八夜 玉桂にて 其ノ一

 目の前のそれはずいぶん古い建物に見えた。ビルのテナントではなく、小さな二階建ての建物。白い壁は煤けていたし、少し張り出した出窓も入り口と思われる扉も木製だった。

 放課後、美紀みのりは朝見かけた建物の前に、ひとりで立っていた。


「開いてる……よね?」


 扉も窓も、カーテンは開けられていた。中からは淡い光が漏れている。

 瑞穂みずほに言われて少し不安になっていたが、お店なのは間違いないようだ。その証拠に扉には、店名らしき『玉桂たまかつら』と書かれた木製プレートと、同じく木製のプレートに『OPEN』の文字が書かれたものが掛かっている。


 目を閉じて深呼吸を三度。最後に息を吐くときは、軽くお腹に両手を重ねてゆっくりと。昔に祖母から教えてもらったおまじないをして、美紀は意を決したように扉に手をかけた。

 長めの棒状の取っ手の上に『PULL』と書かれた小さなプレートが貼り付けてある。それに従って引くと、扉は思ったよりも軽い力で動いた。


 ――カラン、カラン。


 来客を告げるベルがなった。その音の予想外の大きさに、美紀の体は一瞬すくんだ。恐る恐るといった様子で店に入る。

 中はそれほど広くなかった。大きさだけなら、学校の教室の半分くらいだろうか。柔らかな照明に照らされた店内には、木製の低い棚と机の配置で工夫された通路があった。


佳乃よしの? 早かったね」


 数歩も歩かないうちに、店の奥から声が聞こえた。澄んだソプラノの、耳に心地よい声。そこに足音が続く。

 小柄な女性が目の前に現れた。美紀も決して背が高いとは言えないが、美紀よりも小柄でほっそりとしていた。だが、白いタートルネックのセーターにスリムジーンズという姿は、全体的に女性としての曲線美を十分主張している。


「あら、お客さん?」


 女性は軽く首をかしげた。腰まで届こうかという黒髪が一瞬揺れる。やや横長の目は、瞳が大きく黒目がちだ。随分と大人びた雰囲気はあるが、歳は美紀より少し上くらいに見えた。制服を着て先輩だと紹介されても信じてしまうだろう。


「…………」


 美紀は言葉もなく、目の前の女性に見とれていた。

 それくらい女性は美人だった。それも同性を引きつけるぐらいの。だが美紀は、見た目ではなく彼女の存在そのものに引きつけられるように見とれていた。


「どうしたの? 大丈夫?」

「え、え? あ、は、はい」


 見とれていた自分に気づき、恥ずかしさから美紀は思わず顔を伏せた。

 そんな美紀の様子を見て女性はくすりと笑う。


「びっくりさせたかな。ごめんなさいね。開店したばかりなんだけど、お客さんなんて珍しいから」


 柔らかな声に、美紀は顔を上げる。女性は落ち着いた大人の表情で美紀を見ていた。


「その制服……城明じょうみょう高校の生徒さん?」

「あ、はい」

「どうぞゆっくり見ていってね」

「あ、はい」


 自分でも間抜けだと思いながらも、美紀は同じ言葉しか言えなかった。照れ隠しに店の中を見回す。

 棚と机にはところ狭しと商品が並んでいる。多くは木製の雑貨だった。写真立てや、ドアプレート、小物入れなど。店の一角には陶器製の小さな人形や、外国の映画に出てくるような人形もあった。


 美紀はゆっくりと店内を歩く。そして店内をひと回りした後、アクセサリーが置いてある場所で立ち止まった。

 木製の小さな飾りといった商品がほとんどだか、中には天然石を使ったものもあった。

 その一つに目が止まる。


「気に入ったのがあったら、遠慮せずに試してみて」


 声に後押しされるように、美紀は手に取った。

 まずパチンコ玉ぐらいの大きさの石が目につく。それは石そのものが発光しているかのような、淡い白色につつまれていた。さらに黒く光沢のある細木細工が、石を中心とした六芒星を作りだしていた。革ひもが通してあり、首にかけられるようになっている。


月長石ムーンストーンよ」


 美紀はハッと振り返った。思いのほか近い位置に女性の姿があった。


「綺麗ですね。光ってるみたい」


 いつの間にか近づいていた女性に驚きながらも、美紀は素直な感想をもらした。

 店内を見回した時に真っ先に目についたのがこの月長石ムーンストーンのペンダントだった。他の商品を見ているときでも、ついついこのペンダントに目がいってしまう。

 呼ばれたというのは変かもしれないが、美紀はこの商品に呼ばれた気がした。


「いくつもの層が重なり合ってできているの。だから内部で光を乱反射して、石そのものが光って見えるのよ」

「へぇー」

「でも……」


 そこで女性はいったん言葉を切り、笑みを浮かべた。それは同性の美紀が見てもドキリとするような艶やかな笑みだった。


「この月長石ムーンストーンは特別。月の光を中に閉じこめておけるのよ」

「え?」


 美紀は〝月〟という言葉に思わず反応した。なぜだろう、彼女の口から出てきた〝月〟という言葉には、ふだん自分たちが使う以上の想いが込められているような気がした。まるで恋人の名でも呼ぶかのような。

