三十六夜 猫と虎とあたし

 十五夜の満月が天空に浮かんでいた。

 あおい虎児とらじは、高校の第二グラウンドに立っていた。二人の足下には太郎丸たろうまるが座っている。


 山の中腹ちゅうふくに建てられた海中わたなか高校には、グラウンドが二つあった。校舎や体育館といった施設を中心とした最上段のすぐ下に、武道場やプール、テニスコートとトラック競技が可能なスペースを持つ第一グラウンド。そこから少し離れた場所に野球やサッカーなどの大規模な球技が可能な第二グラウンドがあった。


 最低限の整備はされているが、在校生の減少で殆ど使われなくなったグラウンドだ。

 設置された照明施設は稼働していない。しかし月明かりがグラウンド全体を照らしていた。それは十分、周りを認識できるだけの明るさを葵にもたらす。


「猫オジ、本当に来るの?」

「アイツはずいぶん、ひと目を気にしとった」


 ――さすがに、ここで猫十匹と人ひとりの死体は目立ち過ぎる。

 その言葉に、葵は少年の引き際のセリフを思い出していた。


「そしてかなりの自信家や」


 ――今夜は我慢してあげるよ。


「ヤツがここ二日ばかりなんの動きも見せへんかったんは、嬢ちゃんがなるだけ人気ひとけの多い場所におったんと、ワイらが常に見張っとったからや。

 その間に、アイツはワイ以外の〝月を喰らいし者エクリプス〟がおらんか、探っとったはずや。そしてすでに、ワイと太郎丸先生らしかおらんとバレとる」


 そこまで言うと、虎児は不敵な笑みを浮かべて見せる。


「せやからこうして人気ひとけの無いところに姿さらして挑発したら、アイツかて出てくるしかないやろって寸法や」


 葵が少年に襲われてから今日で三日目。その間、虎児と太郎丸たち地域猫が少女の警護をしていたが、少年が葵の前に現れることはなかった。


「もし逃げてたら?」

「言うたやろ。アイツは相当な自信家やて。獲物を前にして逃げるようなタマかいな」

「だからって、こんないかにも待ち受けてますみたいなことしても……」

「今夜は満月や。アイツが手ぇを出してくんねやったら、間違いのう今夜や」


 太郎丸が立ち上がった。満月の月明かりに照れされてなお暗いグラウンドの入り口を見て、威嚇を始めた。


「ほらな」虎児が葵を見て言う。

「なんだか見透かされたようで、気分が悪いねぇ」


 ゆっくりと少年――九重くのうかずらが葵たちの所へ歩いてくる。その姿はまだ人間のままだ。


「おんどれは嬢ちゃんの石を取り戻しにきたんか?」

「石? ああ、その月長石ムーンストーンのことか」

「あげた?」


 その言葉に、葵は思わず自分の胸を押さえた。


「うん。だから返してもらうつもりはないよ」

「せやったら、なにを企んでんのや?」


 虎児はかずらを睨み付ける。少年は涼しい顔でそれを受け流す。


「企むもなにも。そのに、こっち側へ来てもらいたいだけだよ」

「嬢ちゃんは〝人〟に留める。〝月に捕らわれし者ルナティック〟になんかさせへん」

「それを決めるのは、キミじゃない。ねぇ――」葛が葵を見る。「四年前に僕が殺した中に、キミの家族がいたんだろ?」

「おいコラ!」


 虎児が叫ぶ。葛はそれにおかまいなく、言葉を続ける。


「キミは仇をとりたいとは思わない?」


 葵は胸を押さえたまま、苦しそうな顔で葛を睨んだ。呼吸が乱れる。


「まぁ、いまのキミにはもちろん無理。でもね、月の歌を聴いて〝月の贈り物ギフト〟を手に入れることができれば、僕を倒せるかもしれないよ?」

「なんで……」葵が乾いた声で言う。「なんでパパやママ、みんなを殺したの?」

「なんでって」葛が薄い笑みを浮かべる。「そんなの殺したかったからに決まってるじゃないか」

「っ! そんな理由で――」

「僕には殺すことのできる力があった。そしてそれを使った。キミたちはたまたまその場にいた。それだけのことだよ」


 葛には、葵がなぜそんなことを訊いたのか理解できないといったふうだ。


「このっ――」

「嬢ちゃん!」


 虎児が葛の視線を遮るように、葵の前に出た。


「気ぃをしっかり持ち。コイツは揺さぶっとるんや」


 葵の目の前に大きな背中があった。特別、背が高い訳ではない。けど鍛えられたことが服の上からでもわかる、ごつい背中。少女の気持ちを落ち着かせてくれた背中。

 葵の呼吸が落ち着く。胸から手を離し、背を真っ直ぐに伸ばす。


「ちょっと面倒そうだねぇ。まぁ、引き込むのが無理ならそのを殺してだけだけどねぇ」


 虎児が動いた。体を沈めると同時に前に出る。彼我の距離は五メートル。虎児はその距離を一瞬で詰める。

 刹那、一挙動で拳を葛へと放った。


「それがキミの力かい?」


 葛に放った右拳は、黒と黄色の毛並みを持つ、人の手の形をした獣へと変わっていた。

 対する葛は、黒い大きな手でその拳を防いでいる。


「僕と似たタイプの能力かな」

「お前と一緒にしぃなや」


 虎児が口のを上げる。右拳を後ろに引き、それと入れ替わるように左半身ひだりはんみへ。今度は獣化した左拳を葛に叩き込んだ。

 葛はそれを後ろに飛んで躱す。


「じゃあ、まずキミと少し遊ぼうか」


 そう言うと、少年の体を黒いもやが覆った。もやは集約して、歪な人の形を生み出した。人型の背は高く、一メートル八十を越えるだろうか。体躯は細く、腕は随分と長い。手は大きく指は薄い刃となっていた。顔ははっきりと分からない。ただ、通常なら目のある位置に赤い光が二つ見えるのみだ。

 そこには四年前、葵を襲った黒い〝何か〟が立っていた。


「!」


 葵の鼓動が早くなる。だが、恐怖に支配されるようなことはない。それは、視線の先に虎児の背中があるからだ。


「少しどころか、がっつりワイと遊んでもらうで」


 両手を腰に引き、虎児が全身に力を込める。変化は一瞬だった。いきなり虎児の体が膨張すると同時に全身を毛が覆った。服が裂け、頭は映画のワンシーンでも見ているようなモーフィングで虎そのものへと変化する。

 先ほどまで虎児がいた場所には、二メートルはあろうかという、人型の虎が立っていた。


「猫オジ!?」

「嬢ちゃん、キツイかもしれへんけどよう見とき。これが〝人〟の立ち入れへん、ワイらの世界や」


 虎児は後ろを見ることなく、叫んだ。

 虎児が駆ける。先ほどとは比べものにならない速度で、〝何か〟に変化した葛へと詰め寄る。

 葛は右手を振り上げ、それを迎え撃つ。迫ってくる虎児に向かって右手を無造作に振り下ろした。指を形作る薄い五本の刃が虎児に届く距離ではない。


 だが葛の刃が虎児の頭の高さへ降ろされる瞬間、虎児は体を右半身みぎはんみにして刃を避けた。逃げ遅れた左脚に浅い切り傷が出来る。

 虎児は後ろ足で踏み込んで、三歩分さんぽぶん、間合いを詰めた。虎児の右腕が葛の振り下ろした腕の下へと伸びる。と、同時に下から掬うように右腕を打ち上げた。

 葛の腕はハンマーで叩かれたような衝撃を受け、跳ね上がった。そのままバランスを崩す。


 虎児が振り上げた右腕を背後に回し、左足を進めつつ体を左半身ひだりはんみへと入れ替える。そのまま左の拳を突き出して葛の体を打ち抜いた。

 葛の体が吹き飛ぶ。葛は空中で器用にバランスを取って、足から着地した。


「おんどれの刃、見た目通りの間合いやないな」

「初見で躱したのは、キミが初めてだよ」


 雑音まじりの声で葛は言う。老若男女、幾人もの声を一度に重ねたような、本来の声を隠してしまう――そんな声色。


「ちぃと掠ってもうたがな」

「それでも、たいしたものだ。褒めてあげるよ」

「そら、おおきに」

「ところで、その姿は虎かい?」

「おう。ワイは猫派でな」

「くくく。随分と馬鹿力だねぇ」

「そない余裕かましとってええんか? パワーだけやのうて、ワイは速いで。おんどれ程度の間合いなら関係あらへん」

「うん。面倒なのは認めるよ。先にあのにアプローチした方がよさそうだ」

「アホいなや。嬢ちゃんには近寄らさへんで」


 虎児が間合いを詰める。葛は横に逃げて更に間合いを取った。


「僕らが使う月長石ムーンストーンってね、ちょっと特殊なんだ」


 虎児を見ながら葛が言う。少しでも虎児が動けば、また距離を取るつもりだろう。


「月の光をためれんのやったら知っとるで」

「そう。そして同じ塊から別れた月長石は共鳴するんだ」


 そう言って葛は自分の胸に両手の刃を突き刺す。そのまま、こじ開けるように両手を動かした。葛の黒い体から光りが漏れはじめる。人の拳大こぶしだいほどの月長石が胸に浮かび上がってきた。

 僅かに輝く月長石の一部が、不自然に欠けているのが虎児にも見えた。


「そしてキミたちを満月の夜に襲うことにしたのは、なにも僕の力が強まるからじゃない」

 葛の胸の月長石ムーンストーンがその輝きを増し始めた。


「この月明かりの下なら、逃げようがないからさぁ」


 胸の月長石ムーンストーンが眩しいほどの輝きを放つ。虎児はそれを見て葛に向かう――その瞬間。


『なーぅ!』


 太郎丸の悲鳴に似た鳴き声が聞こえた。足を止め太郎丸の方へと視線を向ける。

 視線の先には、胸を押さえうずくまる葵の姿があった。押さえた胸から、葛の持つ月長石ムーンストーンと同じ光が溢れている。


「嬢ちゃん!」


 葵の方へ向かおうとした虎児の眼前を、見えない刃が通り抜ける。地面が抉れて虎児の動きを止めた。


「キミはそこで見ていなよ」


 右腕を振り下ろした葛が、愉しそうに言う。


「おんどれ」


 葵を見つめ、しかし意識の半分は葛に向けたまま、虎児の動きが止まった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る