三十六夜 猫と虎とあたし
十五夜の満月が天空に浮かんでいた。
山の
最低限の整備はされているが、在校生の減少で殆ど使われなくなったグラウンドだ。
設置された照明施設は稼働していない。しかし月明かりがグラウンド全体を照らしていた。それは十分、周りを認識できるだけの明るさを葵にもたらす。
「猫オジ、本当に来るの?」
「アイツはずいぶん、ひと目を気にしとった」
――さすがに、ここで猫十匹と人ひとりの死体は目立ち過ぎる。
その言葉に、葵は少年の引き際のセリフを思い出していた。
「そしてかなりの自信家や」
――今夜は我慢してあげるよ。
「ヤツがここ二日ばかりなんの動きも見せへんかったんは、嬢ちゃんがなるだけ
その間に、アイツはワイ以外の〝
そこまで言うと、虎児は不敵な笑みを浮かべて見せる。
「せやからこうして
葵が少年に襲われてから今日で三日目。その間、虎児と太郎丸たち地域猫が少女の警護をしていたが、少年が葵の前に現れることはなかった。
「もし逃げてたら?」
「言うたやろ。アイツは相当な自信家やて。獲物を前にして逃げるようなタマかいな」
「だからって、こんないかにも待ち受けてますみたいなことしても……」
「今夜は満月や。アイツが手ぇを出してくんねやったら、間違いのう今夜や」
太郎丸が立ち上がった。満月の月明かりに照れされてなお暗いグラウンドの入り口を見て、威嚇を始めた。
「ほらな」虎児が葵を見て言う。
「なんだか見透かされたようで、気分が悪いねぇ」
ゆっくりと少年――
「おんどれは嬢ちゃんの石を取り戻しにきたんか?」
「石? ああ、その
「あげた?」
その言葉に、葵は思わず自分の胸を押さえた。
「うん。だから返してもらうつもりはないよ」
「せやったら、なにを企んでんのや?」
虎児は
「企むもなにも。その
「嬢ちゃんは〝人〟に留める。〝
「それを決めるのは、キミじゃない。ねぇ――」葛が葵を見る。「四年前に僕が殺した中に、キミの家族がいたんだろ?」
「おいコラ!」
虎児が叫ぶ。葛はそれにおかまいなく、言葉を続ける。
「キミは仇をとりたいとは思わない?」
葵は胸を押さえたまま、苦しそうな顔で葛を睨んだ。呼吸が乱れる。
「まぁ、いまのキミにはもちろん無理。でもね、月の歌を聴いて〝
「なんで……」葵が乾いた声で言う。「なんでパパやママ、みんなを殺したの?」
「なんでって」葛が薄い笑みを浮かべる。「そんなの殺したかったからに決まってるじゃないか」
「っ! そんな理由で――」
「僕には殺すことのできる力があった。そしてそれを使った。キミたちはたまたまその場にいた。それだけのことだよ」
葛には、葵がなぜそんなことを訊いたのか理解できないといったふうだ。
「このっ――」
「嬢ちゃん!」
虎児が葛の視線を遮るように、葵の前に出た。
「気ぃをしっかり持ち。コイツは揺さぶっとるんや」
葵の目の前に大きな背中があった。特別、背が高い訳ではない。けど鍛えられたことが服の上からでもわかる、ごつい背中。少女の気持ちを落ち着かせてくれた背中。
葵の呼吸が落ち着く。胸から手を離し、背を真っ直ぐに伸ばす。
「ちょっと面倒そうだねぇ。まぁ、引き込むのが無理ならその
虎児が動いた。体を沈めると同時に前に出る。彼我の距離は五メートル。虎児はその距離を一瞬で詰める。
刹那、一挙動で拳を葛へと放った。
「それがキミの力かい?」
葛に放った右拳は、黒と黄色の毛並みを持つ、人の手の形をした獣へと変わっていた。
対する葛は、黒い大きな手でその拳を防いでいる。
