五十四夜 虎児と佳乃 其ノ六

 先に仕掛けたのは俊次郎しゅんじろうだった。霞むように消え、離れた場所に現れる。それは常人には追い切れない速度での移動だ。俊次郎は二度ほど繰り返し、紅葉くれはの眼前へと迫る。


 紅葉は斧槍を突き出し牽制する。俊次郎が位置を替え、突き出された斧槍の側面へと回ろうとした。紅葉はそれを見越したように横に薙いだ。

 俊次郎が籠手ガントレットで受ける。鋭い金属音と共に、与えられた衝撃で弾かれるように紅葉から離れた。


「前に戦った時もそうだったけど、手応えのなさが気に入らないわ」


 紅葉は俊次郎を睨んだまま、佳乃から少しでも離れようと動く。薙ぎ払いを受け止められたはずなのに、紅葉の手に返って来た衝撃は予想以上に軽いものだった。俊次郎が自ら跳んだのかとも思ったが、まるで重量の軽いマネキンを打った時のような感触だった。


「必要なら打ち合いますが……私の能力で戦うには色々と問題がありましてね。これで結構、神経使うんですよ」

「確かに問題やな。紅葉ばっかり気にして、注意がおろそかになっとるやないか」


 俊次郎の背後で声がした。


「!?」


 虎児とらじが後ろから俊次郎を抱え込む。そのまま地面に投げ飛ばそうと力を込めて持ち上げた。だが、予想以上の軽さで俊次郎の体が持ち上がったため、勢いがつき過ぎて虎児がバランスを崩した。

 その隙を見逃さず、俊次郎は器用に体を捻って虎児の腕から逃れる。


「えろう軽いな」


 少しふらつきながら虎児が言う。


「驚きました。もうそこまで回復したのですか……。今度は少し手荒にいきますね」


 言い終わると同時に、俊次郎の姿が霞む。虎児が反応する間もなく、背後に俊次郎の姿が現れた。

 俊次郎は左腕を振り上げる。そして籠手ガントレットに覆われた前腕部分を、虎児の延髄に打ち込んだ。

 最初に殴られた時とは比べものにならない衝撃が、虎児を襲った。一瞬で意識を狩られ、虎児が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。


「虎児!」佳乃が叫んだ。

「大丈夫、加減はしています。これでも私は〝人〟を手にはかけたりはしません」佳乃を見て、俊次郎が言う。「それに気を失っていた方が安全です。〝月に捕らわれし者ルナティック〟との戦いに割り込まれると、万が一もありますから。貴女あなたもそこから動かず、余計なことはしないでくださいね」


 紅葉が動く。斧槍ハルバートが消え、彼女の両手へと光が別れた。刹那、両手に両刃で身幅の広い片手剣ショートソードが現れる。紅葉は左手のみ逆手に持ち替えると俊次郎との間合いを詰めた。

 俊次郎が構え直し、それを迎え撃つ。円を描くように紅葉の右側に回り込み、左拳で牽制の打撃を放った。


 紅葉は体を捻って左手に持った片手剣ショートソードで受ける。刀身の側面に籠手ガントレットが当たり火花を散らす。そのまま紅葉は体ごと右回転し、右手の片手剣ショートソードで俊次郎の顔へ向けて斬りつける。

 俊次郎が右拳を打ち上げ、剣を弾く。そして左拳を前に置くようにして後ろに退いた。

 更に間合いを詰めようとした紅葉の足が止まる。


「この前とは動きが段違いですね」

「今夜は十日月ですもの」


 紅葉は不敵に笑ってみせる。しかし浮かべた表情ほどの余裕は、心にはない。受けた時も弾かれた時も、紅葉の手には相応の衝撃が伝わってきた。それは相手が本気で仕掛けて来た証拠だ。


