第2話 あやしい二人組
「このカバン、買おうかな。現品限り4割引きですと」
「そろそろカバンぐらい持つべきだから反対はしないけど、公式には今日お休みよ、ここ」
「そうだったのか、だから暗いんだ。それより、隣のコーヒーショップが休みなのはなぜだ。文具よりさらに悲しい」
「うん。宇藤木さんの気に入りそうな、なんともいえない貧相さがあるのにね。さっきはスーパーのすみで立ち飲みだったし」
二人のいるショールームの隣には、ガラスで隔てられた閉店中のコーヒーショップがあった。金属と透明ポリカーボネイトから構成される椅子には、誰も座っていない。
「難波くんからはね、昨晩八柏駅であった転落事故の手伝いに行ってみますんであとはよろしくって」
「逃げたな」
「たぶん。でもこれ、例の渓谷の事件のせいでもあるみたい。難波くんの手柄にしてあげたでしょう、あれでずいぶんご利益があったらしくって、夢よもう一度って、事故をなんでも事件と疑るくせがついたって。ちなみにこの話は安堂さんが情報源」
「おお、それはきっと正確な観測に違いない」
安堂というのは、難波刑事の同僚であり課内庶務を担当する女性である。柔道の元オリンピック強化選手という経歴を持ち、みずるは彼女の護身術教室に参加したのをきっかけに親しくなった。顔の広い安堂は、県庁からの出向組で警察内に心を許せる友人の少ないみずるにとって、絶好の情報源兼相談相手でもあった。
「今回は一応の根拠はあって、ほら、ながらスマホにわざとぶつかる人っているでしょう。あの沿線でも出没情報があって、昨日も見たって声がある。それが難波の狙いらしい。鉄道警察隊の邪魔にならなければいいのにって、安堂さん」
「あいつこそ、無礼に怒った鉄道警察から線路に突き落とされでもしたら、ちょっとは引き締まるだろうに」
「まあね。『初動が大切なんです、だからよろしく』とか聞いたふうなこと言ってたな」
「それで妄想に駆られた刑事は去り、残った使命感の強い我々がここで実のない聞き込みに従事するわけですか」
「結局のところ、マスコミも目をつけ始めた脅迫騒ぎに対処しなくちゃならず、仕方なく人員を配置しているだけで、上はいたずらだろうと目星をつけてはいるのね。それで相手がボロを出すのを待つ間、忙しい制服警官の時間を割かせないため使うべき予備的なスタッフといえば……」みずるは拳銃型にした指先を、宇藤木と自分に当てて見せた。
「昨日一昨日とわたし、仕事に煮詰まってたから、気晴らしにいいわ」
「なるほど。しかしテレワークの世の中にありながら、我々をローラー作戦に従事させるとは、ラクダに潮干狩りさせるみたいだ」
「それ、ちょっと意味がとりにくいんだけど」
「うん。自分でも口にして失敗したと思った」と、宇藤木は認めた。
たっぷり待たされてから、ようやく事務服姿の女性を引き連れた、熟年男性が登場した。ロマンスグレーの髪の毛に、なかなか粋な、明るい色の背広を身体にフィットさせている。
遅れを詫びる彼の名刺には、梶浦という名と総務部長の肩書が記されてある。
みずるが、脅迫事件のためにこの通りにある事務所を軒並み回り、聞き込みと注意喚起を行っていると説明すると、梶原部長は彼女たちがさも困難なミッションをこなしているかのように苦労を慰謝してくれた。ただ、二人のさげている「特任」の文字のあるネームタグが気になって仕方ないようで、ごく控えめに質問を発した。
「よく見ておられます」すかさず宇藤木が持ち上げた。
あ、詐欺師モードに入った、とみずるは見ていた。彼はカウンターに長い腕を置いて相手を見下ろし、本来なら特殊捜査専門の自分たちがやってきたのは、厳しい環境下で苦難にもめげず現場に踏みとどまる勇気ある方々、すなわちあなた方に最善を尽くしたいためだなどと口走ったのを皮切りに、手不足を極める現在の捜査状況について、さっきみずるから教わったばかりの八柏駅階段で発生の女性転落事故も加えて説明していった。横で見ているみずるにも、いやおうなく梶原部長の顔が共感の渦に巻き込まれて行くのがはっきり見てとれた。
(ああ、気の毒な。また被害者みっけ)
今後の経済再生についてひとまず語り終えたところで、宇藤木の手を取りそうになった梶原部長は、はっと気がつくと動きを止め、その代わりに二人で仲良くカウンターに置かれたアルコール消毒薬を手にすり込んだ。さっき済ませておいたみずるは、手荒れを避けるために今回はやめておいた。
