第13話 それぞれの夜~夜は過ぎ行く~

其々の夜~夜は過ぎゆく~


 アルの先導で案内された家は、村の中で一番大きかった。とはいっても寂れた田舎の中である。都会のような大きな屋敷ではなく、華美な装飾なども一切施されてはいない。中に入ることは滅多にないとはいえ、仕事で貴族の屋敷を見慣れているルファからしてみれば、「こぢんまりとしている」と形容出来る。

 ルファ達を迎え入れてくれたのは、人のよさそうな壮年の男だった。彼の妻らしきおっとりとした女性がお茶を入れてくれている。特に意味もなくその手元をぼうと見つめていると、まるで何でもないことのようにアルが囁いた。

「あれが依頼人だ」

「え……ああ……届け物の……」

 何を今更。怪訝そうに見上げると、どこか悪戯っぽい表情を浮かべたアルの視線とぶつかった。

「それもあるが……もうひとつの方もだな」

「もう……1つ……?」

 こんな表情もするのかと、意外な気持ちで見つめていたルファは、その意味を理解するのに時間がかかってしまった。

「…………え……もうひとつ……て……」

 まさか。その思いが顔に出ていたらしい。アルが悪戯の成功した子供のような顔をしていた。その唇がゆっくりと動き、理解力のない子供に言い聞かせるように、言葉を紡いだ。

「賊退治だ」

「えええええぇぇぇぇぇ?!」


 一拍の後、ルファの叫びが屋敷中に響き渡った。



「夜中に近所迷惑だろ」

「………すみません……」

 相変わらずの無表情ながら、僅かに笑いをかみ殺すかの様な表情を浮かべたアルの言葉に、彼を睨み上げながらも謝罪の言葉を口にする。

(一体、誰のせいだと……)

 今回の依頼人は不明。詮索もご法度だと事前に説明を受けていた。だから、こうもあっさり紹介されてしまうと、驚けばいいのやら呆気にとられればいいのやら、反応に困ってしまうのだ。

 ルファの反応がお気に召したのか、依頼人らしい男は笑いをかみ殺し肩を震わせ、彼の奥方も突然の絶叫に驚いてはいたものの、口元に笑みを浮かべている。

(~~~っ!!人が悪いですよアルさん……)

 当の本人は、意地悪そうに口の端を上げていた。そうしていると、歳相応の少年のようで。先程の表情といい、なんだか彼に対する印象が変わってしまった。

 ルファが彼に抱いていた印象は、無表情・無愛想・無口で、鬼のような悪魔のような恐ろしいオーラを纏った人間だった。

――しかし、今の彼を見ていると――

 アルという人間が、更によく分からなくなってしまったルファだった。



 ルファは、難しい話をしている2人を呆と見つめていた。依頼人だという人のよさそうな男は、この村の村長らしい。真剣な顔をして話し合う2人を見つめながら、先程の会話を思い出す。

 アルは、驚くルファに悪びれもせず一言「カマをかけた」と言い放った。その言葉に村長は、笑いながら「かけられました」と実に呑気に答えたものだ。

 アル曰く、これだけの兵を雇うのであれば、ある程度の経済力を持っていなければならないと。そして、それは個人ではなく何らかの行政機関であると。

 個人で莫大な経済力を誇る人間であれば、賊退治なんてリスクを負わずに、護衛の数を増やすのが定石である。即ち、その山に賊が蔓延ることで何らかの迷惑を被っている団体が痺れを切らしたのだろうと言っていた。

「この山は豊富な食料庫だ。山に入れず一番困るのは、先ずこの村の者だろう」

 そう言って、淡々と続ける。

「困り切った村の者はセルディアに掛け合ったのだろう。食料庫を荒らされて困るのはセルディアも同じだ。何より、自国で賊をのさばらせておくのは商業国としては屈辱的だろうしな」

 だからおそらくは、直接の依頼人はこの村の者――代表である村長だろうが、資金援助という形でセルディアが一枚かんでいるのも確かだろうな。そう締めくくったアルに、村長は苦笑で返す。

「アル殿には負けましたよ……。まさかあれっぽっちの情報だけでそこまで正確に推察されてしまうなんて……」


 村長が語った真実を脳内で整理する。

先ず、アルの言ったことは正しい。困り果てた村人は話し合いを重ね、セルディアの上層部へ掛け合うことに決めた。そして、セルディア側もその事実に憤慨し、商業国の誇りにかけて必ず排除することを約束してくれた。

――しかしそこで問題が起こった。

帝国との軋轢である。

セルディアは直ぐにでも軍を派遣すると言った。しかし、軍を組織し武器を持ってしまえば、帝国の恰好の的になってしまう。

悩んだ末、傭兵協会への依頼という形になったのだ。

条件としては、絶対に失敗は許されない為、一騎当千の猛者ばかりを集めること。そして万が一にでも帝国側に漏れないように、依頼人は秘匿という形をとること。

その他にもこまごまとした取り決めが行われた様であるが、協会側はそれらを快諾し、現在に至るというわけだ。


「万が一にも帝国側に漏れぬよう、依頼人不明という形をとらせて頂いていたのです。……協会側が信をおく者たちです。知られたところで不用意に触れまわるようなことはないと信じておりますが、万が一、ということもありますしね」

 傭兵たちの会話を、誰が盗み聞いているかもわからない。知らなければ、会話に上ることもない。

「特に知られて困るのはアルゴではなくセルディアだ」

 だから、村長ではなくセルディア側の提示した条件であるらしい。

「この村から直接向かわれる方――お二人程度であれば、なんの問題もないでしょう

――何より――」

 そこで一旦言葉を区切ると、まっすぐにアルを見据えて言った。

「アル殿であれば、信用できる。――それが私の受けた、印象です。」


   ※


 ルファを大きな衝撃が襲う。

 ハッと目を見開き、辺りを見渡すと、アルも村長も変わりなく話し合いを続けている。一拍の後、自分が船を漕いでいたことに気付く。

 首を振り、慌てて眠気を追い払う。しかし澱のように溜まった疲れは、睡魔の餌になってしまうらしい。再びとろんとしかけたルファに、アルの一言が飛んでくる。

「先に部屋に行っていろ。俺はまだ村長と話がある」

 見られていたのかと思うと恥ずかしくなる。頬を朱に染め俯くと、再びアルの声が届く。

「今日は随分な強行軍だった。――明日に備えて体を休めておけ」

「……じゃあ、お言葉に甘えて……」

 ここで大丈夫だと主張する事も出来るが、自分がここにいても何の役にも立たないのも事実だ。ならば明日の仕事で足手まといにならぬよう、早めに体を休めておく方がいい。

 ルファが立ち上がると、村長夫人も立ち上がった。

「部屋まで案内いたし……」

 彼女が最後まで言い切る事は出来なかった。ばぁんと大きな音を立てて、扉が開いたからだ。


 一同は、驚いて扉を見つめる。彼等の視線の先にいたのは、小さな、まだ年端もいかぬ少年だった。

 茶色い髪に、同色の瞳。何処にでもいる様なその少年は、頬を真っ赤に染め、ぜいぜいと肩で息をしていた。

「ピト!まだ起きていたのか!!」

 村長のその言葉に、ひょっとして、先程あげた自分の大声が、彼を眠りの淵から引き上げてしまったのではないかと思ってしまった。

「……ピト、今は来客中だ。部屋に戻りなさい。……ピトに温かいミルクでも作ってやりなさい」

 後半を妻に向かって言うと、彼女は「はい」と小さく返事をして、少年のもとへ歩み寄る。

「……さぁ、夜更かしはいけないわ。お布団へ入りましょう?温かいミルクを作ってあげるから」

 少年に優しく語りかけながら、手を差し伸べる。

 しかし彼女の差しだした手をふりほどき、少年は部屋の中へと足を踏み入れた。彼はまっすぐにアルを見据えると、その大きな瞳に涙を浮かべ、力の限りに叫んだ。

「お願い!!お姉ちゃんを助けて!!」


 室内に沈黙が訪れる。

 ただ、少年の荒い息遣いと、誰かの唾を飲み込む音だけが聞こえた。

 何の反応もない事に焦れたのか、少年はつかつかと歩み寄ると、ぐっとアルの服の裾を掴み、叫んだ。

「ねぇっ!!ようへいなんでしょう!?悪い奴等をやっつけてくれるんでしょう!?お願いっ!!お姉ちゃんを助けてっ!!」

 ぼろぼろと涙を流しながらの懇願。その痛ましさに誰も何も言えず、ただただ少年を見つめていた。


「……ピト……」

 沈黙を破ったのは、村長だった。

「部屋に戻りなさい。……今は来客中だから……」

「そうよ。今おじさん達はとても大切なお話をしているの。……ね?温かいミルクを作ってあげるから。お砂糖たっぷりの。ピト、好きでしょう?」

 続けて夫人も優しく語りかける。

 しかし少年の心を解きほぐすには至らず、アルの服を掴んだまま、いやいやをするように首を振り続けた。

「ピト!!」

 少年の強情さに苛立ったのか、村長は声を荒げる。しかし少年は、泣きながら首を振り続ける。

 どうしたものか、と夫妻が目配せをした瞬間――

 只一人無表情を貫いていたアルの手が伸び、少年の口を塞いだ。

「!?」

 驚いて凝視する3対の瞳に怯むことなく、少年の口元に手を添え、そのまま顔を持ち上げる。すると必然的に少年の足は地を離れ、体ごと持ち上げられる形になる。

「~~~~~~っ!!」

 少年は泣き叫ぶが、口を塞がれている為、声が出ない。3人が、あまりの乱暴さに声を失っていると、アルの凄みのある声が響いた。

「――黙れ」

 その一言に血の気が引いた。じたばたと暴れていた少年の動きが止まり、恐怖で目を限界まで見開いたまま制止する。

「きゃあぁぁぁ!!」

「ピト!!」

「アルさん!!」

 顔を真っ青にした3人が叫ぶ。

 しかし続くアルの一言で声を失った。

「黙れ」

 ぴたりと止む声。しかしそれは外野に発せられた言葉ではなく、少年に向けられたものだった。

「お前が騒いで連中に気付かれて、村は全滅、それで全てお終いか?」

 ふざけるな。静かなアルの声が室内に響く。

 決して声を荒げているわけではないのに、彼の言葉は恐怖を伴って部屋中に行き渡る。

「少しは物を考えろ。この餓鬼が」

 吐き捨てると、少年を持ち上げていた手を離す。支えを失った少年は落下し、思い切り尻もちをついてしまった。しかし痛みで泣きだすことはなく、ガタガタと恐怖で震えていた。

 凍りついていた空気が溶けだす。

「ピト!」

 しばらく金縛りにあっているかの様に動けなかった夫人が駆け寄った。少年は夫人の腕の中で、ただ恐怖で震え続けていた。

「……アルさん……」

 ルファが恐怖と非難の混じった瞳で見つめるが、アルの視線は固定されたままだった。

「――言え」

 アルは真っ直ぐに少年を射抜く。周りは言葉を失い、ただ成り行きを見守るしかなかった。


 沈黙の支配する中、ただアルの淡々とした声と、少年の嗚咽だけが響く。

「――何が、あった?」

 静かな、それでいて重みのある声。それに促され、少年はぽつりぽつりと口を開く。

「お……おねぇちゃんが、連れていかれたんだ……あいつらに……。ぼ……ぼく何もできなくて……」

 しゃくりあげながら、途切れ途切れに話す少年。文脈は目茶苦茶。ところどころに嗚咽が混じり、声も非常に聞き取りづらい。それでもアルは静かに耳を傾けていた。真っ直ぐに少年を見つめたまま。

