第4話 優しい母との再会

「でも、梶谷君が告白してくれるなんて、思わなかった」


 並んで歩く、学校からの帰り道。はにかむような笑顔の水町玲子が、そんなことを言ってきた。


 確かにこの頃の哲郎は、同性の友人と遊ぶことばかりに夢中で、異性――とりわけ好きな女子について考えるのは、その次ぐらいの優先度だった。


 だからこそ思い出の中の哲郎は、水町玲子を気にしながらも、友人からの野球の誘いに応じた。


 誰と誰が付き合ってる。意外にマセてる女子は、そんな会話で盛り上がっていた。


 一方の男子はといえば、そんな話を聞いたら、羨むどころか子供みたいにからかって終わりだった。


 一度大人になって、子供へ戻った哲郎だからこそ、異性への関心が他の男子よりも高いと言える。


「わた――いや、僕……俺?」


 小学校時代の哲郎は、自分のことを何て呼んでいただろうか。悩んだ末に答えは出ず、挙句に相手へ尋ねるという暴挙に出てしまった。


 これを受けて最初はきょとんとしていた水町玲子が、さもおかしそうに吹きだした。


「大人ぶってるの? 付き合ったからって、無理しなくても、いつもどおりの梶谷君でいいよ」

 水町玲子が言うところのいつもどおりがわからないからこそ、失態を演じるはめになった。


 加えていえば、大人ぶってるのではなく、つい少し前までは本物の大人だったのである。


 いわば六十をすぎた爺さんが、子供の口調を真似るようなものだ。小学生の外見に戻ってなかったら、まごうことなき変質である。


 小学校の高学年ともなれば、大人に憧れを抱いて、それこそ背伸びをしててもおかしくない。とはいえ、自分のことを「俺」と呼んでたかと記憶に問いかけてみても、明確な答えは返ってこなかった。


