佳乃と葵
四十夜 雨の降る日に
激しい雨の中を、ミニバンタイプのコンパクトカーが走っていた。山間の県道をかなり遅めの速度で進んでいる。
運転席では、
車のライトを乱反射して、光の筋がフロントガラスから見える景色を埋め尽くしていた。そして車体を叩く雨音。視界と聴覚を雨に奪われ、どこを走っているのかわからなくなりそうだった。対向二車線の県道には、幸いにも佳乃が運転する車以外は見あたらない。
まだまだ梅雨の真っ直中とはいえ、ここ数年、雨の降り方は異常だ。毎年どこかで土砂災害が起こっている。
「
佳乃は知り合いの屋敷に預けて来た
街から街へ、根無し草のように二人は渡り歩いていた。半ば趣味の雑貨屋をしながら、短ければ半年。長くとも五年と経たずに、各地を渡り歩く生活。佳乃はそれを決して嫌とは思っていなかった。色々な場所を巡ることができるし、なにより紅葉と二人ならどこにいても楽しいと思っていたから。
ハンドルのボタンを操作して、ラジオの音量を上げた。雨音の合間を縫うように声が聞こえるようになった。パーソナリティがリスナーのコメントに答えているようだ。
ふとその声に被さるように、低い音が響いてきた。佳乃は一瞬、ラジオの音かと思い音量を下げた。しかしその低い音が途切れることはない。
そしてハンドルのボタンを押して音量を戻そうとした瞬間、車は横からの衝撃に襲われた。
「え?」
助手席側の窓ガラスの向こうが土砂で埋まる。ハンドルに関係なく、車体が横へと滑った。車はそのまま土砂に飲まれるように、反対車線へと押し流される。ガードレールで止まるはずの車体はしかし、その下に続く斜面へと押し出された。
運悪くガードレール側の路面も崩れたのだ。だが車体がそのまま横転することはなかった。回り込むように流れて来た土砂と共に、車体は傾きながらも押し流される。
「――――!」
声にならない悲鳴を上げ、佳乃は必死にハンドルにしがみつく。突如、右耳のピアスが光り始めた。
それに合わせるように、車の外で変化が起こる。車と一緒に根ごと土砂に流されていた倒木が、逆らうように動き始めた。根が成長し、次々と土砂に潜り込む。
土砂に埋もれかけた車を押し出すように、少しでも土砂の流れをせき止めるように、次々と木が立ち始める。しかし山の斜面が削れて生まれた土砂の量には敵わない。木々の間を抜け、あるいはその上を越え土砂は十メートル下にある地面へと飲み込んだ全てを運ぼうとする。
佳乃の乗った車は、土砂ごとあっという間に暗闇の中へと消えていった。
☆
「あーもう。なんでこんな時に」
畳の上に敷かれた布団に潜ったまま、紅葉はぼやいた。そしてすぐに咳き込む。
「風邪なんて何年ぶりかしらね」
そう言って、佳乃は紅葉の額に左手を当てる。右手は前髪を除けるようにして、自分の額に当てた。
「まだ熱、下がらないね」
言いながら、佳乃は前髪を右耳へとかきあげた。
襟足を伸ばしたショートヘアーは明るい茶色。縁なし眼鏡の奥から覗く瞳は、優しく紅葉を見つめている。
一分袖から覗く、白く細い腕。ミントグリーンのニットに、下は白のパンツ。布団のすぐ側に横座りしたまま、佳乃は言葉を続ける。
「まだしばらくは大人しくしてなさい。体調を崩したのが、ここにいる時でよかったわ」
二人がいるのは八畳ほどの和室だった。障子紙が貼られた格子戸の向こうから雨音が聞こえてくる。
「挨拶に来ただけだったのに。ここにはあまり居たくないわ」
「紅葉、そんなこと言わないの。いつもお世話になっているんだから」
「あーもう。月光浴さえできれば、すぐに良くなるのに」
「しばらく雨が続くから無理ね」
佳乃は笑ってみせる。
「佳乃は帰るの?」
「
「何度目の引っ越しになのかな……」
紅葉がぽつりと呟く。佳乃は彼女に優しい視線を向ける。
「誰も来ない場所で、二人っきりでひっそりと暮らす? どこかの島か山奥か……
「佳乃がそうしたいんなら」
「わたしはどちらでもいいわ。いまの根無し草な生活も、色んな場所に行けて楽しいもの。それに——」
そこで佳乃は言葉を止め、紅葉の顔をのぞき込んで再び口を開く。
「紅葉と一緒ならどこでも」
「なにそれ……ずるい」
紅葉は照れた様子でそっぽを向いた。
そんな彼女を見て佳乃が笑う。側に置いてあったロング丈のサマーコートを手に取ると、彼女は立ち上がった。
紅葉が慌てた様子で佳乃を見る。
「佳乃」
「大丈夫。五日ほどで帰ってくるから。その間に、しっかり体調を戻しておいて」
ウインクをして、佳乃は部屋を出ていく。そのまま廊下を進むと和装の老人に出会った。
「
「佳乃ちゃんか……本当に君たちは変わらんね」
そう言って老人が笑う。
「いつもありがとうございます。こんなわたしたちを受け入れ、保証人にまでなってくれて」
「何を言っておる。儂も息子も君たちには感謝してる。君たちには命を助けられたのだからな。儂はもう隠居の身だがまだ息子がおる。儂がいなくなっても雨月は君たちを支援するよ」
「そんな。いつまでも元気でいてください」
「儂ももう歳じゃよ。あれから十五年か。そう言えば、あのとき一緒におった若者はどうしてる? あの関西弁の」
老人の言葉に、佳乃は一瞬、寂しそうな表情を浮かべる。
「……多分、元気にしてると思います」
「そうか」
佳乃の表情から何かを感じとったのか、老人はそれ以上尋ねることはしなかった。
「紅葉のこと、お願いしますね」
「しかし、君たちが風邪なんてね」
「わたしたちは不老かもしれませんが、不死ではないですから。体調を崩すこともありますし、時にはそのまま命を落とします」
「……死は、君たちにも儂らもにも平等に訪れるということだな」
どこか悟ったように、老人が言った。佳乃は微笑んでみせる。
「五日ほどで帰って来られると思います」
「わかった。このところの雨で災害も多い。気をつけて行ってきなさい」
「ありがとうございます」
そう言って、佳乃は雨月の屋敷を出て行った。
しかし五日を過ぎても、佳乃がここへ戻ってくることはなかった。
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