青信号と蛙の声 3
「ドキドキ」
サユミの冷めた目に気づき、男は焦って早口になる。
「緊張してるんですよ。声に出さないと、わかりませんから、感情なんて。ただでさえ見えないのに。身体がないって不便だなあ。それにしても深夜の街はホラーですね」
「何に緊張することがあるの、あなたと同じ仲間に会いに行くんでしょ。あなたがホラーそのものだって、自覚してる?」
「いやあ、仲間だなんて。人間同士だって上手く話せないのに、相手がお化けとなったら、どうしていいものか」
小刻みに震えているようにも聞こえる声だった。
「本当に緊張してるのね」大丈夫よ、とサユミは何かを考え込んでいるような、静かな落ち着いた声で言うと、急に立ち止まって腕を組んだ。
「どうしたんですか?」
「どうしたんですかって」
男はまた焦った口調で言う。
「えっと、何ですか? 何かあったんですか? いきなり立ち止まって」
はあ、と大きくため息を吐いて、サユミは低めの声でゆっくり言った。
「信号」
え? 男は何が何だかわからずにいるようだった。
「信号、赤でしょ」
少しの間を置いてから、男は声を大きくした。
「あ、ああ! 信号ですね! 赤は止まれ、だ! そんなことを気にしなきゃいけないなんて、人間って不便だなあ」気にせず渡っちゃえばいいんですよ、そんなの。男は、まるで万引き常習犯のような、バレなければ何をしてもいいとでもいうような、癖になったらやめられないのだからというような開き直ったような口ぶりだった。
確かにサユミは、いつも疑問に思っていた。人通りの少ない細まった道に立つ信号機は、一人寂しく光っては消え、光っては消える。誰も見ていないのに、車なんて通らないのに、何のためにあるのかわからない信号機は、考えるほどに馬鹿らしい、必要のないもののように思えた。
「でも守るの、それが人間。私が守る限り、この信号機には意味があるの」
「なるほどなあ。でもそれじゃあ」男は言いかけたが、何もなかったかのように話を変えた。「思うんですけど、信号って、三つ要ります?」
「はあ?」
「赤だけでいいと思いません? あ、でも車は急に止まれないから……黄色は必要ですね」僕、死んじゃったんですよと男はわざとらしく付け足した。
「青も要るに決まってるでしょ」青こそ必要でしょ。サユミは呆れて、いよいよこの男は異常かもしれないと考え始めた。
「そんなことないですよ。青か赤、どちらか一つでいいんです。だって青が無くなっても、赤が光っていない間は青と同じ意味になるんですよ」
「あ」
「ね? だから青信号なんて、要らないんですよ」
「そうじゃなくて」
「え?」
「そうじゃなくて、カエル」
「帰るんですか?」
「何のためにここまで来たのよ。カエルだってば。ほらそこ」
サユミが道路脇の浅い水溜まりに指を差すと同時に、信号が青に変わった。その瞬間、まるで一緒に信号待ちをしていたかのように、水溜まりの蛙は、横断歩道に向かって飛び跳ねた。
「青いですねえ」男がぼそっと気の抜けた声で言った。
「どうしたの? 帰りたかった? もう覚悟を決めなさい」
「青は進め、ですね。ちょっとブルーです」
「つまらない」
男が落ち込んでいる姿は、見えなくとも容易に想像出来た。
青信号に照らされ、きっといつもより青いであろう蛙は、帰ると言いながら、進めと言ってくる、とてもわがままな存在に思えた。
帰りたくなることもある。見ている方向が違えば、それは進んでいるのと同じことかもしれない。サユミは少しだけ前向きになれた気がして、つぶやいた。
「私も。ブルーかも」
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