第3話 ようやく言えた好きの一言
大好きだったあの子に、告白しようとしてできなかったあの日。何度思い出しても、切なくなるだけだったシーンのど真ん中に哲郎はいる。
過去に戻るのなど不可能。そんな常識は、跡形もなく吹き飛ばされていた。
実際に哲郎は幼き頃の姿に戻っており、目の前には初恋の少女が、頭の中のキャンパスに描かれたままの恰好で立っている。
脳裏で何度も再生された映像のとおりに穏やかな笑みを浮かべ、優しげな瞳で哲郎の顔を見ている。
これは夢か。そう考えたくなるぐらいに、何もかもが理解の範疇を超えていた。
確か告白しようと決意した時に、友人が野球をやらないかと誘いに来たのだ。この頃は誰と誰が好きあってるかだけで、執拗にからかわれたりした。
それが気恥ずかしくかつ嫌だった哲郎少年は、二つ返事で友人の誘いに応じて水町玲子へ背中を向けた。
その日以降どこか気まずくなり、結局お互いまともに話をしないまま卒業の日を迎える。
そんな歴史は、一度経験すれば充分だった。同じ道を辿るのであれば、わざわざ過去へ戻る必要もない。そのまま生きていけばよかった。
タイムスリップしたのは半ば偶然だが、せっかくやり直せるのであれば、一度目とは違う選択をしたかった。
そこで哲郎はあるだけの勇気を振り絞り、相手の目を真っ直ぐ見つめて名前を呼んだ。ピリリとした雰囲気を感じ取り、自然と水町玲子も緊張した様子になる。
「水町さん……」
当時と同じ呼び方をした上で、哲郎は下げている手でグッと握り拳を作った。
従来から勇気はあまり多い方じゃない。けれど、この場面で逃げたりはできなかった。
「は、はい……」
先ほどまでの穏やかな笑みが相手の顔から消え、真剣でいながらどこか驚いてるような表情を浮かべる。
よもや哲郎が、いきなりこんな状況を作るとは考えてなかったのだろう。当時は、疲れきった老人ではなく、明るく活発な少年だった。
友人も多かったし、教師の受けも良かった。ただ、どちらかといえばおちゃらけ気味で、学級の盛り上げ役みたいな存在だった。
そんな哲郎が、かつてないほど真剣なオーラを放出しているのだから、水町玲子が驚いても何の不思議もなかった。
早くしなければ、友人が哲郎を野球へ誘いにやってくる。けれど、どうしても告白する勇気が出ない。次の言葉を口にできないまま時間だけが経過し、焦りで額が汗だくになる。
この期になっても及び腰の自分へイラつき、隠れて太腿でもつねろうと哲郎はズボンのポケットに手を入れた。
すると、何かがコツンと指先へ触れた。小さな四角い物体みたいだった。
哲郎はすぐに正体に気づいた。後悔を残していた過去の場面へ連れてきてくれた、例のスイッチだった。
スイッチをくれた老婆の顔がよぎり、人生をやり直すチャンスは今しかないぞと応援してくれてるみたいに思えた。
同時に、駄目だったらまた過去へ戻ればいいのだ。ゲームでいえば、リセットする権限を哲郎は手に入れたのである。
そう考えると急に恐怖はどこかへ消え去り、これまでの臆病さが嘘みたいに口が動いた。
「好きです。わた――いや、僕と付き合ってください」
この頃の小学生が自分を私を呼ぶのは、どう考えても不自然だ。途中で僕と言い直して、哲郎は人生で初めての告白を完成させた。
六十余年の人生において常に受身だった哲郎は、誰かに告白するなんて経験は一度もなかった。
さらに言えば、小学校を卒業して以来は、そうした思い出が極端に減っていた。
業務上必要な会話しかせず、何を言ったらいいのかわからないので飲み会にも参加しない。だが仕事はある程度できるので、会社では意外に重宝される。
そんな哲郎を、誰もがどう扱えばいいか悩んでいた。その結果が、必要最低限にだけ関わるというものだった。
おかげで哲郎の人生には、変化というものが乏しくなった。性欲などは人並みにあっても、風俗へ行く勇気もなく、本当に人とあまり関わらない道を歩いてきた。
小学校までは順調だったが、中学生になってからというもの、それまでの状況が一変した。
小学生当時に仲の良かった友人たちは、ひとりまたひとりと新しい友人を見つけて哲郎から離れていった。
自分に変化をもたらせなかった哲郎はひとり置いてけぼりになり、いつしか孤独が親友となる。
ここで問題なのは、哲郎がひとりでも別に寂しいと思わない点にあった。
兄弟の多い時代の中で、哲郎はひとりっ子だった。しかも両親は共働きである。
単独生活がむしろ当たり前で、苦になるようなことはなかった。
虐められてる風なら、まだ声をかける人間もいただろうが、傍から見てる分には哲郎はひとりを楽しんでるように思えたのである。
だからこそ周囲から放っておかれ、哲郎も自ら輪の中へ加わろうとしなかった。
平気だっただけで、決してひとりが好きだったわけではない。けれど中学を卒業する間近にもなっていれば、そんな発言をしたところですべてが遅すぎた。
その代わりに哲郎は勉学へ励んだ。むしろ、それしかすることがなかったと言ってもいい。寂しい人生だと思われるかもしれないが、おかげで優秀な成績で進学校へ入学できた。
両親も頑張って学費を捻出してくれ、哲郎は大学にも進んだ。トップ合格とまではいかなくとも、入試はたいした試練にならないぐらいの学力を持ち合わせていた。
医者になろうかとも一時期思ったが、血を見るのは苦手なので、結局は銀行員の道を選んだ。超一流のカテゴリーに入る大学ではなかったけれど、そこそこ名前を知られていたところだったので、就職の際も有利に働いた。
当時は中卒者が金の卵ともてはやされ、工場などで働く人間の主戦力を担っていた。哲郎と同じ中学校の学生も、幾人かは高校へ進学せずに就職した。
家計の事情で定時制へ入学し、働きながら高校へ行っていた人間も多かったことを考えれば、哲郎の家庭環境は充分すぎるくらいに恵まれていた。
大学を卒業していた哲郎は首都にある大手の銀行へ就職でき、それなりに仕事もできた。
しかしこの頃になると、決定的に他人とのコミュニケーション能力が不足するようになっていた。
何せほとんど友人も作らずに勉強机へ向かっていたのだ。唯一の心の癒しといえば、漫画雑誌くらいである。
深く他人と関わるのが億劫になっていて、上司に誘われても平然と断ることがしばしばあった。
同期入社した人間がどんどんと出世していく中、哲郎だけは常に同じ役職で同じ部署へ在籍していた。
次第に後輩にも抜かれていくようになり、上司の間では扱いにくい奴とのイメージが定着した。
そしてある日、地方の銀行へ飛ばされたのである。
名目は地方に中央のマニュアルを教え込むというものだったが、要は左遷だった。
役職を一応上げているので、栄転だというのが本部の人間の言い分だったが、それを信じるほどおめでたい頭はしていなかった。
けれど、唇を噛んで悔しがったりはしない。むしろ平然と、哲郎は辞令を受け入れた。
別に働く場所など、どこでもよかったのである。その地方の銀行こそが、定年まで勤めた会社だった。
わずか数分で邂逅が終了してしまうとは、なんとも薄い内容の人生である。哲郎は内心で苦笑した。
だが幸か不幸か、こうしてやり直すチャンスを得た。積極的に望んだわけではなかったけれど、ここまできたら腹を括るしかなかった。
*
「……うん。喜んで……」
いつかの同窓会で、当時の水町玲子の気持ちを知っていただけに、答えは半ばわかっていた。
それでもかつてないドキドキ感で、哲郎の心臓が止まるかと思った。
それぐらいに、初めての告白は勇気を必要とした。
けれど昂ぶる鼓動に不快感はなく、むしろ変な恍惚感さえ覚えた。
一体この気持ちは何だろうと不思議になったが、これが女性へ愛を囁いた最初の一歩となるのだから、その正体に気づけるはずもなかった。
とにもかくにも、目の前にいる少女――水町玲子は、哲郎の告白に最大限の笑顔で応じてくれた。
これで哲郎と水町玲子は、晴れて恋人同士になったのである。
哲郎の記憶が確かなら、この時はすでにすべての授業が終了した放課後であり、学校に残らなければならない理由はなかった。
「ありがとう……それじゃ、一緒に帰ろうか」
本来の人生で経験したことのない感情のせいか、妙に哲郎の気分は高揚していた。
一緒に帰ろうという誘いも自然と口から出て、まるで本当の自分ではないみたいである。
水町玲子は小さく頷き、歩き出した哲郎のすぐ後ろを静かについてくる。
この場に滞在したままだと、間もなくやってくるであろう友人に野球へ誘われてしまう。哲郎の性格上、断れそうもないので、そのような事態になったら盛り下がるのは必至だった。
告白して、良い返事を貰えただけでも充分なのだが、せっかくだから以前の自分と違う道を歩んでみたかった。
そのために、こうして友人が来る前に、通常の歴史では存在しなかった時間を進行させている。
基本的に弱腰で奥手な哲郎が、ここまで大胆になれるのには理由があった。
言わずと知れた、過去へ戻るスイッチの存在だ。老婆から貰ったアイテムの効力が本物だとわかった以上、もはや恐れることは何もなかった。
一時的に傷ついたとしても、再び過去へ戻るのが可能なのだ。つまりは、いくらでも人生をやり直せる。
まさに無敵のアイテムであり、このスイッチがある限り、哲郎の辞書から失敗の二文字は綺麗に消え失せる。
一旦教室に戻ってランドセルを背負ったあと、哲郎は水町玲子と一緒に小学校を出る。
校内にいる間は、終始緊張気味だった水町玲子も、校門を通り過ぎるとリラックスしたように「ウフフ」と笑った。
「知らない間に、私と梶谷君が揃っていなくなってるとわかったら、皆どんな顔をするのかな」
おしとやかな少女だと思っていた水町玲子が、哲郎の記憶にない悪戯っぽい笑顔を見せた。
こんな一面もあったのだなと、新たな発見に嬉しくなる。それもこれもすべて、過去へ戻れるスイッチと、あの老婆のおかげだった。
勉強一筋で彩が不足していた自分の人生に、美しい色を追加できるかもしれない。そう考えるだけで、気持ちがウキウキしてくる。
哲郎が住んでいる街は、発展途上ではあるものの、田舎というほど寂れてはいなかった。
豊かな緑を残しつつも、急速に鉄筋コンクリートの匂いが充満し始めている。
当時の哲郎では見たこともない高さのビルが建ち、未来への道標みたいに思えて、見てるだけで目を輝かせたものだ。もっとも先へ進んだ時代を知ってる今となっては、驚けと言われても無理な相談だった。
そんな街並みの中で、水町玲子の家はそこそこの規模の工場を経営した。
同級生たちに比べても家庭の収入は良く、いわゆるお嬢様タイプの女性だった。
それゆえに人気も高く、哲郎以外にも水町玲子を好きだという男子は多い。そうした事情も知っていたので、当時は振られる可能性が高いと勝手に決めつけ、結果を恐れて告白できなかった。
だが、今さら昔を振り返る必要はない。過去だったはずの時代は、現在という立場になって、哲郎の目の前に存在している。
こうなったら、新たな人生をエンジョイしまくってやろう。落ち着かない不思議な気分のまま、心の中で哲郎は強く決意するのだった。
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