「もう直ぐ飲み物がきます」当初、カウンターで二人を撃退するつもりだったらしい梶原部長は、今では上機嫌でパーテーションで区切られた面談室にふたりを座らせ、コーヒーを発注して、雑談をはじめた。
本日二回目のコーヒーを、宇藤木はうれしそうに待っている。
こんなアルコール中毒の詐欺師の話、なかったかなとみずるはしばし考えてから、ここに来る前のスーパーで100円コーヒーをピエールに注入したのが、かくも効果を発揮するとは思わなかった、と胸の内でつぶやいた。
久しぶりという外出のせいか、やけに嬉しそうに宇藤木がスーパーマーケットの店内を見て回るので、思いついてレジのそばで売っていた、こちらも100円台の小さな菓子を一緒に求めておごったのだったが、考えるに、どうもあれが彼の口舌の回転力を加速させているらしい。
彼にとっての糖分は車に対するNOS以上だ。今度からこの手でいこう、と彼女は考えていた。
「ほかに、なにかお知りになりたいこととは」自身の東京勤務時代について語り終え、プラカップで出されたコーヒーを飲んでから、梶原部長は言った。当初とは違い、ふたりに向ける視線がすっかり暖かい。
「そうですねえ、脅迫に類いすることはなかったとおっしゃいましたが、社員の方々のうちにおかしな出来事とか、不審人物に気がつかれたとか、聞いておられませんでしたか」
ようやく本題に入れてほっとしたみずるの言葉に、梶浦部長は、
「実は私、この支社にきて間がなくて」と肩透かしを喰らわせた。「もっぱら東京におりましたからね。なに、部下にこの地で働いて10年になる事情通がいますので、ちょっとお待ちくださいね」と言って振り返り、「おーい、横川クーン」と呼んだ。
やってきたのは、マスクをきちんとつけた男性だった。髪は七三分け、目尻のシワも勘案すると三十代後半から四十ぐらいだろうか。体格は中肉中背、眼鏡の奥からこちらをうかがう目つきは、やや神経質そうにも見える。
梶浦部長による説明を聞いていた男の目に、途中ほんの一瞬動揺が走って、こっちを嫌な感じでチラ見したようにみずるには思えた。
それは、部長が八柏で起こった若い女性の転落について伝えたときだった。
みずるが変だと思うぐらいだから、センサー人間みたいな宇藤木ならきっと感じているだろうと横目で見たが、マスクのせいか目立った変化は探り当てられない。
しかし、続けて聞いた内容はいつもの宇藤木らしく、ちゃんと応変していた。横川のスーツの趣味をほめ、このあたりには自分はたまにしかこないと言いつつ電車の混む時間帯を聞き、
「すると横川課長は、いつも何時ごろ出社なさいますか」と続けた。
「はあ、八時前には会社に入ります」
「閉店とか、時差出勤の動きがあっても、電車は混んでいませんか」
「そうですね。私の通勤に限ってはそれほど激しい変化がありません。減ったのは学生ぐらいかな」と答えた。だが、宇藤木の質問に不審を感じたのか、わずかに語尾が震えていた。
すると宇藤木は前触れなく、「八柏駅で怪我をした女性はどうなったのかな」とみずるに対して聞いた。
「意識不明の重体で集中治療室にいらっしゃるそうですよ」とみずるは返した。今回の横川課長に目立つ変化はなく、宇藤木はただ優雅にマスクをちょっとずらして、コーヒーを口に運んだだけだった。
そのあとまた、今日の主題である近隣の不審人物などについて再度聞きつつ、「また、気になったことなどあれば、お知らせください」と立ち上がったが、いつものように宇藤木が直接連絡をとるつもりはないらしく、仕方なくみずるが業務用の連絡先を教えた。
外に出ると、待ち兼ねたようにみずるは、
「ねえ、あの人おかしいと思ったんでしょう」と聞いた。
マスクのままの宇藤木は、かすれた音を立てて息を吸ってから、「プハー」と勢いをつけて吐いた。
「わからないよ、スターウォーズ」
「ベイダー卿って言ってちょうだい」
「なんでもいいよ。さっき、ピンときたんでしょう。わたしですら変だと感じたもの」
「彼から、ダークな情熱の燃え上がった痕跡を感じた。ただ、炎はやんで、いまは燃えかす。今朝の仕事のせいとも考えにくいから、もはや暗黒面に落ちて、立派なダークジェダイになったに違いない」
