものは、ここにあるんだし」

 自分の首にかかったペンダントを取り出す。複雑なカットを施された青く透き通った飾りの付いたペンダント。ガラス製の安物だが飾りは大き目で、光の当て具合によっては宝石よりも強い反射を見せる。沙希にとっては何よりの宝物だった。昂人からの贈り物。同じものが昂人の首にもかかっている。

「でも……」

「いいの」そのまま自分の胸に抱き寄せる。「昂人がそばにいてくれるんなら、それだけで十分だから」

「……沙希」

 沙希の胸に頭を預けたまま、昂人は呟いた。彼女の体温が伝わってくる。

「ね。昂人も一緒にシャワー浴びよっか?」

 驚いて昂人は顔を上げる。悪戯っぽい光をたたえた沙希の眼差しが、少年の瞳を捕らえた。

 昂人は顔を真っ赤ににして首を振った。

「やっぱり、探してくる! 沙希は休んでて!」

 それだけ言うと、昂人は急いで部屋を出た。沙希はくすりと笑う。

「……大丈夫。きっと大丈夫だから」

 自分に言い聞かせるように、沙希は呟いた。


          3


「これはまたなんて言うか微妙よねぇ。場所は間違いないんだろうけど……」

 道端のバッグを見ながら、深千みゆきは独りごちた。左手に持った懐中時計の上に浮かんだ小さな光点は、高層ビルの時よりも強く輝いている。

「関係があるんなら使えるけど、それはそれで罠って気がするし」

 繁華街から通り二つほど離れた雑居ビルの建ち並ぶ路地。多いとは言えないが人通りもある。にもかかわらず、バックだけがぽつねんと道端に落ちていた。

 深千はそれを見て悩んでいた。自分が追っている相手のものならば、これを取り戻しにくる可能性はある。ここで見張るのも一つの手だろう。だが、これが相手の囮や罠だったなら全くの無駄骨となる。関係がない場合も然り、だ。

 しばらく悩んだ末にバッグに近づこうとして――深千はその動作を止めた。懐中時計の光の色が変わったのに気づいたのだ。青から赤に。それは、深千の探しているものが近くに存在するという印だった。

 路地を見回す。今のところ人の姿はない。深千は雑居ビルの隙間に身を隠した。

 しばらくしてバックのところにやって来たのは十三歳ぐらいの少年だった。深千のいる位置からでは顔が見えない。代わりに懐中時計を見る。光点の輝は一段と強くなっていた。

「これはこれでラッキーかな。世界を見捨てた神様に、ちょっとだけ感謝」

 深千は懐中時計を懐にしまい込む。そしてゆっくりとした動作で、路地へと出ていった。

「!」

 バッグを持ち上げる途中で少年――昂人たかとは、気配に気づき振り向いた。

「お久しぶり、少年。前に会ったときより、ちょっと暖かくなったね」

 親しい知人にでも会ったような口調で深千は言う。だが昂人の彼女を見る目には棘が含まれている。自分より三歳は年下に見える少年に向かって、深千は肩をすくめた。

「もしかして、天使様って言った方がよかった?」

「黙れ! 僕はどこにも行かない」

「…………別にね、どこにも行かないのはアナタの自由。でも、この世界に干渉したいのなら、決まりを守らないとダメ。約束事を無視した干渉はたとえ神様でも許されない。

 『全ては人の子に委ねた。神とて無闇な干渉は封じる』――〈世界法則プロヴィデンス〉は、アナタだって知ってるでしょ?」

「僕は干渉なんかしていない」

「じゃあ、アナタと逃げてる女の人は何? ここで〝力〟を使ったのは何のため?

