三夜 〝月に捕らわれし者〟と〝月を喰らいし者〟

 十五夜を迎えた月が夜空に座していた。

 佳乃よしのは息を切らしながら公園の前に立っている。気を失った次の日、彼女は一日を自室のベッドで過ごした。横になって考えるのはやはり紅葉くれはのことだった。

 紅葉と話したいと思った。だが佳乃は連絡先を知らない。学校が休みである今、彼女と佳乃の接点は月と、そしてこの公園だけだった。


 佳乃の期待通り、紅葉は公園にいた。二日前の夜に見た時と同様、両手を広げ空を仰いでいる。今夜は紺のノースリーブにジーンズという出で立ちだった。

 佳乃は軽く首を振って意を決すると、中へと入っていった。


あきさん」


 紅葉は静かに佳乃の方を向いた。


「……染井そめいさん。何をしに来たの?」


 冷たい言葉。だが、その瞳には柔らかな光。


「あたしね、秋さんと話したいと思ったの」

「…………」

「あれから色々考えた。秋さんの言ったこととか」


 紅葉は何も言わず、じっと佳乃を見つめている。


「それでね、少しだけ判った気がするの」

「…………何を?」

「秋さん、仲間が欲しかったんでしょ?」

「!」


 佳乃の言葉に、紅葉は一瞬顔をこわばらせた。


「本当のことを話せる友達が、欲しかったんでしょ?」

「そんなこと――」


 語尾が消える。さらに言葉を続けようとして口を開き、声もなくまた閉じる。紅葉は俯いた。


「どうして」


 ようやく絞り出した紅葉の声は掠れていた。その言葉は完全ではない。だが佳乃には、はっきりと聞こえていた。


「あたしも同じだから」


 優しい瞳で紅葉を見る。そこには嫉妬も恐怖も、憧れも憧憬もない。哀れみも悲しみもなく、ただひたすらに優しい気持ち。


「あたしも仲間が欲しかった。月の話をしても笑わない友達が。何でも話せる友達が欲しかった」


 普通の会話をするだけなら佳乃には知花ともかという友達がいる。親友と言ってもいいかもしれない。

 でも、知花には月に対する〝想い〟を話せない。


「…………」

「だから……秋さんの気持ち少しだけ判る」


 そう言って、佳乃は折り込んだメモ用紙を差し出した。紅葉は顔を上げて佳乃を見る。不思議そうな瞳で。


「あたしのケータイ番号とメアドが書いてあるの。ね、もっといっぱい話そうよ? 朝も昼も夜もたくさん」


 紅葉の瞳が大きく見開かれる。その表情はあどけない幼女のようだ。メモに向かって手が差し出された。その手は震えている。

 佳乃は自分から紅葉の手を掴む。怖くはなかった。自分が払ってしまった手はこんなにも小さかったのだ。小さくて、暖かい。

 佳乃はそのままメモを握らせた。紅葉は再び俯く。


「………ありがとう」


 言葉を紡ぐ声は小さかった。けどその言葉には紅葉の心があった。

 佳乃はそんな彼女を見て微笑む。


「でも、だめ」

「?」

「やっぱり、染井さんを巻き込めない」

「巻き込むって……?」

「…………」


 紅葉は答えない。ただ俯いたまま、黙っているのみだ。


「話せないことなの?」

「……ごめん。忘れた方がいい。それが染井さんの為になるから」

「秋さん、卑怯だよ」


 抑揚を抑えた佳乃の声。感情を抑え込んだ声。だが、それもすぐに崩れる。押さえ込めない感情が叫び声となって出てしまう。


「月が歌ってるって教えてくれたの、秋さんの方だよ! あたし、最初は悔しかった。自分より月のこと知ってる秋さんに嫉妬してた。

 でも、同時に嬉しかったんだよ! 月のことを話せる友達ができたって」

「……わたしも嬉しかった!」紅葉も叫ぶ。「最初に教室で染井さんを見たとき、すぐに判った。染井さんは月に捕らわれてるって。偶然に感謝した。染井さんなら――」


 感情を高ぶらせていた紅葉の言葉が急に止まった。ハッとした表情で公園の入り口を見る。

 佳乃もつられて視線を向けた。そこには神父服を着た外国人が立っていた。くすんだ金髪の、背の高い中年の男。それは佳乃が校門で見たあの神父だった。


「I sought you for a long time」


 男は紅葉に向かってそう言った。対する紅葉は硬い表情で黙っているのみだ。


「久しぶりに会ったというのに、挨拶もなしか。まさか、言葉を忘れたわけではあるまい?」


 流暢な日本語が男の口から出た。


「……日本まで、追いかけて来たの」

「逃がしはしないさ。〝月に捕らわれし者ルナティック〟を狩るのが、我々〝月を喰らいし者エクリプス〟の使命だからな」


 男は冷たい笑みを浮かべた。瞳には憎悪の炎が揺らいでいる。


「この前の神父さん……? 秋さんの知り合いなの?」


 二人の会話に佳乃はついていけない。思わず紅葉の顔を見る。


「染井さん、こいつに会ったの!?」


 驚いた表情の紅葉。佳乃に視線を移し、すぐに男を睨む。

 睨まれた男は軽く肩をすくめた。


「紅葉と同じ匂いがしたからな。この娘を追えば君に会えると想った」

「気安く名前を呼ばないで。染井さんは関係ないわ。〝月に捕らわれし者ルナティック〟ではないもの」

「〝月に捕らわれし者ルナティック〟に関わった者は、全てその存在を抹消する。君の両親のようにな」

「!」


 神父の言葉に驚いて、佳乃が紅葉を見た。彼女の表情は硬かった。それが神父の言葉の真偽を示していた。

 紅葉が一人暮らしをしていることはクラスで噂になっていた。帰国子女ということもあって転校当初は話題の的だったのだ。その理由も色々と想像されたが真実を知る者はいない。


「それに見逃したとしても、いずれはなる。彼女は君と同じだ」

「……だめよ。染井さんには、指一本触れさせない」

「ほう。私と戦うのか? 君が? もう、守ってくれる親はいないぞ」


 そう言って男は右手を振り上げた。銀光が、佳乃へと向かって来た。紅葉が佳乃の前に左腕を突き出す。


「秋さん!」


 突き出された紅葉の腕には、手術用のメスのような小さな刃物が三本、突き刺さっていた。白い腕から黒い液体が流れ出ている。錆びた鉄のにおいが佳乃の鼻孔をくすぐった。月明かりだけでは判りにくいが、黒く見えるそれは紅葉の赤い血だ。

 再び男が腕を振った。紅葉は佳乃を抱えると人間離れした跳躍力でその場から離れた。公園によくある、セメントで作られた小山の後ろへと隠れる。突然のことに佳乃は声も出ない。


「少しはマシになったか。今夜はいい月だからな。楽しませてくれ」


 男の声が聞こえる。同時に足音も。男は公園へと入ってきた。


「あ、秋さん」


 佳乃が隣の紅葉を見る。紅葉は腕に刺さった刃物を引き抜いているところだった。


「……染井さん、ここに隠れてて。絶対、あなたには指一本触れさせないから」

「……!」


 紅葉の瞳は赤く染まっていた。口にはあるかなしかの笑み。冷たく残忍な笑み。それは、佳乃の見たことのない笑みだった。思わず後ずさる。

 そんな佳乃に紅葉は気づかない。彼女は再び跳躍すると小山の向こうに消えた。

 佳乃だけがその場に取り残される。


(わけが判らない)男は紅葉のことを〝月に捕らわれし者ルナティック〟と言った。そして自分はそれを狩る〝月を喰らいし者エクリプス〟だと。

 男の言った「狩る」とはなんのことなのだろうか。「存在を抹消する」とも言っていた。(わけが判らない)いや、自分は判っている。男の口にした言葉の意味に気づいている。それを認めたくないだけだ。(わけが判らない)そもそも〝月に捕らわれし者ルナティック〟とはなんなのだろうか。〝月を喰らいし者エクリプス〟とはなんなのだろうか。(わけが判らない)なんなのだあの二人は。

 紅葉の人間離れしたあの動きはなんなのだ。(わけが判らない)身長差のある自分を紅葉はなんの苦もなく抱え上げた。(わけが判らない)(わけが判らない)(わけが判らない)

 自分はいったい、こんなところで何をしているのだろう……。(わけが判らない)


 気づくと、佳乃はしゃがみ込んでいた。どのくらいの時間こうしていたのか判らない。頭を抱え、子供のように震えていた。なぜこんなに震えているのか判らない。なにを恐れているのかも判らない。ただ赤い二つの光だけが頭から離れない。(わけが判らない)


「染井さん」(わけが判らない)

「染井さん!」


 佳乃はようやく我に返った。


「もう、大丈夫よ。あいつは倒したわ」


 紅葉はそう言って笑った。淡い笑みを口元にたたえ、楽しげに、艶然と、笑っていた。佳乃を見つめるその瞳は赤い。


「立てる?」


 紅葉は手を佳乃の目の前に差し出した。白かった彼女の手は前腕の半ばまで妙に黒く見えた。そしてなぜか、錆びた鉄の匂いがした。

 それを血の匂いだと認識したとき――


「いや! 来ないで、来ないで、来ないで!」


 佳乃は紅葉の手を思いっきり振り払った。その拍子に尻餅をついてしまう。そしてまるで子供が嫌々をするように首を振りながら後ずさった。

 紅葉がハッとする。そして自分の手を見る。血に染まった自らの手を。


「わたし……わたし……」


 紅葉はうわごとのように呟いた。そして再び佳乃を見たとき、紅葉の瞳から赤い光は消えていた。

 先程のような微笑みもなく、ただただ無防備な泣き顔がそこにはあった。


「秋……さん?」


 初めて目の前にいるのが紅葉だと気づいたような佳乃の声と表情だった。その声を聞いて、その表情を見て、紅葉の顔が泣き笑いになる。


「わたし、人間に見えないでしょ? バケモノでしょ? 月に完全に捕らわれてしまうと、こうなるのよ」


 紅葉の頬を涙が伝った。月光を集めたような雫が、地面へと落ちる。


「あ、秋――」

「……染井さん、ごめんね」


 佳乃に全てを言わせることなく、佳乃の目の前から紅葉は忽然と姿を消した。


「秋さん!」


 佳乃は立ち上がった。セメント製の小山を回り込み公園の中を見回す。見える範囲に紅葉の姿はない。そのまま公園の中を探し回る。遊具の一部は壊れていた。まるで鋭い刃物で切られたような壊れ方をしている。

 中規模とはいえ決して大きな公園ではない。公園内をすべて見回るのに、それほど時間はかからない。

 公園には誰もいなかった。神父服の男の姿も、そして紅葉の姿も。

 佳乃は夜の公園にまた取り残されたのだ。佳乃の脳裏に紅葉の浮かべた泣き笑いの顔が浮かぶ。

 それはなぜか、大事なものを無くしてしまったような寂しい思いを佳乃の胸にもたらした。

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