 なに気ない言葉のはずなのに、美紀は大胆な告白を受けたかのような気恥ずかしさを覚えた。心臓の鼓動が速くなっているのがわかる。もしかしたら顔も赤くなっているかもしれない。


「つけてみるといいわ。きっと似合うから」

「あっ」


 女性は美紀の手からペンダントをとった。そして、壊れものでも扱うかのような優しさで、美紀の首へとかけてくれる。


「やっぱり、似合ってる」


 美紀がドキリとしたあの笑みを、女性は再び浮かべた。


「ほら、こっちにきて自分でも見て」


 美紀は手を引っ張られ、近くの椅子に座らされた。目の前には机とその上に鏡があった。丸い木製フレームの鏡は丁寧に磨かれており曇り一つなかった。

 その中に、美紀は制服姿の自分を見つける。紺のブレザーに白いブラウス。制服と同じ色の紺と茶系のストライプのネクタイ。いつもどおりの姿だが、一カ所だけ違うところがある。

 タイの結び目より少し下に、かけてもらったペンダントがあった。淡い白色の光を放っているように見える。女性の言葉を真に受けたわけではなかったが、それは確かに月の光に似ていると思った。


「?」


 ふと、声が聞こえたような気がした。後ろのいる女性の声ではなく、また自分の声でもない。

 どこか遠くから聞こえて来るような、か細く、高く、澄んだ声。それはまるで――


「……歌?」


 それを認識した瞬間、美紀の全身は歌声に包まれた。

 後ろで見ていた女性は、美紀の言葉に表情を変えた。驚きに見開かれる瞳。固まった表情。しかし、それはすぐに柔らかいものへと変わる。浮かぶ感情は喜びか。


 鏡越しに見えるはずの女性の変化を、しかし美紀が見ることはなかった。顔は鏡の方を向いていても、少女の瞳には回りはおろか自分の姿すら映っていない。

 声は相変わらすか細いが、今ははっきりと聞こえる。だが何を言っているのかはわからない。ただ、声が一定のリズムをもっているのは理解できた。

 優しく包むような歌声だった。聴いていると、体の奥から暖かいものが溢れてくる。

 それは美紀が初めて感じる感覚だった。


「……はぁ」


 思わす吐息がもれた。空気を求めてすぐに息を吸い込む。美紀の鼓動は先ほどよりもさら速く、そして力強く打つようになっていた。


「ねぇ――」


 女性の両手が、美紀の両肩に優しく触れた。触れられた場所から波が起こる。水面に落ちた小石がつくる波紋のように、それは小さいながらもゆっくりと全身に広がった。

 美紀の体が小さく震え、思わず目を閉じた。そして何かに耐えるように口元を引き締める。

 耳元で声がする。


「あなた、もしかして月が好きなの?」

「っ……あぁ」


 思わず声が出るほどの衝撃が美紀を貫いた。女性の口からでた〝月〟という言葉に、体が反応している。

 懐かしいような、もの悲しいような。嬉しいような、切ないような。色々な感情が入り交じった収まりのつかないもどかしさが、美紀の心に浮かぶ。


「ふぅ……はぁ……はぁ」


 喘ぐように息を吐き出し、また吸う。それを何度かくり返し、美紀はようやく目を開けた。

 鏡には自分の姿が映っている。わずかだが頬が上気していた。そのすぐ横には女性の顔。まるで写真でも撮るかのような二人の距離。


月が好きなのね?」


 女性は鏡の中の美紀に問いかける。

 美紀は答えることができない。「はい」とも「いいえ」とも、うなずくことも首を横に振ることも、少女にはできなかった。

 ただ、自分に問いかける鏡の中の女性を見つめるのみだ。


 ――カラン、カラン。


 静寂と膠着は、来客を知らせるためのベルによって破られた。

 美紀はハッと我に返ると、慌てて立ち上がった。


「あ、あ、あの、すみませんっ。また来ます」


 そして女性にいち礼すると、逃げるようにその場を去る。 


紅葉くれは、帰ったよー……って、わっ!」

「すっ、すみません」


 入り口付近で誰かとぶつかりそうになる。美紀は相手をよく見ることなく、外へと飛び出した。

 どれくらい走ったのかはわからない。気づくと、あの店があった場所からずいぶんと離れたところにいた。思わず道端にへたり込んだ。

 まだ、心臓がドキドキしている。それは走ったためだけではないことを、美紀は理解していた。店での出来事が思い浮かぶ。あのときの声は、今は聞こえていない。

 目を閉じて深呼吸を三度。最後に息を吐くときは、軽くお腹に両手を重ねてゆっくりと。祖母のおまじないをする。

 美紀はなんとか落ち着いた。そして立ち上がろうとした時に首に違和感を覚え、手を当てた。何か堅いモノが指に当たる。


「あっ!」


 それは月長石ムーンストーンのペンダントだった。つけたまま飛び出てしまったのだ。


「どうしよう……」


 美紀はペンダントを握ったまま、途方にくれた。

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