「――では、お前の望みは?」

「お……おねぇちゃんを助けたい……。ぼく……ぼくにはおねぇちゃんしかいないんだ……。あいつら倒して、お……お姉ちゃんを……ぼく……ぼく……」

 俯いたまま肩を震わせる少年。ぱたぱたと足元に水滴が落ちて染みをつくる。その痛ましげな姿に、憐憫の情を覚える。


 ――もう、いい。


 そう言ってやりたかった。


 ――そう言って、抱きしめてやりたかった。


 しかし、アルの無言の圧力が彼等の足を止める。


「~~……っ!……っ……!!」


 声一つ出すことさえ出来ず、ただただ彼等を見守り続ける。

 ――見守ることしか、出来なかった。

「ならば、お前がすべきことは何だ?」

 容赦ないアルの言葉。夫人が少年を抱く腕に力を込める。

 しかしその手を振り払い、少年は夫人の腕から抜け出した。俯いていた顔を上げ、アルを真っ直ぐに見つめる。

「お姉ちゃんを、助けて下さい……。……お願いします……」

無言のアルに、少年はなおも続ける。

「僕じゃ、お姉ちゃんを助けられないから……。だから、強い人にお願いするしかないんだ……」

「……俺が強い?どうしてそう思うんだ?」

「なんとなく……そう見えたから……。……それに、おじさん達が話しているのを聞いたから……強い人たちが来て、あいつらをやっつけてくれるって……」

「他には、何か言ってなかったか?」

「……あいつらに気付かれないように……他の人には……秘密だって……」

「秘密というのは、大声で叫ぶことなのか?」

 凄みを増した声に、びくりと肩を震わせる。

「ごめ……なさい……」

 ぼろぼろと涙を零す少年に、アルはなおも淡々と続ける。

「どこで奴らが聞いているか、分からない。そして、奴等に知られてしまえば、奇襲作戦も失敗に終わる。……分かるな?」

 少年がこくりと頷く。それを見たアルはゆっくりと近づくと、優しく肩を叩いた。

「……名は?」

「……え……?」

 驚いて顔を上げた少年に、アルは重ねて問いかける。

「お前の、姉の名だ」

「な……まえ……?」

「そうだ。俺はお前の姉の顔を知らない。名も分からなければ、どれがお前の姉か分からない」

 その言葉に、期待に満ちた瞳を向けた。

「助けて……くれるの?」

「現在お前の姉がどうなっているか分からん以上、断言は出来んが……善処はする」

「ぱのっ……!!パノだよっ!!……お願いします……お姉ちゃんを……助けて下さい……!!」

 ルファは瞠目した。信じられないものを見るように、ただ目の前の光景にくぎ付けになった。

 少年の懇願に、アルが笑ったのだ。

 優しく、穏やかに。

「……誓おう……。」

 その言葉に、少年は再び涙を溢れさせる。それは今までの様な悲しみや恐怖からではなく、歓喜の――。

 今度こそ、夫人は少年を思い切り抱き寄せた。その肩に顔を埋め、力の限りかき抱く。

 村長は大きく息を吐くと少年のもとへ歩み寄り、その頭を撫でた。

 ――よく頑張った。 と。

 ルファはただ呆然とアルを見つめていた。既に無表情へと戻ってしまっている、その美しい顔を。

 まさか、あんな顔が出来るとは、思いもしなかった。労わる様な、そんな、優しく穏やかで、思いやりに満ちた瞳を――

 それは今まで見てきた彼のどんな表情よりも魅力的で、美しいと思った。


「……っ!!」

 少年たちを視界に納めながら、アルは激しい頭痛と胸の痛みに襲われていた。

『助けて』

 自分は、この言葉を 知っている。

『僕には、お姉ちゃんしかいないんだ……』

 この想いを識っている。

 この、胸の痛みを――



 闇い闇い世界へと堕ちてゆく。


――駄目だ。思い出すな――


 浮かぶのはただ一つの光。


 ――違う。


 思い出したことなんて、一度だってない


――何故なら 自分は


 片時も、忘れたことなんて、ないのだから――



 一片の曇りもない、眩しい笑顔。

 憎しみも、失望も、悔恨も。

 何、1つ。


 いつもお前は、ただ微笑って 残酷な言葉を 吐きだすのだ。

「生きろ」と。

 喩えどれだけ縋り付こうとも、お前はいつも光の中へと消えてしまう。

 ――俺を 残して



心が叫ぶ


叫び続ける


何度も何度も


声が枯れ果てるまで


枯れ果てた後も、ずっと 


心をすり減らし 血反吐を吐き


叶わぬと、知っていても


それでも ずっと――




――けて


――お願いだ


――助けてくれ


――あいつを……シリルを――


殺さないでくれ――



 ※


 ぎし。寝返りを打つたびに寝台が軋む。もう、何度目になるのか分からぬその音に、ルファは大きく溜息をついた。ちらりと扉に視線を送るが、未だ開く気配がない。

 不思議なもので、あれほど自分を蝕み続けた睡魔は、布団に入った瞬間に霧散してしまった。

 ――否。布団に入った、というよりは、先程の出来事で完全に目が冴えてしまったのだろう。

 ぎしと寝台を軋ませ、再度寝返りを打つ。静まり返った闇夜は、非常に不気味で落ち着かない気分にさせる。何か気を紛らわせようとすれば、矢張り先程の出来事が浮かぶのだ。



 あの後、ピトという少年を退出させた後、詳しい話が語られた。

「パノとピトの姉弟は、数年前に両親を亡くしておりまして、それからは姉弟二人きりで暮らしておりました。――ピトにとっては、パノは姉であり母であり、唯一の肉親。何よりも大切な、心の……拠り所だったのです」



 ――数年前、行商の為に街に降りた2人の両親は、そこで帝国軍に殺された。

 その言葉を聞いた瞬間、アルの体が小刻みに震えるのが見えた。血が出る程に唇を噛み、手を握りしめていた。

 その瞳は憎悪に燃え、ルファの脳内にアルの言葉がこだまする。

『俺は帝国を 絶対に許さない』

 恐怖に身を強張らせながらも、アルの顔から目を逸らせずにいた。

「パノはとてもしっかりした子でして、人に迷惑をかけるわけにはいかない、弟のピトを1人で育てると言ったのです」

 しかし子供2人だけでは生きていくことなど出来る筈もなく。村の人間が協力し合って姉弟を助けてきたと。


 そんな、ある日。街に行商に行く際、山賊に出くわしてしまったらしい。

「積荷は全て奪われ、男は身ぐるみ剥がされ惨殺。――パノを含め5人の女達は連れ去られてしまったのです」

 村長は苦しげに目を伏せた。

 商売をする村人。それらを守る数名の自警団員。そして、パノの様な「見習い」として勉強の為に同行した者。

「総勢十数名。帰ってきたものは5名。――うち、息のある者は3名でした」

 1人は直ぐに息を引き取り、1人は寝たきり状態。そして最後の1人も後遺症が残り、働くことすら出来なくなっている――と。

 その後、事態を重く見た村の者達は話し合い、そして、セルディア政府へと話を持って行ったのだ。

「ピトも同行していたのですが、咄嗟にパノが茂みに隠したお陰で無事でした。――しかし……」

 目の前で村人が惨殺され、姉が連れ去られるのを黙って見ていた――見ていることしか、出来なかった。

「ピトは無傷でしたが、心の方には大きな傷が残ってしまいました。――ピトがむきになるのも、仕方がないことなのです。」

 本当に1人きりになってしまったピトは、その後、村長夫妻に引き取られた。

 ――しかし、目の前で最愛の姉を連れ去られたこと。そして、ただ茂みの中で震えることしか出来なかった自分の無力さを呪い、ピトは塞ぎこんでしまったのだ。



 ぎし、と音を立て寝台が軋む。ルファはピトの顔を思い浮かべた。

 彼の境遇を、不憫だとは思う。しかし、正直彼が不幸なのかと問われれば、否、と答えるかもしれない。

 彼には姉がいた。それを失ってなお、村人や彼を想ってくれる村長夫妻がいるのだ。

 帝国に全てを奪われた人間は、彼だけではない。一度に全てを奪われた人間も多い。そして、「人間」でいられなくなった者とているのだ。

 それを知っているルファとしては、姉が残り、村人に受け入れられ、寝食に困らぬ生活を送れているピトは「幸せ」な部類に入るのではないかと思うのだ。

 ――自分とて、無償で助けてくれる慈悲深き者がいなかったからこそ、この歳で傭兵なんて危険な仕事をしているのだ。

 そしてそれはきっと、アルとて同じことだろう。

 おそらく彼は、ピトが「幸せ」であることを知っている。そしてアルは「幸せ」な人間ではないだろう。でなければ、あの深淵の闇を作り出すことは出来ないからだ。

 ならば何故、彼はピトと約束をしたのだろうか?

 同情・共感・正義感――

 理由は幾つも考え付くが、どれもしっくりとはこない。

 彼が誰かに同情する様な人間だとは思えないし、正義感なんてものもなさそうだ。

 ――では、何故?

『俺は帝国を 絶対に許さない。』

 ――矢張り、それだろうか?

『帝国が係っている』

 彼は確かにそう言った。ならばピトに関係なく、単に帝国を許せないだけだろうか?

 ふうと溜息をついて、布団を頭から被る。

「早く、寝なくちゃ……」

 ぽつりと呟くと、ぎゅうと目を瞑った。

 幾ら考えたところで彼の心情が分かるはずもなく、思考は頭の中でぐるぐると回り続けるだけだ。

 彼が何を考えていようと、明日の仕事には――自分には、関係がないのだから。ならば早く体を休ませなければ……。

 疲れは澱のように溜まり、一度は退散した睡魔が再度餌を求めてやってくる。

 やがてルファの瞼は閉じられ、規則正しい寝息が聞こえ始めた。

 

 ――部屋の扉は開かぬまま……




「……酒が……恋しい……」


 ルファが意識を手放した頃、離れた地でぽつりと呟く声があった。

 彼は寝台に広がる蜂蜜色に頬を埋め、切なげに溜息をついた。どうしても目が冴えてしまって、眠れないのだ。

 極上の火酒を一気に流し込み、泥のように眠りたかった。

 その甘美なる誘惑を、彼の理性が押しとどめる。

 眠ろうと目を伏せるたび、瞼の裏に浮かぶのは、闇く、深い闇。

 己を射抜く、真摯で強い、深淵の――

「……ほんと……長い夜に、なりそうだわ……」

 情けなく呟かれた言葉は、「彼」の瞳と同じ、深い闇に溶けて、消えた。





「……シリル……。」

 苦しげに押し出された囁きは、闇夜に吸い込まれていく。

『僕にはお姉ちゃんしかいないんだ』

 少年の台詞が脳内にこだまする。

「……っ!!」

 少年は、今にも泣き出しそうに顔を歪めて空を仰ぐ。

 今宵は、月が見えない。街の明かりが落ち、辺りを照らすものは何一つなかった。

 深淵の、闇。

 それはまるで自分の心のようで――

「俺には、お前だけだったんだ……」

 手を目の前に翳すが、己の手すらも闇の中に消えて――

「――光がなければ、何も、見えないんだ……」

 静寂の支配する闇夜に、少年の苦しげな独白が吸い込まれてゆく。

「……シリル……俺は、どうしたら いい?」

 答えのない問いかけを聴く者はなく、闇が少年を包み込む。



 様々な想いが交錯し、それぞれの夜は緩やかに過ぎてゆく。


 やがて訪れるのは、希望の光か


 それとも――



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