第2話 初恋の少女
老婆の涙を見た瞬間に哲郎は何も言えなくなり、黙ってその背中を見送った。
瞬く間に老婆の後姿は小さくなっていき、間もなく人ごみの中へ消えた。
哲郎の手に残っている小さなスイッチが、これまでの出来事を夢でなかったと教えてくれる。
けれど到底信じる気にはなれず、使用しないまま、哲郎は帰宅する。
自宅へ戻った哲郎は、途中のコンビニで新たに購入した食料を冷蔵庫などで保管する。
明日と明後日が休みなので、その期間の食料をまとめ買いしている。
男ひとりで生活しているため、小型の冷蔵庫を使用しているが、あっという間に満杯となった。
食料をしまい終えてから、買ってきたペットボトルのお茶をコップへ注いで飲む。これでようやく、ひと息つけた。
「それにしても……あの老婆は一体何だったのだ……」
これまたコンビニで購入してきた夕食用のおにぎりを頬張りながら、哲郎は自然にそう呟いていた。
ひと昔前ならあまり考えられなかったが、現代不況においては行き倒れも珍しくなくなってきた。
普段は気にもとめないはずなのに、どうしてか今日の哲郎は柄にもなく人助けなんて真似をした。
それが先ほどの老婆との一件である。行き倒れの老齢の女性へ食料を恵み、それで終了となるはずだった。
けれどその老婆は予想外に、哲郎へお礼をするとあるものを手渡した。
それこそが、テーブルの上にちょこんと乗っている小さなスイッチだった。
老婆曰く、戻りたい場面を想像しながらスイッチを押すと、その過去が存在していればそこへ戻れるとのことだった。
これでも哲郎は真人間として、己の人生を六十余年生きていた。信じるべき言葉と、そうすべきでない言葉の区別ぐらいできる。
今回のケースは圧倒的に後者だ。スイッチを押した瞬間、変な回線に繋がって、多額の請求をされたりなんかしたらたまらなかった。
「そんなアホな話、あるわけがない」
やはり信じられない哲郎は、思い出した老婆の言葉を一笑に付した。
試してみようなんて気も起きず、夕食を終えた哲郎はいつものごとくテレビをつける。
たいして面白くもないが、何の音もないよりはマシだった。
そうしてるうちに夜が来て、いつもと同じ時間に布団を敷いて眠る。
夜中に目を覚ましてトイレへ行って、また布団に入る。それを二度ほど繰り返せば、朝になっていた。
*
布団を片付けたあとで、棚にただポンとあげておいた袋入りの食パンをとる。
六枚入りの食パンを二枚ほど取り出し、安物のトースターの中へ放り込む。十年ぐらい前に購入したものだが、未だに現役で活躍していた。
小気味いい音とともに浮上してきた食パンは、表面がカリカリになって香ばしい匂いを放っている。
誘われた食欲をわずかな時間だけ我慢しつつ、恒例となっている朝のコーヒーを淹れる。
コーヒーは好きだが、本格派ではないので、もっぱらインスタントを利用している。
仮に高級な豆を使ったところで、味覚オンチな哲郎だけに、味の違いなどわかるわけがなかった。
「ふう……」
コーヒーをひと口啜ったあとで、バターを塗った食パンにかぶりつく。一応は高齢の部類へ入ってきたため、最近では使用するバターやジャムの量を減らしている。
これといった目標もないのに、健康へ気を遣ってどうするんだと思いながらも、わが身可愛さにある程度の節制はしていた。
そのためか、最近ではあまり風邪もひかず、大病を患ったりもしていない。同年代の人間と比べても、決して悪い生活環境でないというのは充分に自覚していた。
どのチャンネルに合わせても、同じニュースしかやっていない報道番組に辟易しつつも、普通に生きていける幸せを食パンと一緒に噛み締める。
その際、ふと視界に飛び込んできたものがある。それは、昨日老婆から貰った例のスイッチだった。
昨日から試しもせずに、テーブルの上へ放置されたままだ。せっかく好意で頂いたのだから、燃えないゴミとして捨てるのは礼儀を失する。
朝食を終えたあとで、手にとって過去へ戻れるというスイッチをじっくり眺めてみる。
とりたてて変わったところはなく、単なる玩具みたいだった。
何も持ってなかったが、なんとかお礼をしたいと考えた老婆による精一杯の嘘だったのではないか。哲郎は次第にそう考え始めていた。
適当なところで手に入れたガラクタでも、過去に戻れるスイッチとなれば価値は極端に上昇する。
もっとも、それが本当であればの話だ。最初から怪しいと睨んでいる哲郎だけに、老婆からスイッチを手渡されても、狂喜乱舞したりしなかった。
「そもそも……戻りたい過去なんてあったかな」
バラエティじみたニュース番組を見てるよりは有意義そうなので、哲郎はここで自らの人生を振り返ってみることにした。
ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通の両親に育てられた。
ごく普通に愛情を注がれ、ごく普通に幼稚園や小学校に通った。
「小学校か……」
今の時代の若者から見れば、その頃の時代は物足りないかもしれない。何せゲームもなければ、最近話題になってるような最新鋭の携帯電話なども存在しないのだ。とはいえ、チョコレートなどのお菓子は、普通に買えるようになっていた。
哲郎の両親が子供の頃はもっと大変だったみたいだが、この時代になればそれなりに物資なども揃い始めていた。
漫画もあったし、アニメもあった。当時の哲郎も、現代の子供たち同様、それらの娯楽へ夢中になっていた。
「懐かしいな……」
当時を懐かしんでるうちに、哲郎はひとつの想い出を蘇らせる。