「探偵さん、おっしゃる意味が、よくわかりません」
「ともかく挙動不審だったね。最初、もしやこいつが脅迫犯かと思わないでもなかったが、それだとしっくりこない。ところが、不審な態度に女性の大怪我した事件をあてはめると、見事にぴたっと当てはまって感じる。結論。あいつ怪しい」
「うーむ、我々以外を納得させる根拠がまったくないよ」みずるが腕を組んでみせると宇藤木は、「信じるものだけが救われる」と言いつつ、「実は、さっき彼のスーツの後ろ襟に小さな花びらのかけらが付着していたのが見えた。それも二つ」と明かした。
「赤いマンサクだと思う。あれ、ここの駅の周辺にはなくて、彼の最寄駅の北見台にはあったはず。あそこの駅前ビルの食料品売り場はなかなか面白くて、ときどき足を伸ばすから知っているのです」
「さっき、彼を追求すればよかったじゃない」
「あまりにベタな観察結果なので、口にしかねていた」
「なによ、それ。でも、花が付いていたらなにか悪いの。自分の最寄り駅でしょう。八柏駅にしかない花ならともかく。『おやっ、これは世界でも八柏駅周辺にしか咲かない特殊な高山植物じゃないかっ』とかだと都合がよかったのよね」
宇藤木は眉毛だけを上げ下げした。
「すなわち、横川氏はラッシュに揉まれてないと見たわけです。いくら時間差出勤のこのご時世でも、二つも付着したままなのは、よほどのことだと思った」
「つまり宇藤木さんのお見立てだと、彼は普段より早く出社し、それを知られたくないと考えているってこと?」
「その通り。むろん、最も注目したのは和気さんと同じく彼の目つきと顔色。犯罪者としたら、あまり肝が太くはないよね、彼は」
「うーん。言いたいことはわかっても根拠が弱いな。単にでかい男が苦手で怯えたのだったらそれで終わりよね。子供の頃、大男に噛まれた記憶があるとか」
「わたし、野犬ではありません」
「それとも駅の防犯カメラ映像でも調べる?北見台駅って結構大きいから、彼を確認するなんて大変だぞ。八柏はどうかな」
「そんなのやめておこう」宇藤木はぶるっと身震いした。
「それが語るのは単なる可能性だし。それより、横川氏と怪我をした女性とのかかわりを調べてから、少し『揺すぶってみる』のもいいかもね。焦ってなにかやらかすのを祈りつつ」
「でも今日の宇藤木さんは、やる気があるなあ」
「おそらく、さっきのシベリアがわたしの心に火をつけたに違いない。これぞまさしく、シベリア 超特急だ」
「130円のお菓子で燃え上がるとは、なんと安上がりかとは思うけど、まあいいわ。気の毒な女性のために一肌脱ぐのも決して悪くない」
「よし。つまらないローラー作戦にも価値はあったと思えるように、悪党に出会したこの偉大な偶然を尊重し、掘り下げてみよう。あと。お昼はコーヒー付きの定食がいい」
「お店、みんな休みじゃないかな?」
相談の結果、二人はとりあえず難波刑事に連絡をして、聞き込み先の情報を得ることにした。
八柏駅の階段から転落し、意識不明の重体となっている加藤彩は、高級車販売店に正社員として勤め、8年になる。
二人はとりあえずそちらに向かったが、宇藤木が反応するほどのめぼしい情報は見当たらなかった。
彼女に対する意見としては、美貌に加え会話のそつのなさ、客あしらいのうまさを評価する声は多かった。しかし、事故で重傷を負った同僚についていきなり聞き込みにいけば、返事はしょせんこの程度だろう。
ただ、宇藤木にマスクを外させ、例の洗脳スマイルを振りまかせたところ、目を輝かせてくれた女性の同僚のひとりが、上司の目の届かないところでポツリと、
「彼女ってもてるし、ね……」と漏らした。また、気さくな人柄のようでいて、案外私生活に関して明かさない、正体が知れないとの声もあった。
そこで、唯一職場でも名の知られた友人である寺本遥のもとへ回ることにした。寺本は加藤の緊急連絡先リストでは筆頭に挙げられた人物だった。
仲のいい女友達だという。彼女もまた、独身だった。
連絡すると、昨晩は加藤に付き添って病院で過ごしたという彼女だったが、今日は客が少ないから大丈夫と言って、こころよく聴取に応じてくれた。
二人は、寺本の働くファッション雑貨店へと向かった。
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