「僕と似たタイプの能力かな」
「お前と一緒にしぃなや」
虎児が口の
葛はそれを後ろに飛んで躱す。
「じゃあ、まずキミと少し遊ぼうか」
そう言うと、少年の体を黒い
そこには四年前、葵を襲った黒い〝何か〟が立っていた。
「!」
葵の鼓動が早くなる。だが、恐怖に支配されるようなことはない。それは、視線の先に虎児の背中があるからだ。
「少しどころか、がっつりワイと遊んでもらうで」
両手を腰に引き、虎児が全身に力を込める。変化は一瞬だった。いきなり虎児の体が膨張すると同時に全身を毛が覆った。服が裂け、頭は映画のワンシーンでも見ているようなモーフィングで虎そのものへと変化する。
先ほどまで虎児がいた場所には、二メートルはあろうかという、人型の虎が立っていた。
「猫オジ!?」
「嬢ちゃん、キツイかもしれへんけどよう見とき。これが〝人〟の立ち入れへん、ワイらの世界や」
虎児は後ろを見ることなく、叫んだ。
虎児が駆ける。先ほどとは比べものにならない速度で、〝何か〟に変化した葛へと詰め寄る。
葛は右手を振り上げ、それを迎え撃つ。迫ってくる虎児に向かって右手を無造作に振り下ろした。指を形作る薄い五本の刃が虎児に届く距離ではない。
だが葛の刃が虎児の頭の高さへ降ろされる瞬間、虎児は体を
虎児は後ろ足で踏み込んで、
葛の腕はハンマーで叩かれたような衝撃を受け、跳ね上がった。そのままバランスを崩す。
虎児が振り上げた右腕を背後に回し、左足を進めつつ体を
葛の体が吹き飛ぶ。葛は空中で器用にバランスを取って、足から着地した。
「おんどれの刃、見た目通りの間合いやないな」
「初見で躱したのは、キミが初めてだよ」
雑音まじりの声で葛は言う。老若男女、幾人もの声を一度に重ねたような、本来の声を隠してしまう――そんな声色。
「ちぃと掠ってもうたがな」
「それでも、たいしたものだ。褒めてあげるよ」
「そら、おおきに」
「ところで、その姿は虎かい?」
「おう。ワイは猫派でな」
「くくく。随分と馬鹿力だねぇ」
「そない余裕かましとってええんか? パワーだけやのうて、ワイは速いで。おんどれ程度の間合いなら関係あらへん」
「うん。面倒なのは認めるよ。先にあの
「アホ
虎児が間合いを詰める。葛は横に逃げて更に間合いを取った。
「僕らが使う
虎児を見ながら葛が言う。少しでも虎児が動けば、また距離を取るつもりだろう。
「月の光をためれんのやったら知っとるで」
「そう。そして同じ塊から別れた月長石は共鳴するんだ」
そう言って葛は自分の胸に両手の刃を突き刺す。そのまま、こじ開けるように両手を動かした。葛の黒い体から光りが漏れはじめる。人の
僅かに輝く月長石の一部が、不自然に欠けているのが虎児にも見えた。
「そしてキミたちを満月の夜に襲うことにしたのは、なにも僕の力が強まるからじゃない」
葛の胸の
「この月明かりの下なら、逃げようがないからさぁ」
胸の
『なーぅ!』
太郎丸の悲鳴に似た鳴き声が聞こえた。足を止め太郎丸の方へと視線を向ける。
視線の先には、胸を押さえうずくまる葵の姿があった。押さえた胸から、葛の持つ
「嬢ちゃん!」
葵の方へ向かおうとした虎児の眼前を、見えない刃が通り抜ける。地面が抉れて虎児の動きを止めた。
「キミはそこで見ていなよ」
右腕を振り下ろした葛が、愉しそうに言う。
「おんどれ」
葵を見つめ、しかし意識の半分は葛に向けたまま、虎児の動きが止まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます