第二章 定住
第18話 束の間の休息
穏やかな日差しの中、少女が小鹿のように駆けてゆく。その足取りは、まるで羽が生えているかのように軽やかだ。
瞳は輝き、頬は朱色に染まっている。ずっと走って来たから――確かにそれもあるだろう。
しかし、理由はそれだけではない。この先の事を思えば、自然と気持ちが昂揚してしまうのだ。
――早く、彼に会いたい。
少女の頭にあるのは、ただそれだけだった。
彼は今日遅番であると、彼の上司に聞いた。ならば時間になるまであの場所にいる筈だ。
――彼の行動を把握出来ている事が、嬉しかった。
――彼を理解出来ていることが、嬉しかった。
頬が更に熱を帯びてゆく。彼の秀麗な容姿を思い浮かべれば、自然と速度が増してゆく。
通い慣れた道を、少女はひたすら走り続けた。
やがて少女が小高い丘に辿り着いた時、漸くその足が止まった。肩で息をしながら、素早く辺りを見渡す。
その瞳に、新緑に混じる稲穂が映った時、少女の鼓動が高鳴った。大きく深呼吸をし呼吸を整えると、乱れた髪を手早く梳く。
そしてゆっくりと歩き出した。
「……~~~~っ!!」
喉が張り付いて、声が出ない。再び深呼吸をして気持ちを落ち着けると、彼を呼んだ。
「……アル!!」
名を呼ばれ、寝転がっていた少年が身を起こした。さらり、と髪が揺れ、黒曜石の様な美しい瞳が少女を映す。
少年と目が合った瞬間、少女は呼吸を失った。息を吸っている筈なのに、酸素が全く入ってこない。
……落ち着け……落ち着け……。
何度も言い聞かせると、何とか呼吸の仕方を思い出す。
「……やっぱり此処にいた!」
僅かにか掠れる声を誤魔化すように、明るく振る舞う。
「……パノ……」
その美しい声に名を呼ばれると、整えた筈の少女の鼓動は再び乱れた。
「……ディ……ディルおじさんが今日は遅番だっていうから、絶対此処だって思った」
「何か用か?」
「これ!お昼ご飯持ってきたの。どうせ昨日の夜も食べてないんでしょ?」
少女――パノが胸に抱いていた籠を突きだすと、アルは僅かに視線を反らす。
「やっぱり!!もうっ!食事は生命の活力源よ!ちゃんと食べなきゃ駄目じゃない!!」
腰に手を当てぷうと頬を膨らませる少女を無感動な瞳で見つめ、少年はぽつりと呟いた。
「ああ。俺は腹が減らないから、1人だとどうしても忘れてしまう」
「……全く、アルは私がいないと駄目ね。――はい。これお昼に食べてね」
少年の眼前に籠を突き付けると、悪戯っぽく微笑んだ。
「ああ……いつもすまない……。」
少年が籠を受け取ると、パノは嬉しそうに微笑んだ。
「いいのよ。お礼だもの」
その言葉を聞いて、アルは真摯な瞳でパノを見据える。
「――パノ。いつも言っているが、礼など不要だ。あれは俺が受けた仕事であり、ピトとの約束だ――お前が恩を感じる必要はないんだ」
「そっちこそ!いつも言ってるけど、私はアルに命を救われたのよ?
一生かかっても返しきれない恩があるんだから、せめてこれくらいさせて頂戴」
僅かに眉を吊り上げたパノに、思わず苦笑を洩らす。
「……お前は頑固だな……」
その微笑みを見た瞬間、パノの頬は一気に熱を帯びる。彼は常に表情がなく、滅多に笑わない。その笑顔が自分に向けられたのだと思うと、嬉しくて 泣きそうになる。
「……そろそろ時間だな……」
その言葉で、パノの心は寂寥感でいっぱいになる。
――もっと 彼の顔を見ていたい
――もっと 彼の声を聞いていたい。
――もっともっと、傍に居たい
けれど、そのような我儘を言って、彼を困らせる事はしたくなかった。彼に、嫌われたくはなかった。
「……うん……お仕事……頑張ってね」
無理やり声を絞り出すと、明るい笑顔を張り付かせる。
パノが踵を返そうとすると、アルは籠を僅かに持ち上げ、感謝の意を示す。
それを視界におさめたパノは、顔いっぱいに喜色を浮かべ、再び来た道を走りだした。
パノが走り去って行った後、アルは小さく溜息を吐いた。
『――この、頑固者が……』
過去に何度この台詞を吐いたことだろう。
彼の親友は、その繊細な顔立ちとは裏腹に、随分と我儘で自分勝手で――そして頑固だった。
『いい加減にしろ!!シリル!!』
アルは友を睨みつけ、怒りに任せて怒鳴りつける。その迫力に、周りにいた人間は思わず後ずさる。緊迫した空気が流れ、皆固唾をのんで見守るしかない。
しかし、当の本人は笑顔を絶やさず――
『勝手にしろ!!俺は知らん!!』
『うん。勝手にするよ。僕1人でもやるからね。――でも、君は僕を護ってくれるんだろう?』
彼は無垢な笑顔で告げた。
『~~~~っ!!』
行き場のない怒りがアルを苛む。
『この……っ!頑固者がっ!!』
友に怒りをぶつけるも、彼はにこやかに受け流す。
『うん。知ってる。僕は頑固だよ』
あっさりと認めた彼に、アルは言葉を失う。
『僕は我儘で頑固で人の話なんて聞かない。――君だって、良く知っているじゃないか。』
あまりにもあっけらかんと開き直られ、アルは疲れたように呟いた。
『……最悪だな、お前……。何1ついいところがないじゃないか……』
『あ、酷いなぁ。それが親友に向かっていう台詞?』
子供のように頬を膨らませる。
「……本当に、最悪だな……お前は……」
ぽつりと呟く。
――彼に何度、振りまわされただろう。
――彼に何度、困らされただろう。
――彼に何度――救われたただろう。
何をしていても、誰と居ても、思いだすのは彼の事で――
そのたびに、アルの心は苛まれる。
――彼はもう いないのに―
ぶんぶんと頭を振って、意識を現実に戻す。
パノの走り去って行った方角を見つめる。
彼女が自分に脅えていることは分かっている。
アルは知っている。自分に話しかける前に、意を決するかの様に立ち止まっている事を。話している時、声が僅かに震えている事を――。
だがしかし、彼女と初めて会った時の事を思えば、当然のことだとも思う。
彼女と初めて会ったのは、あの依頼の時だった――
賊に見つかるという誤算はあったものの、おおよそは彼の計画通りに進んだ。
あの時アルが立てた計画は、計画といえない程に簡素なものであった。
それは、賊を見つけた後ルファに皆を呼びに行かせ、その間に賊を殲滅させる、というものだった。
只、途中で見つかった所為で、ルファの安全を保証できなかった。しかし彼の足を以てすれば、賊など容易く振り切れることだろう。
――初めから、1人で片付けるつもりだった。
誰にも邪魔されたくなかった。
帝国の連中は、この手で刈り取りたかった。
目的通り1人で片付けたものの、アルは怒りで我を忘れていた。
しばらく呆然としてたアルは、人の気配で我に返った。ルファが呼んでくれたのだろう。
そして思いだす、ピトとの約束。
後始末は他の連中に任せ、アルはパノを探しに行った。
彼らが根城にしていたらしい洞窟――屹度彼女も其処にいるに違いない。
洞窟には、宝物や金貨、大量の酒や食料が保管してあった。
奥の広間には、祝杯でも上げていたのだろうか、空いた酒瓶や飲みかけの杯が放置されていた。
きつい酒の臭いが充満する中、少女が震えて座っていた。
少女が3人――否、2人と言った方が正しいのか。
1人は既に呼吸をしておらず、2人は手足を縛られ、震えていた。
つかつかと少女に歩み寄るアル。
一目で分かった。
茶の瞳と髪。脅えた表情。幼さの残る顔立ち――
少女は――パノは、ピトと面影が似ていた。
「――お前の名は?」
問いかけるが、少女は呆然としていた。
アルは嘆息すると、再び少女に語りかける。
「ピトに頼まれた。姉を助けてくれと。
――ピトを、知ってるな?」
「ピト……に……?」
その名を聞いた瞬間、少女の瞳に光が宿る。
「お前はパノ……か?」
その問いかけに、少女は確りと頷いた。
――あの時、自分は殺気立っており、恐らくは悪鬼の様な顔をしていたに違いない。
年頃の少女なら、脅えてしまうのも仕方がない。
その上昔から、目つきが悪いだの態度がでかいだのと文句を言われ続けてきたのだ。
あの事がなくとも、きっと怖がられてしまったことだろう。
それでも彼女は恩を感じ、恐怖に耐えてまで自分に恩返しをしようとする――
「アイツ程ではないが、パノも充分頑固だな……。」
ぽつりと呟くと、籠を手に立ち上がる。
頑固者に何を言っても無駄だということは、厭と言う程理解している。
アルはパノの気持ちを有り難く受け取っておくことにして、仕事に向かった。
――パノの気持ちを全く理解していないアルだった……。
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