 一緒にいるだけで、人間ひとりの人生をアナタは変えてしまった」

 声を荒げたわけでもなく、強い調子で言ったわけでもない。だが、深千の言葉は昂人の視線を跳ね返すのに十分な強さを持っていた。

「……それは」

「アナタという存在は人間には大きすぎるの。何の枷もなくこの世界にいてはいけない。だからあたしはこの世界からアナタを追い返す」

「たかが人間に、そんな権利はない」

 蔑みを含んだ言いまわしだが、昂人の声にも顔にもそんな様子はない。深千にはただの強がりに見えた。

「人間だからあるの。どんなにごたくを並べても、神様がこの世界を見捨てたことには変わりない。

 なら、人間だけでやっていくしかないでしょ。あたしみたいに〈世界法則プロヴィデンス〉に関わってしまった人間がね」

「僕は消えるわけにはいかない」

 言葉と同時に、昂人は軽い調子でバッグを投げた。まるで知り合いに荷物を預けるような仕草だった。不意をつかれた深千は思わずバッグを受け取ってしまう。

 その瞬間、反対方向へ昂人は駆けだしていた。深千も慌てて追いかけるが、少年の足は意外に速かった。二人の距離が開いていく。

八城やぎさん!」

 深千が叫んだ。昂人の前方にあった路面の影から背の高い老人が現れた。まるで、水面から浮かび上がるかのように。同時に空気の質が変わった。風が止まりが音が消え、原子の一粒までもが動かなくなったような印象を受ける。

「!」昂人は立ち止まった。

「この通りを含めた半径百メートルの空間を封結させていただきました」

 八城は老人とは思えない動きの早さで、少年へ向かって走る。

 昂人は素早く前後を見回した。迫ってくる二人の距離は同じぐらい。路地は決して狭くはないが、向かってくる相手を完全にかわせるだけの広さはない。逡巡して、昂人は上へと跳んだ。常人の限界を超えた高さの跳躍だった。四階建ての雑居ビルの屋上に達している。その体が重力に従おうとした瞬間、陽光よりも明るい一瞬の光が辺りを照らした。

 純白の光を帯びた大きな翼が昂人の背中に現れた。物理法則に逆らって空中に立ち止まったまま、眼下の深千に手のひらを向ける。小さな光が生まれた。

 深千も跳んだ。但し、こちらは雑居ビルの壁に向かってだった。彼女がいた位置の路面を光球が抉った。深千は迫ってきた壁を蹴り反対方向の壁と跳ぶ。昂人に負けない、常人離れした運動能力だった。それを数度繰り返し、あっという間に昂人より高い位置に到達した。

「深千様!」

 八城の声と同時に黒いものが飛来した。それは昂人を掠め、深千の手の中へ納まった。彼女のつかんだものは、自身の背丈を超えるほどの野太刀だった。黒く長い柄と大きな鍔。その先にはやはり長く黒い刀身があった。

「八城さん、感謝!」

 深千は空中で、野太刀をあっさりと振り上げた。昂人は野太刀の飛来の際にバランスを崩している。彼女は落下の勢いに任せて昂人へと向かった。

 昂人が上半身だけ振り向いた。その勢いにTシャツからペンダントが飛び出る。しかしそれ以上の行動は起こせなかった。黒い刃が昂人へと迫る――その瞬間、昂人の胸の辺りで光が生まれた。ペンダントのガラスが、思いのほか強く陽光を反射したのだ。

 それは深千の目を眩ませるほどではなかったが、注意を逸らすには十分だった。彼女が何かの仕掛けかと勘違いしてしまう程度には。

 刃の狙いが逸れた。

「な!?」

 振り下ろした刃に掠ったような手応えだけを残して、深千は昂人の横をすり抜けてしまった。二人とも意外な成り行きに一瞬思考が止まる。

 先に自分を取り戻したのは昂人だった。右手のを落下していく深千の背中へと向ける。

「やばっ」

 深千が器用に空中で振り向いたときには、すでに昂人の準備は整っていた。先ほどよりも大きな光球が、手のひらに生まれている。慌てて野太刀を前面に立てた。刹那、光球が衝撃を伴って深千を襲った。野太刀が鈍く輝き、昂人の放った光球から彼女を守る。だが付随した衝撃そのものを消すことはできなかった。