「そうですね。新月の時に決着をつけておくべきでした。でも……」


 俊次郎の姿が霞む。一気に間合いを詰め、左右の連撃が紅葉を襲った。紅葉は左右の片手剣ショートソードでそれを防ぐ。

 速度は速いが軽い打撃だった。しかし手数が驚くほど多い。防ぐのに精一杯で紅葉がじりじりと後退する。


 俊次郎の放つ拳の中に、ときおり重い打撃が混ざり始めた。打ち方が変わったわけではない。同じ軌道で、同じスピードで来る打撃の中に、ふいに重い一撃があるのだ。

 いつくるか分からない打撃の質の変化は、精神的な重圧となって紅葉に襲いかかる。紅葉の対応が遅れ始めた。そして重い一撃を受けて右手の片手剣ショートソードがはじき飛ばされる。


「前回のダメージは回復しきっていませんね」


 攻撃を止め、俊次郎が言う。その息づかいに乱れはない。一方、紅葉は大きく肩で息をしていた。


「どうせなら、満月まで待つべきでしたね」

「でも、あなたは待ってくれないでしょ?」


 紅葉は左手に持った片手剣ショートソードを右手に持ち替える。


「もちろん」


 再び俊次郎が動いた。先ほどと違い、攻撃はぜずに微妙に間合いを外しながら紅葉の周囲を回る。そして急に紅葉の視界から姿を消した。


「!」


 紅葉が気配だけで振り向く。思いの外近くに、姿勢を低くした俊次郎の姿があった。左の拳が紅葉の腹部めがけて放たれる。紅葉は咄嗟に片手剣ショートソードを寝かせて両手で構え、刀身の側面で拳を受けた。

 衝撃が紅葉を襲った。両手で支えていたにもかかわらず、片手剣ショートソードごと体が浮く。すかさず右の拳が同じ箇所を打ち抜いた。

 光の刀身が砕ける。そのまま籠手ガントレットが紅葉の腹部に吸い込まれた。

 紅葉が吹っ飛び、地面に転がる。


「紅葉!」


 佳乃が紅葉に走り寄る。彼女を庇うように佳乃は覆い被さった。


「あなたは逃げて佳乃。あいつは嫌な奴だけど、二年前の神父と違って、〝人〟であるあなたや虎児まで殺したりはしない」


 腹部を押さえながら、紅葉が言う。


「嫌よ。紅葉を置いていけるわけないじゃない!」

「わたしはここに居るべきじゃなかったのよ。ついついあなたに甘えてしまった。そしてまた巻き込んでしまった」

「巻き込んでなんかいないわ」

「お願い……わかって。お願いだから」


 紅葉の目から涙がこぼれた。


「ねぇ、紅葉」佳乃はそっと紅葉の涙を掬う。「紅葉は本当にそれでいい?」

「…………」

「紅葉は本当はどうして欲しいの? わたしと一緒にいたくないの?」

「……わよ」

「聞こえない」

「居たいわよ! 佳乃と一緒に。ずっと! でもそれだとあなたまで――」

「わかったわ」


 佳乃は言葉を遮るように紅葉の首に腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。


「佳乃?」


 紅葉の言葉に微笑んでみせ、佳乃は一人立ち上がった。そして俊次郎と紅葉を遮るように移動する。


「紅葉、ちょっと借りるね」


 佳乃の手にはいつのまにか紅葉のペンダントがあった。


 まず、大きめのしずく型の月長石ムーンストーンが目についた。細い方を下にして銀細工で囲ってある。その下には同じように銀細工で囲まれた、ふた回りほど小さいしずく型の月長石ムーンストーン。それは細い方を上にしてぶら下がっている。相似の組み合わせだ。

 小さい方の月長石ムーンストーンに光が灯った。


「佳乃? まさか……」

「わたしね、あなたのペンダントから月の歌を聴いたのよ」


 月長石ムーンストーンから生まれた光が佳乃を包み込む。突如、佳乃の耳に声が聞こえた。細く高く澄んだ声――

 それは一定のリズムを伴って、佳乃の周りを満たし始めた。

(月の歌が、こんなにはっきりと)

