五十三夜 虎児と佳乃 其ノ五

「呼び出して、すまんかったな」


 公園の入り口で待つ虎児とらじの元へ、バイトを終えた佳乃よしのがやって来た。二人はどちらからともなく、公園の中へと入って行く。

 佳乃のバイト先にほど近い公園。市街地緑化計画の一環で造られた公園で、東京ドームくらいの広さの中に多数の木が植えられている。


 中でも名物は公園の中央から十字に広がる桜並木で、春には花見客で賑わう。いまは九月半ば。もちろん桜は咲いていない。

 その並木通りを二人は歩いていた。等間隔で設置された街灯が道を照らす。空には十日月が浮かんでいた。


「ううん。喫茶店じゃ話せないんでしょ?」

「……せやな。紅葉くれははお前んにおんねや?」

「うん。虎児に呼び出されて、遅くなるって連絡してる」

「ほうか」


 それきりどちらも話さない。二人は公園中央の十字路までやって来た。


「あれから連絡なかったね」


 佳乃が足を止めて言う。虎児は数歩先まで歩いて、足を止めた。

 虎児に男の追跡を頼んだのが二日前の午後。その日はもちろん、翌日も虎児から連絡はなかった。そして今日、いきなり呼び出されたのだ。


「非番やったしな。なによりちぃと考えたかったんや」


 背中越しに虎児が言う。その背中は少し、寂しそうだ。


「何を?」

「佳乃、お前なんやワイに隠しとるやろ?」


 虎児が振り向いた。佳乃を真っ直ぐに見つめてくる。その真剣さに佳乃は言葉に詰まった。


「……隠すって、何を?」


 ようやく出た声は掠れていた。


「〝月〟の話や」

「え?」

「お前と紅葉の好きな、〝月〟の話や。佳乃、お前〝人〟の生活を捨てる気なんか?」

「虎児……あんたあの男と話したのね。何を聞いたの? 言っておくけど、紅葉は化け物なんかじゃな――」

「そないなことはどうでもええ」虎児が佳乃の言葉を遮る。「ワイが訊いとんのはお前のことや、佳乃」


 声に込められた強さに、佳乃は驚いた表情を浮かべた。虎児は変わらず、真剣な目で佳乃を見つめてくる。

 佳乃は一度目を閉じ、軽く息を吐いた。そして再び開けた目には柔らかい光が浮かんでいた。優しく、懐かしむように虎児を見る。


「……ねぇ、虎児。わたしが月に帰るんだって言って、みんなに莫迦にされた時のこと覚えてる?」

「……小学生ん時のことやな。覚えとるで」


 突然話題を変えてきた佳乃の言葉に、虎児は素直に答える。


「わたしね、あのときあんたが庇ってくれて、嬉しかった」

「べ、別に庇ったわけやない。みんなで一人をからかうんが、気に入らんかっただけや」


 どこか照れたように虎児が言う。佳乃はそれを見て微笑む。


「昔っから、正義感強かったもんね。警察官になったって聞いた時、わたしは驚かなかったよ」

「せやな。他の友達ダチはみんな驚いとった。喧嘩ばっかしとったからな」

「ふふ。でもあんた、自分の為に喧嘩したことなかったでしょ?」

「そないなこと……ワイは気に入らんから喧嘩したんや」

「いじめられてるのが気に入らない。先生に理不尽なこと言われてるのが気に入らない……」

「せや」

「でも全部、友達がされたことだよね?」

「何が、言いたいんや?」

「味方がいないって思った時に、あんたが庇ってくれた。わたしは一人じゃないって教えてくれた。それがね、すごく嬉しかったの」


 佳乃はそこで言葉を止めて回りを見る。視線は花のない桜の木々に向けられる。


「あと、あたしが自分の名前を嫌いって言った時、虎児は言ったよね? 『ワイは桜とおんなじ名前しとるお前、好きやで』って」

「そないな昔のこと、覚えとらんわ。ちゅうか、ワイが好きや言うたんは、お前の名前や」

「覚えてるじゃない」


 そっぽを向いて言う虎児を見て、佳乃は笑いながら言う。


「とにかくさ、一人じゃないんだって。月の話をしても、あたしのこと好きだって言ってくれる友達がいるんだって、嬉しかったのよ」

「せやから好きなんは名前やて――」

