三十五夜 月長石と傷跡とあたし
「
『にゃー』
「わぁっとる。ジャガーやったな。嬢ちゃんのバイト先にでも差し入れとくわ」
『なうー』
猫と会話しているかのような男の声を聞きながら、
(あれ? あたし……?)
微かな振動が体に伝わって来る。少し暑く感じてしまう温もりが自分の前にあった。
ハッとして顔を上げる。目の
「おっ、なんや。嬢ちゃん
葵の動きに気づいて、虎児が声をかける。
「猫オジ、ちょっとなにしてんの!」
「なに言うて、おぶっとんのや。嬢ちゃん、気絶したねんで」
「降ろして、あたし歩けるから」
思いがけない状況に、葵は
「もうすぐ寮やさかい、そこまではおぶったる」
「なんで猫オジが寮の場所知ってるのよ。まさか……」
「アホ。なに想像してんねや。場所は太郎丸先生に教えてもろうた」
『にゃーう』
声の先には虎児を先導するように太郎丸が歩いていた。
虎児が立ち止まる様子はない。葵は諦めたように虎児にしがみついた。
「猫オジはあたしのこと知ってたんだ?」
「なんの……って今更とぼけても無駄やな。ああ、初めて
「じゃあ、四年前の事件も知ってるんだよね」
「ワイらの中では有名な
「〝
「月の歌が聞こえ、月に捕らわれた人間のことをワイらはそう呼んどる。さっきのヤツがそうや。そして月に完全に捕らわれてしもうたら、〝人〟やのうなる。嬢ちゃんも見てんねやろ?」
「うん」
四年前の〝何か〟を思い出し、葵の体が震える。あれは本当だったのだ。自分が見たものは間違いなく、居た。
当時、葵は唯一の生き残りとして警察の事情聴取を受けた。そこで自分が見たものを警察に話したのだ。黒い人型の〝何か〟の姿を。
しかし、警察がそれを信じることはなかった。当然と言えば当然だろう。葵も他人から同じ話を聞いただけなら信じない。そして聴取時に錯乱を起こしかけたこともあり、恐怖のあまり黒い服を着た人間を誤認したと解釈された。
「本当にいたんだ。あの〝何か〟。あたし、間違ってなかったんだ」
葵の声が震える。それは恐怖とは違う感情の高まりからくる震えだった。
葵が不幸だったのは、マスコミが警察での証言の様子を記事にしたことだった。
『襲ったのは化け物!? 生き残った少女の証言の曖昧さ』というタイトルと共に、聴取時に錯乱して証言がまともに出来なかったと記事に書かれた。
ネットでもそれは取り上げられ、実は犯人とは知り合いで庇っているなどという、根も葉もない嘘を書き立てる輩もいた。PTSDと診断され通っていた病院や、引き取ってくれた叔父夫婦の住所も特定され、葵は心ない人間たちの誹謗中傷を受けることとなった。
「せや。あいつらみたいな〝人〟やないモンは、確かに存在する」
目の前の男は葵の言葉を莫迦にしない。受け入れ、肯定してくれる。それは四年前には決して得られなかった言葉だ。葵の目に涙が浮かんだ。
「それを見つけて狩るのが、ワイら〝
「なにそれ。もうわけ分かんないや」
「……せやな。それが普通や」
葵の言葉に虎児が応える。その声は優しい。
「四年前の事件は〝
せやけど嬢ちゃんに
――やっと見つけた。
少年の言葉を、葵は思い出す。確かに少年は葵を探してこの町に来たのだろう。
「けどなんでアイツは、いまさら嬢ちゃんを狙ってきたんやろか」
「そんなの、あたしが知りた――」
葵はふと言葉を止めた。そして何かを思い出したように、また話始めた。
「ねぇ、猫オジ……あたしの体の中にね、石が埋まってるんだって」
「なんやて?」虎児の足が、一瞬止まった。