 佳乃の思いに応えるように、光はその強さを増す。それに合わせて歌声も大きさを増した。


 光に包まれているはずなのに、佳乃の視界に倒れている虎児の姿が飛び込んできた。頭を上げ、起き上がろうとしているのが見える。佳乃と虎児、二人の視線が交差する。

(虎児)

 ――桜とおんなじ名前でもええやん。ワイは好きやで。

 そう言って笑った、まだ幼い少年だった頃の虎児の顔が思い浮かぶ。それが見つめてくる虎児の顔と重なった。

 弾けるように、佳乃の身を包む光が消えた。そこには赤い瞳をもつ佳乃が立っている。


 どこからともなく、桜の花びらが舞い始めた。そして回りの風景が一変する。

 並木道の桜が一斉に芽吹き始める。それは蕾となり、咲き始め、すぐに満開となった。そして咲いているにもかかわらず、舞い続ける花びらの数が増え始めた。


「これは……少しまずいですね」


 俊次郎は佳乃に向かって進もうとする。しかしその脚が動くことはなかった。見ると虎児が這いずったまま、俊次郎の脚を掴んでいた。その力は恐ろしく強く、簡単には振りほどけない。


「紅葉を連れて行けや、佳乃!」 


 虎児が叫ぶ。

 佳乃は目を閉じ、息を吐くと同時に目を開いた。赤い瞳が虎児を見つめる。二人の間を吹雪となった桜の花びらが舞う。淡い紅色が世界を覆った。

 桜吹雪が収まったあとには佳乃たちの姿はない。季節外れの満開になったソメイヨシノが、ただそこにあるだけだった。


        ☆


「もう少し意識を失っていると思っていたのに、驚きました。体の頑丈さもですが、大した精神力です」


 俊次郎は脚を掴んでいる虎児を見て言う。


「もう言い訳はでけへんで。傷害未遂の現行犯で逮捕や」


 這いずったまま、それでも俊次郎を睨んで虎児は言う。


「行ってしまいましたよ。いいんですか?」

「……おんどれの思い通りにはさせへんわ。ワイのこと騙しよってからに」

「騙したつもりはないんですけどね」俊次郎はため息をついた。「それに佳乃かのじょまで〝月に捕らわれし者ルナティック〟になってしまったのには困りました。これでまた探し直しです」

「おんどれはこれから留置所行きや。先にワイが探してみせる」


 その言葉に俊次郎は苦笑してみせた。そして掴まれた脚をあっさりと引き抜く。


「馬鹿力はもう出せないようですが?」

「抜かせ。おんどれは逃がさへんで」


 虎児が立ち上がろうとするが、思うように体が動かない。

 俊次郎はそれを気にすることなく、地面に落ちた自分の上着の所まで歩き、拾い上げた。


「彼女はもう〝人〟ではありません。このまま警察にいても見つけることはできませんよ?」


 そして虎児の所に戻ってくると、上着から抜いた名刺入れから一枚取り出す。それを、つくばったままの虎児の目の前に置いた。


「もしその気になれば連絡をください。〝月を喰らいし者エクリプス〟に入れば彼女にまた会えるかもしれません。なにより、少しでも同じ時間を生きたいと願うなら、あなたも〝人〟を辞めるしかない」

「〝月を喰らいし者エクリプス〟……おんどれがこの間、言うとったやつか」

「そうです。あなたなら月晶に適合できるかもしれません」

「月晶?」

「〝月に捕らわれし者ルナティック〟に対抗するためのマジックアイテムみたいなものです。まぁ、適合できればですけどね。でもあなたの精神力なら可能性は充分にある」

「なに訳わからんこと言うてんねや。おんどれは逮捕や」


 虎児が必死になって手を伸ばす。しかしその手が俊次郎に届くことはない。

 俊次郎は虎児に背を向けて歩き出した。


「あ。それと、名刺を使って私の身元を調べても無駄です。連絡先もいつまでも使えたりはしません。なるべく早い決断を祈っています」


 背中越しに俊次郎が言う。


「くっ……待てや」


 俊次郎の背中に手を伸ばし、必死に這いずって近づこうとして――虎児は気を失った。

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