「それでね」今度は佳乃が虎児の言葉を遮る。「紅葉もいま、一人なの。家族もいない。一人なの」

「…………」

「ねぇ、虎児。不老の話は聞いた?」

「ああ。月に完全に捕らわれてまうと、〝人〟の時間では生きていけへんようになる……ちゅうやっちゃな。ホンマかいな」

「わたしは本当だと思う」佳乃は少し笑う。「でね。その話を聞いた時、思ったの。相手のことを思って、考えて、一人で生きることを選んでしまうのは寂しいなって。

 紅葉はね、一人で生きていく気なの。これからずっと。でも、あたしなら一緒にいられるかもしれない。歌を聴くことができるわたしなら」

「お前、月の歌が聴けるんか?」


 虎児が驚いたように言う。


「まだ、確実じゃないけどね」佳乃は俯き、そっと首を横に振る。「でも、あんたがあたしにしてくれたみたいに、一人じゃないよって、紅葉の側に居てあげることはできるかもしれない。

 誰にも理解されない寂しさは、知ってるから」

「〝人〟やのうなってもええんか? ワイは――」


 虎児が佳乃に近づく。そして彼女の両肩を掴んだ。


「お前と一緒に同じ時間を生きたいと思うとる」


 佳乃を見る虎児の瞳は真剣で、必死で――失うことを恐れている者のそれだった。


「虎児……ありがと。本当に嬉しい。でも、わたしは紅葉を見捨てられない」


 拒絶ではない。だがそれは決別の言葉だった。佳乃は微笑んで、しっかりと虎児を見つめて言う。

 虎児の手が、力なく佳乃の両肩から離れた。


「……お前は昔っから頑固なオンナやったな。せやけど、ワイも諦めは悪い方や」

「知ってる」


 虎児は一度ため息をついてから、佳乃を見つめる。表情は真剣そのものだ。


「佳乃には悪いが、なんの被害もないのに警察は動かれへん。せやから現時点であの男を逮捕することは無理や」


 その言葉は虎児としてではなく、一人の警察官としての言葉だった。


「……わかったわ」

「せやけど」虎児が相好を崩す。「お前らが被害にあわへんよう、きっちり守ったるわ」

「それは……困りましたね」


 虎児とは違う男性の声が聞こえてきた。虎児と佳乃が、声のした方を向く。

 桜の木の間からスーツ姿の男性が一人、出てきた。七三分けのオールバック。彫りの深い顔だちだが、目は下がり気味の細目――俊次郎しゅんじろうだ。

 手には大きなアタッシュケースを持っている。


「虎児!?」


 佳乃が虎児を見る。視線の意味に気づき、虎児は慌てて否定する。


「ちゃうて。あんさん、ワイをつけとったんか」

「はい。昨日から様子を見させてもらってました」


 そう言って俊次郎は二人の近くへと歩いてくる。佳乃を庇うように、虎児が男の前に出た。

 俊次郎は足を止め、虎児の肩越しに佳乃を見る。


「その男性ひとは悪くないですよ。これは私の独断です。こちらも仕事なのでね」

「……〝月を喰らいし者エクリプス〟」

「そうです。そして〝月に捕らわれし者ルナティック〟を狩る者です」

「狩る……て。この間は、そないなことうとらんかったやろ」

「これでも私、〝人〟を巻き込みたくないんですよ。だから知らない方がいいことは言いません。知らなければ余計なことに首を突っ込まないでしょ?

 そのままあなたがそちらの女性ひとを説得して、二人ともこの件から身を引いてくれることを期待していたのですが……」

「だめやったから佳乃もろともかいな? さすがにそれはしょっぴく理由になるな」


 虎児が構えてみせた。左半身ひだりはんみで左手は肩の高さ。右手はお腹の前に。両手はは軽く開いている。


「いえ。彼女はまだ〝人〟ですから手を出すことはしません。でもひとまず邪魔はできないようにさせてもらいます」


 俊次郎はアタッシュケースを地面に置くと、上着を脱いでその上に置いた。そしてネクタイを軽く緩める。上半身じょうはんしんをやや丸め、両手は拳を握っている。そして左拳ひだりこぶしは顎の前に。右拳みぎこぶしをダラリと下げて構える。