「心臓に食い込むように、石があるんだって。それで月に一回、病院に検査に行ってるの」
「大丈夫なんか?」
「うん。いまんとこ心臓は正常に動いてるし、無理に手術で取り出すには危険だから経過観察だって。でね……さっきアイツ言ってたの。『僕のあげた
葵は一度、言葉を止めた。言葉を継ごうとして口を開き、何も言えずにまた閉じる。
虎児は歩きながら、じっと葵の言葉を待っているようだった。
「この石はたぶん、四年前に……あいつに埋められた……」
嫌な記憶が読みがえる。葵の声が、虎児にしがみつく腕が、震えていた。
「もうええ。それ以上、
虎児が葵の言葉を遮った。その声は、不思議と葵の気持ちを落ち着かせる。
「大丈夫」落ち着いた分、葵は気丈に振る舞ってみせる。「あいつはその石を取り戻しに来たのかも」
「……ひとつ訊いてもええか?」
「うん」
「嬢ちゃんには月の声は聞こえるんか?」
「月の声?」
「声ちゅうか、歌やな」
「それさっきも言ってたよね。……四年前に聞いた気はするけど、それ以来聞いてないよ」
「〝いま〟も聞こえへんねやな?」
言われて葵は耳を澄ませた。聞こえるのは自分と虎児の息づかい。そして夏の夜の音のみだ。
「うん」
「そらえかった」虎児は本当にそう思っているようだった。「嬢ちゃんはまだ大丈夫やな。まだ〝人〟や」
「その人とか、人じゃないとかってなんなの?」
「分かりやすいんは、アイツみたいな
あの少年は四年前の〝何か〟だった。ということは、少年の姿からあの〝何か〟に変身したということなのだろうか。
「〝
「少し、ちゃう。〝
あとな、共通して発現するモンもある。それが不老や」
「不老?」
「嬢ちゃん、アイツいくつに見えた?」
「中学生くらいかな」
「ハズレや」どこか楽しそうに虎児が言う。「あいつは昭和の生まれや。実年齢なら嬢ちゃんどころか、同じ昭和生まれのワイよりも年上やな」
「え?」
「月に完全に捕らわれてしもうたら、成長は止まる。〝人〟やのうなるんやから〝人〟の時間では生きられへんねや。なにも〝人〟やのうなる言うんは、妙な力が手に入るからだけやあらへん」
「成長は止まる」という言葉に、葵はドキリとした。自分にも思い当たる節がある。
「猫オジ」
「ん?」
「もしかして、あたしもヤバイかも」
「なんやて」虎児の声に緊張が走る。「せやけどジブン、歌は聞こえへんってさっき言うてたやんか」
「けど、あたし四年前から全然成長してないの。定期検診で身体測定するけど、まったくって言っていいくらい」
真剣に言い募る葵の言葉に、虎児はため息で応えた。
「それは単に嬢ちゃんが貧相なだけちゃうか? 背負っとってもちっとも
言葉の意味に気づき、葵が顔を赤くする。
「ばか! 変態! セクハラ! 降ろせ!」
「おい。暴れな。ホンマに落ちるで……ぐへぇ」
葵は虎児の首に腕を回して軽く締め付ける。
「……まぁ、嬢ちゃんは体ン中に
けど安心し。嬢ちゃんはまだ大丈夫や」
「……うん」
葵は腕の力を緩めた。暴れることもなく、そのまま虎児に背負われ続ける。
「すまんな、嬢ちゃん、嫌なこと思いださせて悪かった」
ぽつりと虎児が言う。
「ううん。大丈夫。ありがと猫オジ」
それは葵の本心からの言葉だった。
昔のことを思い出すと怖さはある。だが、最初の頃のように恐怖に体が支配される感覚はない。こうして虎児に背負われていると、不思議と四年前のことでも落ち着いて話すことができた。
「でも本当に申し訳ないって思うんなら、猫オジの話もしてよ」
「ワイの? なんも面白いことあらへんで」