 恐らく「僕」と言ってたのではないだろうか。半ば勘も同然に、哲郎は己の呼び方を決定する。


「そうだね。でも、これが本当の僕だしね」


 社会に長く浸ってきた末に身についた口調が、そう簡単に改まるとは思えなかった。


 そこで周囲に怪しまれようとも、無理のない言葉遣いで自然に振舞い、その状態を本来の自分なのだと言い張ることに決めた。


「本当の梶谷君? それじゃ、普段は仮の姿だったんだ。もしかして、正義のヒーローにでも、変身したりするのかな」


 クスクス笑いながら、小学生らしい台詞を口にしてくる。


 こうして水町玲子と会話してるだけで、当時の感情が鮮烈に蘇る。


 憧れと後悔の対象でしかなかった女性が、小学生ながら恋人として哲郎の隣にいる。


 その事実が、とても嬉しかった。満ち足りた気持ちが、血液に乗って全身を巡り、なんだか体をポカポカさせる。


「それじゃ、私の家……こっちだから」


「うん。また……明日」


 家の近くの十字路。豆腐屋や魚屋が、店先で威勢のいい声を上げている。


 間違いなく、哲郎の記憶の中にあるワンシーンだった。


 記憶と違うのは、水町玲子への告白を成功させている点だ。そのせいか、脳の奥底に眠っていた映像よりも、ずっと美しく鮮やかに見える。


 しばらく名残惜しそうに見詰め合ったあとで、最初に水町玲子が哲郎へ背中を向けた。


 習い事の時間が迫ってるらしく、どうしても家に戻る必要があるとのことだった。


 明日も学校で会えるのだからと哲郎は水町玲子へ手を振り、嬉しそうに頷いたあとで相手も手を振り返してくれた。


 文字どおり童心に返った哲郎は、本当の子供みたいにスキップしながら家路につくのだった。


   *


 木造の一階平屋建て。それが哲郎の家だ。二階はなくとも、敷地面積はそれなりにあるので、家族3人で暮らすのには充分な広さだった。


「ただいまー」


 懐かしい限りのドアを開けて、声を張り上げた哲郎の瞳は両方とも涙が滲んでいた。


 初恋の女性と、両想いになれた嬉しさからではない。夢にまで見た人物との再会を果たせるからである。


「おかえりなさい」


 家の奥から足音を響かせて玄関へやってきたのは、記憶の中にある若かりし頃の哲郎の母親だった。


 専業主婦として家に入り、力の限り夫を支えた。本来の人生ではすでに亡くなっており、こうして再び対面できるなんてまさしく夢みたいだった。


 あまりに信じられず頬をつねってみるが、やはり目の前の光景に変わりはない。生前の母が、若々しい姿で哲郎の前にいる。


 周囲からマザコンと呼ばれたことがあるぐらい、哲郎は母親と仲が良かった。


 実際には父親とも仲が良く、母に対しても家族愛以上の想いは抱いてなかった。


 人間であれば産んでくれた母親と、共に育ててくれた父親に感謝するのは当たり前だった。


 他の家庭はたくさん子供がいたが、哲郎はひとりっ子だった。そのため、母親も特に優しかったのである。


 その優しい母親も、哲郎が高校生の時に若くして他界してしまう。そこからは、父親の梶谷哲也が男手ひとつで育ててくれた。


 母親の名前は梶谷小百合と言い、色白の美人で、若い頃から男性の憧れの的だった。


 本人からではなく、哲郎が大人になった際、酔った父親に教えてもらった。


 思い出には優しげで穏やかな微笑を浮かべた表情しかなく、声を聞くだけで哲郎の両目から涙が溢れそうになる。


「あら、どうしたの。誰かに虐められた?」


 当たり前だが、記憶の中にある母親とまったく同じ声で心配してくれる。


 その事実が嬉しくて、哲郎はたまらず小百合に抱きついてしまった。


 こんな姿を同級生に見られた日には、弱虫だの甘えん坊だのとからかわれるのは想像に難くなかった。


 何でもないと母親に告げたあとで、幼少時以来の温もりを堪能する。


 過去に戻る必要はないと思っていたが、こうして戻ってみれば喜びの連続だった。


「違うよ。僕さ、彼女ができたんだ」


「彼女?」


 彼女と言っても、母親にはあまりピンときてないみたいだった。


「恋人だよ。同じクラスの水町玲子さんさ」


 自慢したくて言ったつもりだったが、報告を受けた母親の片眉がピクンと上がった。


 何事かと思ったが、すぐに普段の優しい笑顔に戻って「水町工場のお嬢さんね」と確認してきた。


「小学生で恋人がいるなんて、お母さん、驚いてしまったわ。哲郎はお父さんに似て美男子だけれど、性格までは似なかったのね」


「性格?」


「ええ。お父さんはね、どちらかといえば奥手だったのよ。だから、お母さんと一緒になる時も大変だったの」


 そう言うと、小百合は昔を懐かしむような顔をした。


 そんな母親の横顔を眺めながら、あと少しで哲郎は「性格も似てるよ」と言いそうになった。


 六十余年の人生を歩いた本来の哲郎には、恋人と呼べる存在はとうとうできなかった。


 小学校の時に機会を逃して以来、ずいぶんと臆病になってしまったのである。


 奥手とも表現できるそうした面は、やはり父子なのだなと妙に納得する。


 一度母が亡くなる前に相談した覚えもあったが、その時は優しく「気にする必要はない」と言われた記憶がある。


 本当に出会うべき人間とは、仮に自ら行動を起こさなくとも、どこかでかならず顔を合わせるものだ。小百合に貰った台詞は、哲郎の心をずいぶんと救ってくれた。


 以降、焦りみたいなのは消え、特に自発的なアクションを起こさないまま歳を重ねた。


 ただし、その結果はなかなかに凄惨なものだった。何せ、生涯独身を達成する直前まで人生を歩いたのだ。そこまで到達すると、今さら異性との出会いを求める気もなくなっていた。


 女性を知らないまま、人生を終えるのも悪くない。そう思い始めた矢先に、例の行き倒れの老婆と遭遇した。


 おかげで哲郎はそれまでの歩みをリセットして、過去へ戻るという選択肢を手に入れた。まさしく、人生の転機となった出会いだった。


 今となっては、その老婆の顔すら思い出せなくなっていた。自らの人生のやり直しによる輝かしい時間の連続で、すっかり記憶の片隅へ追いやられていたのである。


 申し訳なく思いつつも、あの老婆も哲郎が幸せになるのが望みだったのだからと、勝手に推測して理解する。


「それはそうと、今日は宿題ないの? あるのなら、今のうちにやってしまいなさい」


「はい。わかりました」


 ついうっかり、就職してから会得した言葉遣いを披露してしまった。


 水町玲子の時みたいに笑われるかと思いきや、母の小百合は感心したように何度も頷いた。


「哲郎も、そうした言葉を使えるようになったのね。そうやって、私が思っているより、ずっと早く大人になっていくのでしょうね」


 先ほどの哲郎に負けないぐらい丁寧な言葉を口にしながら、感慨深そうにしている。


 従来の人生では、これまた見たことのない表情に哲郎はドキリとする。


 照れ臭さを誤魔化そうと、宿題する旨を告げて、哲郎は自分の部屋へ入る。


 哲郎が勉強しやすいようにと、両親が気を遣って、わざわざ個室を作ってくれた。それが哲郎の部屋だった。


 多少手狭であっても、ひとりになれる空間があるのは非常に大事である。


 勉強机もきちんと用意されており、こうした面でも哲郎の家庭環境は充分に恵まれていた。


   *


「それにしても、すべてこいつのおかげだな」


 流し台に立って、洗い物などの作業をしている小百合に聞こえないよう、小さな声で哲郎は呟いた。


 例の老婆から貰ったスイッチを勉強机の上に置き、まじまじと観察してみる。


 すると、最初見た時は真っ白だったスイッチの裏側に、何やら文字が浮かび上がってるのを発見した。


「ええと、何々……この文字は、スイッチの所有者でなければ見ることができません。スイッチの所有権は、最後に使用した者にあります」


 この文章から察するに、どうやら哲郎がスイッチの所有者となったので、びっしり書かれてる小さな黒文字が見えるようになったらしかった。


 以前であれば「そんなアホな」と一笑に付したところだが、こうして実際に過去へ戻ってきた現在では、とてもそのような気分にはなれない。恐らくここに書かれてることは、すべて真実だ。半ば哲郎は確信していた。


 今読んだ文章以外にも、たくさんの注意書きがされている。


 ――自由自在に過去へ戻れるわけでなく、本人の印象に残っていて、なおかつスイッチが人生の分岐点だと判断した場面に限られる。


「確認する方法は、頭の中でシーンを想像した時、スイッチが輝けば戻れる。そうでなければ、スイッチの効力は発揮されない。なお、最初の一度目に限り、この制約は無効となる」


 思わず「何ィ!?」と声を上げそうになってしまった。


 細かい場面ごとに戻れればより便利なのに、どうしてかこのスイッチはそれを封じている。


 それをするにはキャパシティみたいなのが不足してるのか、もしくはこのスイッチを作った何者かが、わざと制約をつけたのかのどちらかである。


 さらに疑問を覚えたのが、最初の一回目だけ制約がかからないという点である。すなわち、どんな場面にも戻れるということになる。


 これはこのスイッチを使用する上で、最大の魅力となる。にもかかわらず、一度使用してからでなければ、注意書き見るのは不可能だった。


 せっかくのアドバンテージが、使用不可能にされてるようなものである。ここにも、製作者の何らかの意図が働いてるのだろうか。哲郎の疑問は深まるばかりだった。

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