俊次郎が動いた。その姿が一瞬揺らぐ。気づくと三メートルの間合いを一気に詰めていた。

 俊次郎の右拳が消える。虎児は咄嗟に前に出した左手を下げた。軽い衝撃を左手に感じる。虎児の左手は俊次郎の右拳を止めていた。


「おや。見えたんですか?」

「勘や。えろう速い拳やな」

「それだけが取り柄でして」


 俊次郎が退く。虎児はそれに吸い付くように前に出た。右半身みぎはんみへと体を入れ替え、握った右手で突きを放つ。

 俊次郎は上半身じょうはんしんの動きのみでそれを躱す。そして滑るような歩法で回り込み、突き終わった虎児の横――腹部側――に現れた。


「!」


 俊次郎の右拳みぎこぶしが再び消える。虎児の左手が、衝撃を受け弾き飛ばされた。刹那、俊次郎の左拳ひだりこぶしも消え、虎児の顎に掠るような衝撃が走った。

 俊次郎はすぐに間合いをとって虎児から離れる。


「軽い拳やな」

「速度が上がるかわりに威力が落ちるのが私の能力の欠点でして。本来は接触の瞬間に切り替えるのですが、〝人〟であるあなたにそこまではしません」

「舐められたもんやな」


 そう言いながら、動こうとした虎児の脚がもつれた。力が入らずその場に崩れ落ちる。


「虎児!」佳乃が叫んだ。

「軽くても効果はあるでしょ?」

「おんどれ」


 片膝をついたまま、脚に力が入らず立ち上がれない。無理をして立とうとすればそのまま地面に倒れてしまうだろう。

 虎児は先ほどの衝撃で脳が揺らされたのだと気づいた。そしてもう一つ気づく。相手は最初から狙っていたのだ。相手を打ち倒すことなく無力化することを。

 俊次郎はもう虎児を見ていなかった。無防備に背中を向け、佳乃の方へと歩いて行く。その姿に、虎児は彼我の実力の差を思い知らされる。


「さて、佳乃あなたはしばらく気を失ってもらいましょう」


 佳乃は動かない。いや、動けなかった。ゆっくりと俊次郎が近づいていく。その様子は淡々と仕事をこなすビジネスマンのようだ。


「くっ、佳乃」


 崩れそうになる体を支え、虎児は立ち上がろうとする。しかし体が思うように動かない。

 ふと、虎児は背後に気配を感じた。と同時に頭の上を何かが通過した。その何かは俊次郎の後頭部を目がけて飛んで行く。

 俊次郎が振り返り、素早くそれを拳で打ち落とした。地面に落ちたそれは小型のボストンバックだった。


「〝人〟には手を出さないんじゃないの?」


 虎児の横を小柄な人影が通り過ぎて行く。腰までの黒髪が風に揺れる。


「紅葉!?」


 その人影を見て、佳乃が叫んだ。

 紅葉は体を沈め、俊次郎へ向かって駆けだした。右手を胸に当てる。ペンダントの月長石ムーンストーンが光り始める。

 光は長く伸び、紅葉はそれを両手で握る。そして左腰に引きつけたそれを、俊次郎に向けて突き出した。

 俊次郎の姿が消える。彼が居た場所を貫くように斧槍ハルバートの刃があった。


「いきなりですね」


 俊次郎の声が背後から聞こえた。素早く紅葉が振り向く。虎児の更に後ろ、アタッシュケースが置かれた場所に俊次郎は立っていた。


「佳乃に手を出したんだもの。当たり前でしょ?」

「……紅葉」

「本当は佳乃が帰ってくる前に街を去るつもりだったんだけど……胸騒ぎがしたのよ」


 佳乃に背を向けたまま、紅葉が言う。視線は俊次郎から離さない。


「巻き込まないように、彼女には気絶してもらうつもりだったのですが……仕方ありません」


 俊次郎はアタッシュケースを持ち上げた。そしてケース上面にあるボタンを押す。カシュという空気の漏れる音がして、アタッシュケースの側面が開いた。側面の左右それぞれに、互い違いに丸い穴が開いている。

 俊次郎はその穴に素早く両腕を差し込んだ。再び空気が漏れる音がする。同時にアタッシュケースの表面に亀裂が走り、いくつかのパーツに別れて足元に落ちた。

 俊次郎の前腕を、鈍い銀色の籠手ガントレットが覆っていた。


「それ、面白いおもちゃよね」


 紅葉が言う。光の斧槍ハルバートを構え、先端を俊次郎に向ける。


「私の能力そのものは大したことはないんです。あなたのような〝月の贈り物ギフト〟に対抗するには、こういう小道具おもちゃが必要でしてね」


 俊次郎は構えると、不敵に笑って見せた。

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