 加速された深千へ地面が迫る。このままでは三倍の高さから地面へ衝突した時に近い衝撃が深千を襲うだろう。叩きつけられれば無事に済むわけがない。体勢を立て直そうも遅すぎる。深千は覚悟を決めた。

 と、唐突に深千の背後に気配が生まれた。白手袋をした片手が背後から回ってくる。八城だ。

 八城は深千を抱えたまま、空中で姿勢を変えた。そして足から路面へと着地する。八城の足がアスファルトにめり込み、足を中心に亀裂を作りした。

「八城さん、ありがと」

「ご無事でなによりです」八城は何事も無かったかのように答える。「しかし、また取り逃がしてしまいましたな」

 そう言って見上げた空には、昂人の姿はなかった。深千を路面へとおろす。

「申し訳ありません。なにぶん急でしたもので、上空を完全に封結できませんでした。私の不覚でございます」

 八城は深々と頭を下げた。奇妙なことに老人の左腕がない。だが、八城も深千もそのことについてなんの関心も示さなかった。

「八城さんのせいじゃないよ。仕留め損なったのはあたしだし。それに、いきなり出くわすなんて思ってなかったもの」

 深千はぽつりと残ったバッグに近づく。

「もう、これも取りに来ないだろうしな。どうしよっか……」

 そう呟いた深千の目の前を、光るものが舞い落ちた。

「このままでは、完全に逃げられてしまいますな」

 振り返った深千の顔に微かな笑みが浮かぶ。彼女の手には、光を帯びた一枚の羽根が乗っていた。

「案外大丈夫だったりしてね。まだ、運ってあるみたい」



 ホテルに戻った昂人が見たのは、机に凭れて眠っている沙希さきの姿だった。Tシャツとジーンズ姿の沙希の背中に、脱ぎ捨てられたパーカをかけてやる。微かな石鹸の臭いが、昂人の鼻をくすぐった。

 昨晩より調子が良くなったとはいえ、やはり疲れているのだ。もう一度、天使としての〝力〟を使って癒してやりたいがそうもいかない。〝力〟を使えば、今度こそ完全に居場所をつかまれてしまうだろう。

 ――一緒にいるだけで、人間ひとりの人生をアナタは変えてしまった。

 あの少女の言葉が蘇る。本当に謝るべきは沙希ではなく、彼女の人生を強引に変えてしまった自分なのだ。自分さえ沙希の元に現れなければ、彼女はこんな生活とも無縁だっただろう。そして自分のような存在がいることすら気づかずに一生を過ごしただろう。

 なぜ、自分はこの世界に来てしまったのだろう。神が見捨てた世界だと追跡者である少女は言った。それは正しいと自分でも思う。

 昂人はここ千年近く、自分が使える神の存在を感じていない。だからこそ興味があった。

 全能たる神が作って、そして見捨てた世界。その世界に降りてみたかったのだ。

 〈世界法則プロヴィデンス〉の存在も知っていた。天と魔がこの世界に干渉するための決まり事。神と悪魔の間に結ばれた協定。すべからくこの世界の外にいる存在は〈世界法則プロヴィデンス〉にのっとった方法でのみ、この場所に存在することを許される。それは神であっても悪魔であっても同じだ。

 その〈世界法則プロヴィデンス〉によれば、呼びかけもないのに降りることは許されない。ましてや、昂人のように誰もが認識できる形で存在するのはもってのほかだった。

 自分が天使として間違ったことをしているのは十分承知していた。〈世界法則プロヴィデンス〉の守護者の手によって、この世界から弾かれるのも仕方ないと思う。実際、最初にあの追跡者に会った時はあと少しでこの世界から追い出されるところだったし、自分も半ば諦めていたのだから。

 だが、今の自分には沙希がいる。いっしょにいたいと思える存在が。

 昂人は沙希と出会った時のことを今でも覚えている。そしてその時に見た彼女の笑顔を。決して忘れることのできない瞳を――


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