「なんでもいいから……そうだ、猫オジはなんで、えくりぷす……だっけ? それになったの?」
しばらく沈黙した後、虎児は話始めた。
「ワイな。好きなオンナがおってん」
突然の告白に、葵の表情が固まった。なぜだろう、この話は聞きたくない気がする。けれど話して欲しいと言った手前、やめてとは言えなかった。
そんな葵の様子に気づくことなく、虎児は言葉を続ける。
「そいつは
その時に唆した女狐を追って来た男に〝
「それで……その
「いや、まだピンピンしとる。あいつを唆した女狐と一緒にどこかの街で暮らしとるやろうな」
何かを思い出すような苦笑。虎児の横顔は少し寂しそうに、葵には思えた。
「猫オジは、さ」葵が躊躇うように言葉を紡ぐ。「その
「……アイツは完全に月に捕らわれてしもうた。せやからもう〝人〟には戻れん。かと言って好きなオンナを狩るつもりもワイにはない」
「……じゃあ、一緒に居たいんだ? その
葵は虎児の肩に額を当てるようにして俯く。
「せやな。できればそれが一番ええ。いまでも取り戻したいと思うとる。
でもな。一緒におれへんでも、少しでもあいつと同じ時間を生きたい思うたから、ワイは〝
「同じ時間?」
「〝
「月の力を……借りる?」
「滑稽やろ? 〝
せやけど多少は月の影響を受ける分、ワイらは歳とるんがちぃとばかし遅い。少しは〝
「…………」
「まぁ、〝人〟であった時よりは……ってだけやけどな。でもこうして〝
「少し……羨ましいな。そうまでして想われてるって」
ぽつりと葵が呟いた。
「なんや?」
「ううん。なんでもない。じゃあ、猫オジはその
「アホ抜かせ。さあ、着いたで」
虎児は寮の手前で足を止めた。太郎丸が寮の扉の前に立ってこちらを向いている。
葵は名残惜しそうに背中から降りた。
「猫オジ。今日はありがと」
葵が笑顔を向ける。虎児は葵の頭に軽く手を乗せた。
葵は虎児の岩を削りだしたかのようなごつい手を置かれても、嫌な気はしなかった。手の温もりが少女の心を元気づける。
「今夜はワイと太郎丸先生で見張っとるから、安心して眠り。アイツのことは二、三日でカタつけたるさかい」
それだけ言うと、虎児は葵に入るように表情で促した。
だが、葵はいつまで経っても寮に入らなかった。一瞬だけ悩むような表情を浮かべて俯く。そして顔を上げると、虎児の目を真っ直ぐに見つめてくる。
「猫オジ。あたし自分の過去にケリをつけたい。猫オジと一緒に行っちゃだめ?」
「だめや」虎児は即答する。
「なんで!?」
「危険やからや。こっから先は〝人〟の来る世界やない」
「あたしは、ずっと月夜が怖かった。いまだって正直怖い。月だって大っ嫌い。
でも、猫オジに会えて少しだけ怖くなくなった。猫オジになら頼っていいかもって思った」
葵が虎児に詰め寄る。
「けど、アイツのことを猫オジに任せて解決しても、きっと月夜が怖いままだと思う。たぶんこの先ずっと、死ぬまで月夜が怖いままだよ。過去を引きずったままだよ。
それなら自分の手で……それが無理だとしても四年前の事件の終わりを自分の目で確かめたい。じゃないと振り切れない。
そのくらいの権利、あたしにだってあるでしょ!?」
少女の真っずぐな瞳が虎児を捉える。必死で、素直で、強い意志を秘めた瞳。
虎児は根負けしたようにため息をついた。
「分かった。ワイの言うことは絶対に聞くこと。危ななったら逃げる。この二つは約束してくれ」
「猫オジ!」
葵は虎児に飛びついた。
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