好きだった同級生の女子のことだ。確か名前は水町玲子といった。
夢に出るくらい好きで好きでたまらなかった。いわゆる初恋というやつである。
けれどその頃から度胸のなかった哲郎は、結局想いを告げられないまま卒業してしまった。
以降は別々の中学に進んだため、相手がどんな道を歩んだかはわからない。ただひとつ確かなのは、小学校時代の哲郎と水町玲子は両想いだったということだ。かなり前に同窓会へ出席した際、当時水町玲子と仲の良かった女性が教えてくれた。
その同窓会に水町玲子は来なかったため、本人の口からは聞けなかったが、その友人曰く、水町玲子は哲郎が告白してくれるのをずっと待っていたらしかった。
それを知った夜は、悔しさと情けなさでなんとも言えない気持ちになったのを覚えている。
「水町玲子か……どうしてるんだろうな……」
連絡を取り合う仲でないため、相手の近況を知る術はない。せいぜいが想像して楽しむぐらいである。
もし小学校時代に、水町玲子へ告白していたら、今とは別の人生を歩んでいたのだろうか。そう考えると、なんだか胸がもやもやしてきた。
バカバカしいとわかっていながらも、哲郎はいつか水町玲子と二人きりで、小学校の校庭で会話していたことを思い出す。不思議なもので、印象に残ってるシーンというのは、ふとしたきっかけで鮮明に頭の中へ蘇る。
ここで老婆から貰ったスイッチを押したら、思い出してる最中の時代の自分へ戻れるのだろうか。そこまで考えて、哲郎はフッと笑みを浮かべた。
まるで御伽噺だ。そんなことが、あるはずもない。自分自身のおめでたさに苦笑しつつ、持っていたスイッチをテーブルへ戻そうとする。
――カチリ。
その瞬間、スイッチから音が鳴った。
スイッチへ指をかけていたため、テーブルの上へ置こうとした際に、偶然押してしまったのである。
「何をやってるんだ。私は……」
哲郎がそう呟いた時だった。
周囲の景色が闇に溶けだし、哲郎の視界がグルグルと回転する。
宙に浮いてるような不思議な感触が全身を包み、唐突に夢の世界へでも突入したかのような気分になる。
――何だ、これは。一体何が起こっているんだ。慌てふためく哲郎の周囲は黒一色に染まり、やがてかすかな光が発生する。
不安と恐怖が錯綜する中、今度は大きくなってきた光が哲郎の全身へ覆いかぶさってきた。
*
「……梶谷君?」
誰かに名字を呼ばれ、哲郎はどこか懐かしい声の持ち主を探した。
すると、年の頃なら小学校の高学年といったひとりの少女が、文字どおり目の前にいた。
キラキラと光る瞳には、これまたどこか見覚えのある男児の顔が映っている。
「どうかしたの?」
小首を傾げて尋ねてくる少女。相手の視線や言葉は、間違いなく哲郎に向けられていた。
こんな少女に知り合いがいたかなと考え、声を出そうとした瞬間に異変へ気づいた。
先ほどまで確かに家の中へ居たはずなのに、いつの間にか哲郎は外へ出ている。
それだけでなく、朝晩が肌寒い時期だけに風邪をひかないよう暖かな恰好をしていたはずだった。
にも関わらず、腕や膝下に冷たい風が当たる。明らかに、その部分には何も着ていなかった。
これはどういうことだと自分の姿を確認し、哲郎はぎょっと目を大きく見開いた。
半袖から伸びている自分の腕が、極端に細くなっていたのである。
元々哲郎は太っている方ではないが、あまりに細すぎる。
これではまるで、子供みたいではないか。その考えに辿り着いた哲郎は、またもや驚きで顔を歪めた。
それを見ていた少女が、心配そうに「大丈夫?」と声をかけてくる。
「あ……は、はい。大丈夫です」
自分の口から発せられたのは、まだ声変わりを済ませていない少年のボイスだった。
必死で考えをまとめようとしている哲郎のすぐ側で、少女がクスクス笑い出した。
「本当にどうしたの? そんなに丁寧な口調まで使って……梶谷君じゃないみたい」
銀行員として培ってきた経験が、咄嗟の事態でも丁寧な対応ができるようにしてくれていた。
本来なら褒められるべきことなのに、今は笑われている。それは哲郎が、子供だからである。
信じ難かったが、そう考えればすべての辻褄があった。
そして、哲郎には気になる点がもうひとつ残っている。目の前の少女が、誰なのかということだ。これに関しても、ある程度の予測はついていた。
「ええと……水町玲子さん?」
「なあに? 梶谷哲郎君」
確認のためフルネームで呼んだのを、何かの遊びとでも思ったのか。向こうも哲郎の名字と名前を繋げて口にした。
クスクスと唇に指を当てながら、静かに笑う。その仕草は、とても見覚えがあった。
不意に胸が熱くなり、哲郎はたまらず涙をこぼしそうになる。
まだ信じきれないが、どうやら哲郎は過去へ戻ってきたみたいだった。
しかも、従来の人生で得た知識や記憶はそのままである。
勉学に関してはだいぶ錆びついているが、それでも他の同級生に比べればあらゆる点で有利だった。
周囲を見渡せば、高い山々がある。その真ん中に木造の校舎があり、夕日の光を浴びて情緒豊かに輝いている。
グラウンドからは、部活動をしている少年少女たちの元気な声が聞こえてくる。
正確には現在の哲郎も少年になるのだが、実際に六十余年生きた経験があるだけに、とてもそうは思えなかった。
そしてこの光景には見覚えがあった。例のスイッチを押す前に、哲郎が印象的な出来事として思い出していたシーンだった。
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